王と妹
ノワールの国王ヴィンセントは、メイヴィス・ラングラーと名乗る女の素性の調査を命じた。
オルティエの王太子妃が決まっていないことは知っていたが、許嫁のような存在があることは知っていた。だが、まさかそれ以外に妃候補がいることなど知りもせず、若い女が国の宝を身につけていれば、それがクリスタ・オルセンだと決めつけていたのだ。
「兄様……怒るのもわかるけど、侯爵令嬢様は何も悪くないんだから傷つけるのはやめて」
妹に正論で諭され、イライラを隠せない兄は無視をするのが精一杯である。
「あの娘はどうしている?」
尋ねると、妹は困ったように目を伏せた。
「んー……ずっと部屋にこもってる。寝込んでるみたい」
「なぜ? 体は良くなったはずだろう?」
部屋にこもるだけならまだわかるが、寝込んでいるのはわからない。さらに質問を投げると、妹は肩をすくめた。
「そうなんだけど……食事は摂らないし、横にはなっているけど眠れてはいないみたいで」
食事が口に合わない、枕が変わって眠れない。妹の様子から、その程度の理由ではないことはわかる。
「環境の変化によるストレスか? ロージーは何をしている?」
「もちろんロージーは侯爵令嬢様を気にかけてるよ」
侍女へ非難を向けると、妹は慌てて庇う。
「では何が原因だ?」
妹は言いにくそうに口を開けては閉じている。そうしてやっと出てきたのは、想定外のセリフであった。
「……侯爵令嬢様は、悪夢で苦しんでいる」
「悪夢?」
様々な理由とその解決法を思案していたが、それら全てが崩れ落ちて塵芥になる。
「何が悪夢の原因かはわからない。でも、もう三日は寝てないみたいで……」
湖のそばで倒れていた女は、あれから一週間ほど眠っていた。それだけ眠っていれば多少眠れなくなってもそれほどおかしくないのではと思うが、事態は深刻らしい。
「薬を出せばいいか?」
「言うだけなら簡単だけど。体に合う合わないもあるし、元々お体も弱そうだから調整は絶対だわ。睡眠剤を出したとて、強すぎたらそのまま死ぬわよ」
「わかっている」
それは、容易に想像できた。
「それより兄様。侯爵令嬢様から奪ったものがあるでしょう」
一瞬何のことかわからなかった。ヴィンセントは人質であるメイヴィスに部屋も衣類も食事も与えた。部屋に閉じ込め、自由を奪っているわけでもない。だが一つだけ奪い、返していないものがあった。
「……ああ。あのブローチか」
「返してあげて」
「それはできない。あれはあの娘を逃さないための質だ」
「……兄様。どれほど元気になっても、侯爵令嬢様は逃げ出さないよ」
「確かに、逃げ出したところですぐに捕まえられるだろうな」
「そうじゃなくて……」
「何だ」
「陛下。失礼します」
会話を遮り、執務室に入ってきたのは王の側近だ。メイヴィス・ラングラーの素性を調べるようにと命令した。
「ヴィオラ殿下がおいででしたか。失礼しました。出直します」
「いや、構わない。報告を」
側近はヴィオラの顔を見た。彼女が頷いたので、後ずさった足を戻す。
そして、メイヴィスがどんな女であるかを語ってみせた。
体が弱く、表にはほとんど出ていないこと。
とはいえ両親も彼女に無関心であること。
特技やできることが何もない、無能であること。
王子の婚約者だった姉が早逝したあと王太子妃候補になったこと。
無能であるが故、悪い噂が多いこと。
王太子に愛されていないこと。
これらが原因で孤立しており、味方がいないこと。
「……悪評が広められていますが、あくまで噂に過ぎません。お人柄まではわかりかねます」
「良い機会ではないか。見極めてやろう。下がれ」
側近は王と王妹に頭を下げ、退室していった。
「ふん。しおらしいフリをしているとんでもない女かもしれんということか」
勝ち誇ったように笑う兄とは裏腹に、妹の顔は曇っている。
「報告が本当なら、侯爵令嬢様には味方がいなかったはずだよね」
「それがどうした」
「そんな国に……帰りたいと思う?」
ヴィオラはあくまでメイヴィスの肩を持つつもりらしい。だが、ヴィンセントはそうはいかない。
「非難されるのはあの娘の振る舞いに問題があるのかもしれない。もしかするとこの状況すらも、オルティエは読んでいるのやもしれん」
「でもそれは、兄様の想像でしょう」
「悪いが、これが俺の仕事だ。この国の王として、これ以上損害を被るわけにはいかない。何か事が起きてからでは遅いのだ」
ヴィオラは何も返せず、「……わかってる」とか細く反論するのみだった。
「お前が乗り気でないのなら、それはそれで構わない。ただ、深入りするのはやめろ。わざわざ無関係なことに巻き込まれる必要はない」
「……はい。肝に銘じます」
「行け」
ヴィオラはヴィンセントが合図を送るとそのまま執務室を出て行った。
メイヴィス・ラングラーに何の罪もないことは、ヴィンセントもわかっていた。
人質として彼女を利用することが最低な行為であることもわかっていた。
だが、彼女がオルティエのスパイでないとは言い切れない。鉱山を奪った辺境伯と組んでノワールを煽り、わざと誘拐させた可能性もある。あり得ないことだと頭の片隅では思っていても、全てを疑うことが国を背負った人間の仕事である。
これがクリスタ・オルセンであれば、こんなことをしなくても済んだのだが。
ヴィンセントは体調の浮き沈みが激しいメイヴィスを医者に診せた。しかし、ヴィオラの言葉は何だったのか、医者は彼女の体に大きな異常は認められないと答えた。
何かがおかしい。
ヴィンセントは自ら、彼女の部屋に足を向ける。
無遠慮にノックもせず扉を開けると、メイヴィスは眠りについていた。ほとんど眠っていないとヴィオラが言っていた割には、その寝顔は穏やかである。未だ報告には上がっていないが、薬でも飲んだのだろうか。
しかし顔をよく見ると、クマができている。眠れていないというのは本当だったらしい。
唇はひび割れ、肌の色は健康とは程遠い。穏やかに見えた寝顔も、今はどこか苦しそうに見えた。
「……」
会話をしたかったが、眠っているのならば仕方ない。流石のヴィンセントも、やっと眠った女を起こす趣味はない。
この部屋に一人入っていることも、妹にバレたら面倒になることが目に見えている。
ヴィンセントはさっさと退散し、ロージーの報告を待つことにした。
「……」
扉の閉まる音、そして遠ざかる靴音。
それが聞こえなくなって、メイヴィスは目を開いた。




