無能な侯爵令嬢
2026.05.22
改稿しました
メイヴィス・ラングラーは無能。
顔も頭も微妙なのに貴族の嗜みである刺繍、ダンス、楽器、歌唱、絵画、何もかもが平均以下の、出来損ない。そんな彼女が王太子妃候補だなんて、父親である侯爵が無理やりねじ込んだに違いない。便乗する娘も娘だ。無能の分際で妃になりたがるなど、ろくでもない女に決まっている。
巷ではそんな噂が流れていた。
「……妃になんて、なれるわけないのに」
まとめられている途中の荷物を見て、ため息をつく。
候補になるのは、決してメイヴィスの意思ではない。だが、周囲には姉の代わりに妃になりたがる強欲な女に見えるのだろう。
姉マリアがこの世を去ってから、両親はどこをとっても姉に劣る次女をどうしたものかと頭を悩ませていた。メイヴィスが不出来な子であることは事実だが、それがどこからか漏らされてしまい、縁談話は絶望的だった。そこにこの妃候補の話だ。父が飛びつかないはずがない。ある程度の家柄さえあれば、候補になることは可能である。次女を追い出し、出戻りも許さない。それが両親の描いたシナリオだった。
「しかし、お嬢様。ここにいるよりは……」
メイヴィスの支度を手伝うのは、生まれた時からずっとそばにいた侍女のシャロンだ。母がメイヴィスに興味をなくしてからも、辞めることなくずっと尽くしてくれた。彼女だけがメイヴィスの唯一の味方だ。
「お父様もお母様も、マリアだけがすべてだったからね。私が邪魔で仕方ないみたい」
メイヴィスの姉マリアは気立が良く、何でも器用にこなした。そんな彼女を、両親はメイヴィスそっちのけで溺愛した。王太子の目にも留まり、婚約者にもなった。しかし体が弱かったマリアは重病に罹り、あっさりこの世を去ってしまった。
『マリアではなく、メイヴィスだったら……』
と、両親が嘆く姿もメイヴィスは目撃したことがある。メイヴィスも、マリアほどまでとは言わなくても虚弱体質だ。両親がそう思うのも無理はないと思っている。だが、マリアを恨んだことはない。マリアはメイヴィスにとって、唯一自分を家族として見てくれる人間だった。両親の分まで、妹に愛を注いでくれた。にもかかわらず、メイヴィスはマリアの死に目に会えず、寝込んでいた。メイヴィスにマリアを恨む権利はない。マリアこそ、メイヴィスを恨んだって誰も咎めないだろう。
所詮無能はゴミ以下の扱いだ。死んでも誰も困らない。そのうち誰かに嫁がされるとは思っていたが、まさか王太子とは。
「……私より、殿下が気の毒」
オルティエ王国の王太子、サイラスはマリアと同年齢ということもあって幼い頃はよくラングラー侯爵家に遊びに来ていた。しかし、マリアが亡くなってからはぱったり屋敷を訪れなくなった。それがもう7年も前の話。
「確か、王太子殿下は懇意にしておられるご令嬢がいるとか」
「らしいわね」
あれだけ侯爵邸に通い詰めていたサイラスは、マリアが亡くなった後は別の公爵邸を頻繁に訪ねるようになったという。その令嬢が、サイラスから寵愛を受けて正妃になるだろうと言われていた。それでも彼女が婚約者として確定しないのは、側妃をとることを決めたからだろう。
だが、メイヴィス・ラングラーが身の程を弁えずに王太子に惚れて、王太子妃の座を狙っている、などという噂もあった。しかしこれは全くの嘘である。
「面倒なことを。側妃なんて、正妃を決めて結婚した後に適当にとればいいだけの話だと思うけれど」
「それがそういうわけにもいかないようですよ。オルティエ王家は側妃であっても厳しい審査があって、それに合格しないといけないようです」
そこまでの苦労をしてでも、側妃になりたい娘は少なくない。跡継ぎを産めば、自分だけでなく家族の地位も上がる。だがそれは、候補たちが同じスタート位置にいることが前提だ。一人に愛が向けられている以上、側妃になれたとしても跡継ぎを産むのは絶望的。惨めな思いをするよりも、他の誰かに嫁いだ方がいいと考えるのはもっともである。王太子は冷酷無慈悲だ。滅多に笑うことはなく、次期国王として立派に成長している。それが、公爵令嬢の前では柔らかい笑みを見せると言うのだから、そんな彼女に手を出せばどんな仕打ちを受けるか想像に難くないそんな状況であるからこそ、今回手を挙げた令嬢はほぼいないという。
「まあ……誰でも許してたらすぐ戦争になるものね」
ある程度の身分は必要だが、逆に言えば必要な条件はそれだけであるので、これまで大きな問題は起こらなかったのだろう。
「私は正妃どころか側妃にもならないから、本当は辞退して逃げ出したいところだけど……」
数日前、メイヴィスは久しぶりに父親と顔を合わせ、会話をした。だが、それは一方的なものであった。
『メイヴィス』
ノックもなしに、実父は無遠慮に扉を開けた。
『はい』
驚きとともに背筋を伸ばす。一瞬だけ父と目が合ったが、鋭い視線から逃げるようにすぐに逸らした。
『一週間後、城へ行け。王太子妃候補として』
『えっと……それは、一体』
混乱しても、父は冷たくメイヴィスを見下ろす。
『質問をすることは許さない。お前は私の言うことに従っていればいい』
『……わかりました。支度をします』
頭を下げ、父の足音が遠ざかるのを待った。
両親は次女に全く興味をもたないが、暴力を振るったり怒鳴ったりすることはなかった。ついぞ愛されることはなかったが、虐げられることもなかったのはまだマシだったかもしれない。
マリアが亡くなる前でさえ、ろくに顔も合わせなかった父が、わざわざ部屋に来て伝える。記憶にあるよりも随分痩せていた気がするが、その裏にあるものをメイヴィスが知るわけはない。ないのだが。
「……仮に逃げたら、どうなるか分かったものではない」
きっと興味を持つことはないのだろう。追い出すことが目的だから。しかし、仮に誰かと取引をしていたら? メイヴィスが逃げ出すことで、何かしらの損失を与えるのなら?
どうでもいい。父が損をしようと得をしようとどうでもいいが、自ら足を向けたということは、脅しも含まれていそうだ。メイヴィスは自分はともかく、シャロンに危害を加えられることだけは避けたかった。であれば、妃が正式に決まり、メイヴィスが城から出て行くその時まで、身動きは取れない。その後はきっと、どうにでもなるだろう。きっと、自由になれる。
「このシャロンがついておりますから。大丈夫ですよ、お嬢様」
ベッドで身を丸めるメイヴィスに、シャロンが優しく声をかける。しかし、メイヴィスは自分が世間でどんな評価を受けているのかを知っている。シャロン以外の従者にすらも見下されているのだから、知らないと言う方が無理だ。そして彼らは決まって、「あのお嬢様に王太子殿下を射止められるはずがない」と嗤う。ほとんど会話もしたことのない相手に愛を向けてほしいと思うほど、メイヴィスの頭はお花畑ではない。ただメイヴィスは、誰にも迷惑をかけずにひっそり息をしていればいいのだ。そうして、王太子と公爵令嬢が正式に結婚するときまで耐えればいい。きっと誰もが、メイヴィスにそれを望んでいるはずだ。表に出ず、いつの間にか消えていることを。愛など、メイヴィスには無縁な言葉だ。




