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○○作家の鉄板めし ~地獄の釜を囲んで獄卒と~  作者: 中村ねり


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十一月はじめの水曜『蕩心のチーズダッカルビ』~参話・前編~

**********

  重なる肌のあわいに湿った熱がとろりと沈んでゆく。

  絡み合う手と手が互いにまるで命綱のようだ、と散り散りに思う。

  鼻に馴染む匂いも、少しかさついた肌の手触りも。

  耳元に吹き込まれる吐息も、切なく掠れた声も。

  押し寄せる昂ぶりに溶かされ押し潰されて、深く、もっと深く、

  柔らかな内奥へと刻み込まれてゆく。

  じわじわと濃くなる宵闇のなか、部屋に満ちる密やかな水音が

  次第に高まり――



 ――シュッ、シュッ、シュッ、ゴシゴシッ!


「いや待って」


 ――シュッ、シュッ、ゴシゴシゴシッ!


「たしかに水音だけど……!」


 さっきからしきりに響いているリズミカルな音は、千寿が風呂場で釜の蓋を洗っているブラシの音だ。

 なんだか一気に所帯じみた。


「駄目だ、ちょっと休憩」


 芽衣はキーボードから手を離し、うーんと伸びをした。

 窓越しに見上げる空は高く、澄んだ青空に淡く尾を引く飛行機雲が流れていた。


 十一月に入り、めっきり日が短くなったのを感じる。朝夕の冷え込みも厳しくなって、少々建て付けの悪くなった掃き出し窓から吹き込む隙間風に震えながら、例年ならば暖房のスイッチと財布の厚みとの競争が始まるころ――なのだが。

 今年はいつもと違う。なにせここには無料の熱源が鎮座しているのだ。


 そう、黒光りするアレ。地獄の釜である。

 鉄板調理もできるし、弱めに温めてもらえばほんのり暖房にもなるし。少々邪魔であることを除けば、なんとも便利なものだと最近になって気がついた。

 主に光熱費という点で。


 ついでに言うと、今もせっせと釜の蓋を洗っている釜の管理人も、なかなか便利……と評しては言葉が悪いけれど。

 嘘か誠か不明なれど、自称、地獄の獄卒。名は千寿。

 触ったことがないから本物なのかどうかはわからないが、きっと本物だろうと思われる二本のツノが頭についた、やたらと麗しい鬼だ。


 文明の進歩に相当の隔たりのあるらしい世界からやってきたにも関わらず、本や漫画やネットの海から拾い集めた現代知識を着々と身に着けて、白物家電は完璧に使いこなすハイパーな鬼に進化している。

