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人質
















いつかこんなことを言った。

皆が幸せであればいい、と。

その言葉に偽りはない。ないのだが、その言葉はメイヴィスが聖人だから発したのではない。

ただ、興味がないのだ。メイヴィスを迫害した人間が、世界が、幸せになろうと、不幸になろうと。

どうでもいい。

メイヴィスは自分のことで精一杯だ。明日の命すらわからない脆い体で、他人にそこまで干渉している余裕はない。

幸せを願いはするが、そのために何かをするわけではない。ただの偽善と言われれば、そうなのである。


「……」


痛みも苦しみも、なくなった。

真っ暗で、何も見えなくて、何も聞こえなくて、何も感じない。

メイヴィスは、ただその場にうずくまっていた。

動けない、動きたくない。どうせどこにも行かれない。

遠くの方で何かが光った。目を閉じていると思っていたのに、それでも光は輝いた。ゆらゆらと、まるで誰かを探しているように揺れている。ランプのように。

メイヴィスはそれを見送る。迎えに来てくれる人などいないし、それに縋るつもりもない。

たまに変化が起きるのであれば、ずっとここにいるのも悪くないとすら思える。

しかし、そんなメイヴィスの思いとは裏腹に、光はだんだんメイヴィスの方へと近づいてくる。きっとその誰かは、メイヴィスの姿を見て探し人ではなかったと落胆するだろう。

その顔を見たくなくて、メイヴィスは固く目を閉じる。無音の中、光はメイヴィスの顔を照らした。

予想通り、光はメイヴィスから離れていく。こんなところに他の人間がいるとは思えないが、人違いは事実だ。

光は消えずに彼方を漂っている。すると、錘を乗せられたかのように動けなかったメイヴィスの体が、突然軽くなった。動いたところで何にもならないが、寝返りくらい誰だって打つだろう。

メイヴィスはまだ誰かを探している光の方は見ずに、それ以外の方向を眺めた。光源があるというのに、どこまでも暗くて何も見えない。


(何かにもたれたいなあ、床以外で)


床を手でなぞってみる。少しザラついているのは、塵芥というより何かの模様であるように感じた。

すると、今度は視界が真っ白になった。その眩さに、メイヴィスは思わず目を閉じる。何が起きたかも分からず、逃げることもできない。次があるのか最果てに到着したのか。

メイヴィスは暗闇に戻ることを期待していたが、いつのまにか気絶していた。






















頬に触れられた気がして、メイヴィスはその相手を手で探す。しかし、触れたのは自分の頬だけだった。

目を開くと、灰色の天井が見える。体をベッドに対して縦から横にして、今自分がどこにいるのか把握した。

また部屋だ。見覚えのない部屋。窓がなく、外は見えない。離宮の一室だろうか。

別の方を見ると、壁にガラスが嵌め込まれていた。


「わっ……」


ガラスの向こうには少女が立っており、メイヴィスをジッと見つめている。

少女は目が合うと走り去ってしまった。煌びやかなドレスを着ていたので侍女ではないのだろう。ただ、幼さに見合わず感情のない顔をしていた。


(……誰が、来るんだろう)


きっと少女は誰かを呼びに行った。医者なのか、それとも違う人間なのか。どうも落ち着かなかった。カレンが来るとはとても思えないほど部屋には何もなく、殺風景だったからだ。


「……」


体を見下ろすと、汚れたはずの服ではなく違うものが着せられていた。真っ白でシンプルなデザイン。おそらく寝巻きだろう。常に着ていた黒のインナーが脱がされており、落ち着かない。

体のどこにも痛みはないが、落馬の怪我がどうなったのかはよくわからなかった。

シーツにくるまって頭だけ出す。未だ誰も来ない。少女は幻だったのだろうか。


「目覚めたか」


後ろから声がして、メイヴィスは思わず振り返る。


(扉なんて、なかったのに)


