第四十九話 記憶の川
意識が戻り、ゆっくりと目を開ける。視界に映ったのは、異様に膨れ上がった女の死体だった。
「……何、これ?」
思わず呟く。ここはどこ?それに、私は……誰? 何も思い出せない。名前も、過去も、何一つ。
ふらつきながら立ち上がり、近くの水たまりを覗き込んだ。そこに映っていたのは――先ほど見た“あの女”の顔だった。
「……私が、この人?」
そう口にした瞬間、胸の奥がざわついた。大切なものを失ったような、ひどく空っぽな感覚。けれど、それが何なのか分からない。
「……」
なぜか、その死体から目を離せなかった。理由も分からないまま、私はその死体を抱き上げた。
「……行かないと」
どこへ行くのかも分からないまま、私はその場を後にした。しばらく歩き続けると、一つの川に辿り着いた。透き通る水。川底まで見えるほどの透明さ。静かで、どこか現実感のない光景だった。
その岸辺に、耳が尖った一人の女が立っていた。
「……こんにちは」
声をかけると、女はゆっくりとこちらを振り向いた。
「……人間?」
感情の薄い声だった。
「えっと……あなたは?」
「女神様の使い魔である精霊です」
精霊。言葉は知っている気がする。けれど、それ以上は何も浮かばない。
「……この川は?」
私がそう尋ねると、精霊は川へ視線を向けた。
「女神様が遺したものです。この水を飲めば、記憶を呼び覚まし、魂を浄化することができます」
「魂の浄化って?」
私が問いかけると、精霊は静かに答えた。
「負の感情を払い、本来の自分へと戻ることです」
「本来の自分……」
その言葉が、胸に引っかかった。
「……もっとも、年々その力は薄れていますが」
精霊はどこか悲しげにそう言った。
記憶を呼び覚ませるのなら――私のことも分かるかもしれない。私は川に手を伸ばし、その水をすくって口に含んだ。
「……っ、うっ……!」
次の瞬間、強烈な吐き気が体を襲った。
「おえっ……!」
耐えきれず、私は水を吐き出した。吐き出した水が、抱えていた女の死体の顔にかかった。
心臓が痛い。まるで――この水を、魂そのものが拒絶しているかのようだった。
「……お前、邪神の眷族か」
精霊の声が、低く変わった。
「……邪神の、眷族?」
言葉の意味を理解する前に、水が鋭く形を変えた。
「――女神様」
水が頬を掠めた。遅れて、血が流れた。
「仇は、私が討ちます」
次の瞬間、水が一直線に伸び、私の胸を貫いた。
「あ……」
声にならない息が漏れる。胸を触ると、大量の血が手に付いた。
「聖なる水は、邪神には毒……愚かな眷族よ。安らかに眠りなさい」
精霊の声が、どこか遠くに聞こえる。
視界が揺れる。力が抜ける。意識が途絶えそうになったその瞬間、抱えていた死体が、淡く発光し始めた。
次の瞬間、記憶の断片が勢いよく私の頭の中に流れ込んできた。薄暗い研究室。悪魔を殺すための過酷な訓練。一度敗北し、血を流しながら逃げ延びた夜。助けてくれた老婆。多くの神々との出会い。そして、赤い霧に包まれた城へ向かわなければならないという強い使命感。――名は、ルイーナ。
……これが、私の記憶?
思考がまとまらないまま、視界が急速に暗くなっていくそこで、意識が途絶えた。




