4日目 (3)
夢を見ている。はっきりとそうわかるのは、目の前に麻耶子がいるからだ。ソファーに腰掛け、手元の文庫本に視線を落としている。横顔を見ているだけで、こっちまで安心してしまう。彼女がすぐ側にいるはずなどないのに。
「麻耶子だよね?」
恐る恐る声を掛ける。麻耶子が顔を上げ、声の在処を探すように辺りを見渡す。
「こっちだよ」
『あぁ。いつからいたの?』
文庫本を閉じ、柔らかに微笑んだ。彼女の笑顔を見ただけで、これまでの苦労なんて吹き飛んでしまう気がした。
「今きたとこ、かな。何読んでるの?」
『〈そして誰もいなくなった〉もう何度目かわかんないけど』
恥ずかしそうに口元を本で隠す。その仕草も彼女の癖だった。
「どうしていなく―――」
『この建物で何が起きているのか、智博くんはわかってる?』
名前を呼ばれ、懐かしさで頭がクラクラした。『智博くん』昔から、麻耶子にそう呼ばれていたことを思い出す。
「麻耶子にはわかるの? ていうか、事件のこと知ってるの?」
『もちろん。ずっと近くで見てたから。大変だったね』
「どこにいた? それも嘘なんだろ?」
『いつも嘘付いてるみたいな言い方。それは智博くんでしょ』
からかうように睨んでくる。冗談のつもりかもしれないけれど、全く笑えなかった。ボクは彼女に適当なことを言ってばかりだからだ。
『まぁ許してあげる。―――冗談は置いといて、タイムリミットはあと数時間しかないよ? 脱出するか、真相を暴くかしないと』
「もう麻郎さんはいないんだ。脱出するしかない」
麻耶子の居場所を突き止めるという願いは叶わなくなった。こうして夢では会えても、実際に触れ合うことはできない。
『わたしからヒントをあげる』
右手の人差し指を立て、もったいぶった様子で言う。
『この建物から出る方法がわかれば、事件の真相も見えてくるのよ』
「その二つが繋がっているってこと?」
『うん。だっておじいさんはわざわざこの建物にみんなを呼んだんだもの。ただの宿泊施設なわけないでしょう?』
麻耶子には全てがわかっているとでもいうのか。金子が言うには、麻耶子は三ヶ月ほど前にこの屋敷へきた。麻郎に会いにきて、二日ほどでここを発った。その間に、建物の秘密を教えてもらった可能性はある。
「確かに出られるんだね?」
『そう。智博くんが諦めなければ。―――もう一個だけヒントあげちゃおう』
首を捻り、考えるように宙を見つめる。それも終わり、麻耶子が笑顔で口を開いた。
『おじいさんの部屋から見つかったものあったでしょう? 丸いスイッチみたいなもの。あれね、バカにしちゃダメだよ』
「押しても何も起きなかった。扉が開くこともなかった」
何度も試したのだ。ナベと松本だってそうだ。
『みんな発想が貧弱なんだもの。笑っちゃいけないって我慢してたけど、そんなことじゃ一生出られないよ?』
哀れむような視線を受ける。悔しさよりも、答えに辿り着けない自分の不甲斐なさに涙が出そうになった。
「どういう意味? 普通に使ってたんじゃダメなの?」
『もう・・、ほんとにだらしないなぁ。この建物の意味を考えて。どんな形をしていて、部屋はどう配置されてる? それを考えたら答えはひとつしかないのに』
子供を諭すような麻耶子の口調だった。
頭の中で彼女の言葉の意味を考え直してみても、まだわからない。じっくりと考えたいけれど、今は麻耶子との時間を大切にしたかった。
『もうそろそろ行かなくちゃ。智博くんも、いつまでも寝てる場合じゃないのよ。早くしないと死んじゃうんだから』
文庫本を持ったまま立ち上がり、麻耶子は今にも立ち去りそうな様子だった。待って欲しい。彼女には訊きたいこともある。謝りたいことだってある。どれだけ時間があっても足りる気がしない。
「麻耶子!」
動き出した麻耶子が素早く振り返った。何を言われるのか全く理解できないという様子で。
「俺のこと、怒ってるよな」
『なんのこと?』
「麻耶子に言ったこと―――。あれが麻耶子を傷付けた」
麻耶子は取り乱すことなく小さく微笑んだ。
『わたし、けっこう鈍感だから。人から言われた言葉とか、すぐに忘れちゃうんだよね』
「嘘だ! だって・・、だからいなくなったんだろ?」
『智博くん』
麻耶子から真直ぐに視線を受ける。彼女の言葉に耳を傾けるしかなかった。
『ここから出ても、会いにきちゃダメだよ?』
「麻耶子・・」
『今はわたしのことなんていいから。ちゃんと脱出することだけ考えて』
麻耶子が歩き出し、二度と振り返ることはなかった。彼女の背中に掛ける言葉を探しながら、ボクは、ゆっくりと瞼を開けた。