「!」


メイヴィスの喉元には、剣が向けられていた。

鋭く光る目が、殺気を含んでいる。

目の前の男には、全く見覚えがなかった。


「……」


やはりここは離宮ではない。メイヴィスはこのまま刃が首を掻っ切ることも覚悟して、目を閉じる。相手の行動を待った。


「何か企んでいるなら、先に教えてやろう。成功はしないとな」

「……私は、森の湖で倒れました。怪しい者ではありません」

「ふん、だろうな」


金髪の男は、剣を鞘にしまった。その音を聞いて、メイヴィスは恐る恐る目を開ける。


「まさかオルティエの次期王妃が森の中で倒れているなど思わん」


(……何ですって?)


男は何か勘違いをしている。しかしそれより重要なのは、この男は善意の人助けをしたわけではないということだ。


「わかっていて……なぜ」

「貴様のような女には理解できぬであろう。一方的に鉱山を奪われた、我々の恨みを!」

「鉱山?」

「貴様を人質にし、オルティエに奪われた鉱山を取り返す。我らノワールの目的はそれだ」

「……ノワール?」


ノワールといえば、オルティエの隣国であったはずだ。残念ながらそれ以上はわからない。

まだ理解が追いついていないが、どうやらメイヴィスは知らないうちに他国に捕まっていたらしい。それも人質として。


「王太子が愛してやまないというオルセン公爵令嬢を人質にすれば、オルティエも黙ってはおらんだろう?」

「……」


先ほどの発言から何となく察していたが、この男は人違いをしている。よりにもよって、彼らはメイヴィスを攫ってしまったのだ。


(オルティエからしたら、願ったり叶ったりね)


邪魔者を排除してくれるのだから、両手をあげて喜んでいることだろう。


「それでも、オルティエが動かなければどうなさるのですか?」


むしろそちらの方が確率は高いわけだ。気になったので尋ねてみる。

男は眉間に皺を寄せ、一呼吸置いた後、


「……まあ。その時は犠牲を払ってでも取り戻すまでよ。無論、貴様の首を送りつけてな」


どうやらメイヴィスの死は確定らしい。


「左様、ですか」

「何だ、自信がないのか? 貴様を寵愛しているという王太子なら、必ずこちらの要求を飲む。何を不安がる?」


俯いてしまったメイヴィスの様子を見て男は笑う。


(……クリスタ様の様子がおかしかったのは、ノワールと関係があるのかしら)


意図せずして、メイヴィスはクリスタの身代わりとなってしまったのだ。


「恐れながら、私はオルセン公爵令嬢ではありません。どうやら人違いをされているようです」


頭を下げて白状すると、機嫌良く笑っていた男の顔から影が消える。


「つまらん冗談だな。これを持っていながら人違いだなどと」


男が取り出したのは、メイヴィスのケープにつけられていたはずのブローチであった。


「それは……」

「オルティエの王太子妃が身につけるものだろう? 知っておる」


得意げな顔をしているところ申し訳ないが、王太子妃の身分を示すアクセサリーはブローチだけではない。


「……おっしゃる通り、それは王太子妃が身につけるものです。ですが、私は王太子妃ではありません」

「何だと?」


男の顔は再び曇る。


「言うなれば私は、側妃候補と言った方が近いでしょうか」

「側妃?」

「当然、愛する者を正妃に据えるでしょう」


男は一度戻した剣を再びメイヴィスの首に突きつけた。


「つまり、お前を攫ってもオルティエは動かないということか?」

「……」


無言は肯定。

怒りに震える冷たい刃が首筋に触れ、肌が切れる。生温かい液体が滴り落ちていった。

コーディが消してくれたはずの痛覚は、とっくに戻っている。鋭い痛みに顔が歪んだ。


「兄様!」


叫び声と共にガラスがドンっと叩かれ、そちらを見やる。先ほどメイヴィスを見つめていた少女だった。


















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