 だけでなく、このところはどうも若干〝おかん〟気質が顔を覗かせはじめた。


 たぶん、あれは素だろう。もともとそういう気質なのだろうと思われる。

 ちょっとでも散らかしているとすぐに片付けられるし、あらゆるところを毎日せっせと掃除してくれている。

 そして当然のごとく、汚しっぱなしにしていると怒られる。


 誰の家だと思ってる? なんてことは、もちろん口にしない。

 若干うるさくはあるが、まあ助かっているのも事実なので。こちらはありがたく、粛々と従うのみだ。


「芽衣よ」


 浴室から千寿に呼ばれて振り向くが、見えない。

 そうだった、釜が邪魔で向こう側はまったく見えないのだった。

 こればかりは何故かもう一月以上経つのに慣れず、毎日同じ「そうだった」を繰り返している。ほんとうに不思議だ。


「なぁに?」


 立ち上がって釜の横から覗くと、浴室から千寿がひょいと顔を出している。


「洗剤がなくなったのだが」

「買い置きなかったっけ?」

「見当たらぬ」

「あー、おっけー。買ってくる」


 ついでに食材の買い出しもしておくかと、反対側の釜の陰に回り込んで薄手のコートと鞄を手に取った。


「明日でも構わぬぞ」

「牛乳もないし、卵も買いたいし、ついでに行ってくるよ」


 釜の横をすり抜けてダイニングへ出ると、洗い物を終えた千寿が浴室から出てきたところだった。

 艶やかな黒髪を無造作に結い上げ、水仕事をしていたからだろう。不思議に和風な装束の袖を肘までまくっている。

 剥き出しになった腕には細身のわりにしっかり男らしい筋肉がついていて、滑らかな肌との対比が嫌になるほど色っぽい。

 ただし、両手に持っているのがタワシと洗剤なので、その魅力は半減しているが。


「他に必要なものってある?」


 そう訊ねてみてから、何気なく口にした。


「ていうか、千寿も一緒に行く?」


 その瞬間の劇的な変化は、まさに目を見張るほどで。


「よいのか⁈」


 効果音がつくかと思うほど、ぱぁっと千寿が顔を明るくした。


「お、おぅふ……目が潰れるかと思った……」


 あまりに尊すぎて。

 麗しい男が子どもみたいに目を輝かせて満面の笑みを浮かべたら、どうなるか。想像してみてほしい、それを至近距離で拝んでしまったら、どうなるか。

 思わず仰け反った芽衣だったが、すぐに体勢を立て直してくるりと部屋の奥へと踵を返した。


「まあさ、ここは中野だしね。コスプレだと思えば、どんな格好でもいいと思うんだ。頭のツノだってさ、よくできたフェイクだと思えばね。ただ、その服はいかん。露出っぷりがけしからんだけじゃなくて、外に出るには寒すぎる」


 別居中の夫の荷物などまるで持ってきていないのだが、共有で買って気に入っていたコートを二枚ほどちょろまかして……いや譲ってもらってきたのがある。

 一旦鞄を置いて、押し入れをごそごそと探って目当てのものを引っ張り出した。


「うぉっ!」


 振り向くと、目と鼻の先に顔があった。


「なんぞ?」

「いや、思ったより近くにいてびっくりしただけ」


 至近距離でも麗しい鬼の顔は、肌までちゅるんと美しい。そしてほんのり清潔な良い匂いがする。洗剤の。

 思わず仰け反りつつも、芽衣はわくわくした様子を隠さない千寿にコートを差し出した。


「これ着てみてよ。ユニセックスだからサイズも大丈夫だと思うんだよね。どうかな?」

「ふむ。なんとも妙な手触りの羽織りだな」

「絹と比べないで。ポリエステルは文明の進歩の証だよ」


 布面積はさほど大きくはないのだが、さすが地獄で一番お偉い方の使い走りをしているだけあってか、千寿の装束はどうやら絹らしい。何気なく触ってみて、シルクの手触りと、それを無造作に着ている鬼の頓着のなさに仰天したのだった。

 が、それはさておき。


「お、結構似合うじゃんね」

「ふむ。悪くない」


 ミリタリータイプのコートなのだが、結局は顔か。それとスタイルと。まったく不自然さもなく、さらりと着こなしている。

 さすが高顔面偏差値め。

 当人も、満更でもなさそうだし。


「頭はまあ、気になるようだったらフードを被っておけばいいよ」

「我は気にならぬが、人の世ではいかがなものか?」

「……一応フード、被っとこうか」


 いずれにしても目立ちそうだが、多少の目くらましくらいにはなろう。


「じゃあ、行こうか」

「うむ!」


 窓を開けたこともあったし、そこから表を眺めたこともあったけれど、やはり自分の足で外に出ると心持ちも違うらしい。

 玄関から一歩踏み出したところで立ち止まった千寿はまじまじと周囲を見回して、言った。


「なんと殺伐とした、恐ろしき世界よ……!」

「地獄の番人がそれ言う⁈」


 いや、普通の住宅街なんだけど。

 思いがけぬ感想に驚いていると、千寿の眉がへにょりと下がった。


「それにしても寒いな……」

「えぇ? 今日は温かいほうだよ?」

「なんと、これで温いとは! 身も凍るこの冷気、まるで八寒地獄のようではないか」

「あー、なるほど。そういう生態か」


 思えば千寿は、熱に強い。ということは反対に寒さには弱いということなのかもしれない。

 芽衣の脳裏に浮かんだのは、ハワイから来た観光客が青森の寒さに驚愕して震えている図、だ。

 おそらく、当たらずとも遠からずだと思う。


「しょうがない。一旦、撤収!」


 玄関のドアを開けて、芽衣は千寿を押し込んだ。


「コート、チェンジ。ダウンにしよう」


 先ほど選ばなかったもう一枚のコートを押し入れから取り出し、着替えさせる。ついでに、スキーに行っても問題ないくらいもっこもっこに温かいニットキャップを、ぐいぐいと耳の下まで届くように深く被らせた。

 季節を先取りしすぎている防寒ルックだが、背に腹は代えられない。ツノも目立たなくなったし、一石二鳥だと思おう。


「うむ。温いな」

「よし、じゃあ気を取り直して出発!」


 辺りを見渡してはあれやこれやと訊ねてくる千寿は、まずアスファルトの踏み心地に驚き、十字路のカーブミラーに身構え、マンホールをまじまじと観察して、とカルチャーショックの実体験を非常にわかりやすく実演してくれた。


