ジストニア
エレインを産んで一ヶ月。
ピアノの練習をしてたら、右手に違和感を感じた。弾こうとすると、指がこわばる。無理に続けるとけいれんする。
おかしい………。
不吉な予感を抱えて、私はパリの大学病院に行った。
たくさんの検査の後、ドクターから言い渡された。
「局所性のジストニアです。原因はわからないし、治療法もまだない………。
今はまだ、握力がありますが、ピアノの練習を続けると、右手が使えなくなります。」
耳がガンガンする。ドクターの言うことが聞こえない。
足元が割れて、崩れ落ちる。
ジストニア………。
自殺未遂して、ローザンヌの精神病棟にいた時
局所性のジストニアにかかって、手が動かなくなり、何度も自殺未遂を
くりかえして、あの病棟に入れられたピアニストがいた。
彼女は、プロのピアニストではなかった。裕福な家のマダムで、たしか子供も二人いた。
ピアノが弾けないくらいで、どうして自殺なんかって、言われてたけど、私には、わかる気がした。
彼女は言ってた。
「手が動かないピアニストなんて………死んだ方がましよ。私から、右手を奪うくらいなら、息の根を止めてほしかった。永遠に。神様は、そのくらいの慈悲をかけてくれてもいいのに。」
闇が降りて来て目が見えなくなる。
目覚めたときは、病院のベッドに寝かされていた。貧血を起こして倒れたのだ。
早く、帰らないと………ジーザスとエレインが待ってる………。
私は、運転手に支えられ、よろよろと立ち上がり、家に帰った。
ジーザスに抱かれたエレインは、眠っていた。
「おかえり!どうだった?」
のんきなジーザスを見たら、張りつめていたものが切れてしまった。涙がとまらない。
「もう、弾けないのよ………コンクールも、あきらめるしかないの。」
私の夢。コンクールで認められ、一流のオーケストラと、コンチェルトすることも。
「私はもう、あなたの好きなピアノは、もう弾けなくなってしまったの。」
私が泣くと、眠ってたエレインも泣き出した。
「弾けないって、どうして?」
「局所性のジストニアよ。弾こうとすると、右手がひきつるの。もう、ピアノは弾けないの。死んでしまいたいわ。」
「弾けないなんて、そんな………馬鹿な………。」
泣きじゃくる私とエレイン。
騒ぎを聞きつけて、アンナがやってきた。
「まあまあ、何ですか!泣かせて。一体マダムまでなんで泣いてるんですか?
エレインは、私が見てますから、ジェジュ・クリは、マダムの面倒をお願いしますよ。
さあ、エレイン。アンナとお庭を散歩しましょうね。」
エレインとアンナが去ると、ジーザスは、私を抱きしめた。
「死んでしまいたいなんて、そんなこと言わないでよ………。」
そう。私には、ジーザスがいる。エレインがいる。ピアノを失っても、家族がいる。
でも、この喪失感。絶望。悲嘆。
あふれ出る感情は、ピアノを弾くことで、なんとかバランスをとっていたのに………。
嬉しい時も。悲しい時も。これから、どうしていいかわからない。
ジーザスは私の手をひいて、ピアノの前に連れてった。
彼はピアノの蓋をあけた。
一緒に弾こう。君が教えてくれた曲を。僕が右手を弾く。さあ、君は左手を弾いて!
二人で弾こうよ、「涙流るるままに。」
ジーザスと初めてキスした時、弾いていた曲。
泣きながら、言われるままに、私は左手のパートを弾く。
涙で鍵盤が見えないけど、手さぐりでもこの曲は弾ける。
彼はまちがうことなく、右手のパートを弾いた。何度も何度も、私の涙が止まるまで。一緒に弾いた。
「君には、まだ左手がある。絶望するのは、まだ早いよ。」
そう…絶望に屈したりしない。そう決めた。
でも…こんな試練、あんまりだわ。一体、神様はどれだけ私をお試しになるのかしら……。
「ママンから聞いたことがある。第一次世界大戦で、右腕を失った人が、左手だけで、オーケストラと演奏してたって話。
たしか…ラベルの左手のためのコンチェルト。」
「知ってるわ。オーストリアのピアニストよ。でも…コンクールは無理よ。」
戦争で右腕を失っても、ピアノを続けた人がいる。でも、コンクールには、出られないわ。
夢を叶えたかった。モスクワで、弾きたかった。
「スクリャービンコンクールだったよね。だったら、出ればいい。」
「左手だけで?」
「楽譜があるはずだよ。君ならきっと弾けるさ。観客の度肝を抜いてやれよ!
左手のためのシャコンヌ。左手のためのノクターン。左手のためのエチュード。
どこまで、いけるかわからないけど精一杯やったらいいよ。」
「………私に………できるかしら………。」
二月のスクリャービンコンクールまで、あと半年。間に合うのかどうか、わからないけど………。
とにかく、やれるだけ、やってみよう!ピアノがない人生なんて、やっぱり考えられないもの。
自転車操業のため、投稿に時間がかかってます。申し訳ないです。自宅が暑いからロイホで書こうと思って行ったら、ロイホも暑かった。(T . T)
プリンセス・ドゥ・モナコ(東京編)も、ゆっくりですが進んでます。ヒロインの少女時代のお話です。あわせてごらんになってください。