「そういえば、獄卒の仕事は使い走りみたいなものって言ってたけど、具体的には何をするの? 釜の管理以外では」

「ふむ、たとえば焦喚地獄で亡者を炙るための鉄串を磨いたり、血の池に浮いた肉片や臓物の切れ端を網で掬い取ったり、針の山から抜けなくなった亡者を引き剥がして次の者が落ちてくる場所を空けたり、皮剥ぎの刑で出た――」

「あ、ごめんわかった、もういいや」


 爽やかな秋晴れの空の下、ご近所の家の軒先で揺れるコスモスを眺めながら聞く話では絶対にない。

 千寿にとってはただの労働なのだろうが、現代日本では即通報案件である。


 そうこうしている間に、行きつけのスーパーに辿り着いた。


「絶対に必要なのは牛乳と卵と洗剤ね」

「うむ……」


 返事だけで着いてこない千寿を振り返ると、なにやら入り口できょろきょろしている。


「どうした?」

「いや、どこぞに門番が」

「いないね。自動ドアだから」


 ほら行くよと急かすと、曖昧に首を捻りつつも追ってきた千寿が今度はぶるりと身を震わせた。


「なんという冷気! もしやここは、氷の責め苦を受ける亡者どもの」

「違うね。すぐそこが野菜売り場だから冷房が効いてるだけね。はい、カート押して」

「……うむ」


 素直に押しつけられたカートを押しつつも、千寿の目線は忙しなくあちらへこちらへと彷徨っている。

 カルチャーショックの実体験には終わりが見えないが、いちいち気にしていたら永遠に家に帰れなくなりそうだ。芽衣はもう気にしないことにして、ずんずんとスーパーの中を進んだ。


「野菜も買っておかないとね。……というか、今日のごはんはなんにしよう。なにか食べたいものある?」

「なんぞ温もるものが良いな。――む、この野菜はおぬしが買ってきたのを見たことがあるぞ。これもあるな。これは芋か。地獄にも似たものがあるぞ」

「キャベツと玉ねぎね、それはさつまいも。名前も同じ?」

「あちらでは甘藷というな」

「ああ、甘藷先生の甘藷か」


 江戸時代にさつまいもの栽培を広めた青木昆陽が「甘藷先生」と呼ばれていたというのは、どの授業で習ったのだったか。忘れた。


「さつまいも、買って行こうかね」


 芋を見つめる千寿の目線がなんとなく物欲しげだったので、ばら売りの二本ほど大きめのものを選んでカートに入れる。


「そんで、身体が温まるもの、かぁ。鍋とかシチューとか……」


 どちらも悪くはないのだが、正直そこまで寒くないし、いまいち今日の気分じゃない。


「忘れちゃいけない、貧乏人の救世主。もやしは買うとして」


 千寿が目を留めた玉ねぎは常備野菜として必須なので買っておく。キャベツも、あれば使えるので半玉。そしてもやし。

 ベーコンかソーセージを入れてポトフにでもするかなと思いながら、何気なく手に取ったニラをカートへ入れて次のコーナーへと進む。


「なんと、赤い漬物ぞ」

「キムチね。そういえばしばらく食べてないけど、韓国の国民食だよ」


 以前、興味があって調べてみたことがあったのだが、キムチという名前の由来は、沈菜チムチェ――野菜を塩水に沈めたもの、がなまったものなのだそうだ。

 そのままだな、と思ったので憶えている。

 ちなみに、唐辛子が朝鮮半島に伝わったのは十六世紀頃らしいので、キムチの元祖は実は赤くも辛くもなかったのだとか。


「キムチ……キムチね。豆腐と……チゲ鍋……?」


 ぶつぶつ呟きつつ、ちらしと流し見たカートの中にニラを見つけた。


「あれ、なんでニラ入れたんだろ」


 完全なる無意識なのだが、スーパーに行ったときのあるあるだ。

 芽衣だけかもしれないが、ニラ買いがち問題。


「ニラね、ニラ……と、キムチ」


 チゲ鍋も好きなのだが。

 ほんのりと血の池地獄を連想してしまったため、今日は却下だ。

 具材が食用じゃない肉片や臓物の切れ端に見えてきてしまいそうなので。

 キムチは、まあいい。なにかと使えるし、千寿が興味を示しているので、これもカートへインしておこう。


「うーん、決まらないなぁ」

「肉でも良いぞ」

「それは大賛成だな」


 精肉コーナーまでやってきたところで示し合わせたみたいに足が止まる。


「予算的には鶏か豚なんですけどね、千寿さん」

「ふむ。我はいずれでも構わぬぞ」

「じゃ、お得シールがついてる鶏にしよう。とってもラッキー、三十パーセント引き」


 お得シールとはなんぞや、というのを千寿に説明しつつ、カット済みのもも肉ジャンボパックを二パック手に取る。

 食べきれなかった分は冷凍庫行きだ。


「あ、そうだ!」


 キャベツも玉ねぎもニラも、それにキムチも鶏も、全部一緒に食べられる料理を思いついた。


「ダッカルビ! 贅沢しちゃおう。チーズダッカルビ!」

「呪文か?」

「んなわけあるか! わたしニンゲン、ヨウジュツ、ツカエナイ」

「ふむ」


 ダッカルビとは、言わずと知れた韓国の料理である。

 ダッが『鶏』で、カルビはたしか『あばら骨周辺の肉』という意味だったはず。

 あちらでは骨付き鶏をよく食べるみたいだけれど、今日は安くなっているのがもも肉なので、それで代用する。というか、日本ではもも肉で提供されている店が多い気がする。ダッカルビ。


「で、大事なものを買いますよ。チーズね!」

「ほう。その細切れの様子はなにやら――」

「ストップ! 亡者の喩えはもうお腹いっぱい」


 またしても物騒な喩えを持ち出しそうな気配を察知した芽衣は、急いで千寿の口を塞いだ。


「あいわかった。して、ちーずとは、なんぞ?」

「食べたことあるよ。スライスチーズだけどね」

「ああ、あれか。腐った牛の乳な」

「言い方! 発酵ね、腐ってないから」


 赤札のついた大袋のシュレッドチーズを、こちらも二袋カートへ入れる。

 チーズダッカルビにおいて、チーズは多ければ多いほど正義なのだ。


「メニューも決まったし、そろそろ帰ろうか」

「うむ。……芽衣よ」

「わかってる。わかってるから、とりあえずその殺気をしまって!」


 先ほどまでせっせと掃除をしていたし、ここに来るまでの道中も彼にとっては大冒険だったことだろう。そりゃあ腹も減る。

 が、剥き出しの鬼の殺気は常人にはきつい。芽衣はそろそろ慣れているが、そんなものを振り撒かれた日には、これまた通報待ったなしである。


「昨日読んだ本のあらすじを一万二千文字ぴったりにまとめて、私が読みたくなるように、食事前までにプレゼンせよ。きっちり文字数も数えること!」

「む、それは難解な……」


 ひとまず難しめな課題を与えることで気を散らしておいて、一刻も早く獰猛な胃袋に贄を与えねばならぬ。

 保存の利く特売品をいくつか見繕い、それから忘れずに牛乳と卵も購入してスーパーを出た。なかなかに重くなったエコバッグは、指折り数えながら「あえて防御力を切り捨て、全能力を物理攻撃に極振りした主人公の苛烈なる生き様に刮目せよ……ふむ、これで四十二文字か」だとか「かつての宿敵が最大のピンチに駆けつける第三章の激熱な展開は、必ずや血の通わぬ亡者どもの心をも震わせるはず……」とか、ぶつぶつと呟きつつも紳士な千寿によって軽々と担がれ帰路についた。


 当人はやる気だが、果たして一万二千文字は脳内のみで数えきれるものなのか?

 甚だ疑問ではあるものの、眠れる獅子は起こさないほうが身のためだ。

 漏れ聞こえてくるフレーズからしてどの本をプレゼンするつもりなのかはわかってしまったが、それはもう読了しているということも、重ねて黙っておく。


 アパートに戻り、室内に入ると千寿が特大の溜息をこぼした。


「やはり我が家……いや、釜の傍が落ち着くな。この熱気よ」

「あっつ!」


 釜に向かって手を翳した千寿がなにかしたらしい。不意に熱くなった蓋の隙間からジュッと蒸気が噴き出し、芽衣は飛び上がった。


「ちょっと! 私を丸焼きにするつもり⁈」

「む、すまぬ。おぬしはあまり食いでがなさそうだからな、焼くのはやめておこう」

「妙にリアルなの、やめて」


 鬼と人の間で交わされるヘル・ジョークは冗談がすぎる。


 手を洗い、うがいをして。コートを脱ぎ、保存用の食材を各所にしまって。わちゃわちゃと動き回りつつも用意を整えて、芽衣は包丁を握った。


「さ、作るよ!」


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