第53話 定軍山では、高いほうが勝つ
父が、王になった。
そして、俺は、王太子になった。
——その日の記録に、趙雲の名前が、なかった。
◆
建安二十四年の秋。
漢中が、落ちた。
正確には——曹操が、退いた。
三月に夏侯淵が死に、五月に曹操自身が来て、そして退いた。
「鶏肋」という言葉を残して、である。
——鶏の肋。
食うところはないが、捨てるには惜しい。
……
——曹操は、そう言って、去った。
そして、二年半の戦が、終わった。
◆
七月。
群臣が、父に王位を勧めた。
——漢中王。
署名した者が、百二十人を超えた。
馬超が筆頭である。
——涼州の名門の出だからだ。
次に許靖。
——天下に名の知られた名士だからだ。
そして龐羲、射援、諸葛亮、関羽、張飛、黄忠……
——法正の名も、あった。
◆
俺は、その名簿を見ていた。
そして、あることに気付いた。
——序列が、変わっている。
馬超が、いちばん上である。
次が許靖。
……
——五年前、この二人は、この国で最も浮いていた。
馬超は、疑われ続ける降将。
許靖は、城を捨てて逃げようとした名士。
……
——そして今、名簿の一番上にいる。
理由は、簡単だった。
天下に、名が知られているからである。
◆
「せんせい」
「はい」
「なぜ、孟起どのが一番上なのですか」
諸葛亮は、答えた。
「天下が見るからでございます」
「はい」
「この名簿は、許へも、建業へも届きます」
「はい」
「そのとき、誰の名が最初にあるかで、この国の格が決まります」
——
「孟起どのは、涼州の馬騰の子でございます」
「はい」
「そして、関羽どのは、解県の亡命者でございます」
——
俺は、そこで、口を閉じた。
……
——関羽の名は、名簿の九番目にあった。
そして、この人は、それを気にしないだろう。
……
いや。
気にする。
——弱みの開示、三。
気にして、言わない。
◆
七月、父は漢中王となった。
沔陽に壇を築き、そこで即位した。
——俺は、行けなかった。
成都から沔陽まで、遠い。
そして、俺は「戦場へ出ない」と約束している。
沔陽は、戦場ではない。
……
——だが、境である。
趙雲がいれば、たぶん止められた。
そして、あの人は漢中にいた。
代わりに、馬良が止めた。
「若君」
「はい」
「成都で、お待ちください」
「なぜですか」
馬良は、答えた。
「王太子の冊立は、王が先でございます」
「はい」
「そして、王が留守の間、成都に誰かが要ります」
——
「それが、私ですか」
「はい」
「十二です」
「存じております」
——
白眉の男は、少し笑った。
「若君は、既に八年、この城の帳を読んでおられます」
「……」
「誰よりも、長うございます」
◆
そして、その月の末。
沔陽から、使者が来た。
◆
「漢中王のご冊命を、伝えます」
——広間に、成都の全員がいた。
諸葛亮。龐統。法正は漢中。劉巴。許靖。蔣琬。糜竺。簡雍。馬良。陳紀。
そして、黄夫人。
——この人は、庭にいたが、俺が呼んだ。
使者が、竹簡を開いた。
「王子禅を、王太子と為す」
——
俺は、頭を下げた。
そして、頭を下げながら、思った。
——禅。
諱である。
十二年で、この名を呼ばれたのは、これが二度目だった。
一度目は、去年、関羽の抗議状である。
> 《劉禅さまへ》
——
あのときは、怒りだった。
今度は、公である。
……
——どちらも、「若君」ではない。
◆
視界に、表示が出た。
```
【劉禅】
身分 公子 → 王太子
呼称
「阿斗さま」「若君」
↓
「王太子殿下」「太子さま」
新規権限
監国(王の不在時、政務を代行)
執行評議への正式参加
叙功案の上奏
新規危険
・臣下の迎合
・意見の減少
・「殿下がそう仰せだ」の増加
```
——最後の一行が、赤かった。
……
——彭羕のときと、同じである。
そして、去年、俺は自分の画面が見えないことを知った。
……
今日、初めて出た。
——身分が変わったからだろう。
そして、能力値は、出ていない。
身分と、危険だけである。
◆
その日から、変わったことがある。
——三日で、気付いた。
一つ。
評定で、誰も俺に反対しなくなった。
去年まで、龐統は「それは無理でございます」と言った。
劉巴は「銭がございませぬ」と言った。
——今も、言う。
言うが、言い方が変わった。
「殿下のお考えは、ごもっともでございます。ただ——」
——「ただ」の前に、一言増えた。
その一言の分だけ、話が遅くなる。
そして、その一言を言っているあいだに、本人が少し折れる。
◆
二つ。
俺が何気なく言ったことが、翌日、命令になっていた。
——三日目に、それが起きた。
俺は、廊下で、こう言った。
「南の倉、湿っていますね」
——それだけである。
独り言に近かった。
翌朝、南の倉が全部、開けられていた。
中身が、外に出されていた。
そして、雨が降った。
——糜竺が、真っ青な顔で来た。
「殿下。申し訳ございませぬ」
「何がですか」
「倉の中身が、濡れました」
「……」
「殿下のご下命どおり、干しましたが、雨が」
——
俺は、そこで、頭を抱えた。
「私は、命じていません」
「……」
「湿っている、と言っただけです」
——
糜竺は、しばらく黙っていた。
そして、言った。
「殿下」
「はい」
「もう、そうではございませぬ」
——
「王太子が『湿っている』と申されれば、それは命令でございます」
◆
俺は、その日、木簡に一行書いた。
《独り言が、命令になる》
——
そして、その下に。
《だから、独り言を、やめる》
……
——いや。
違う。
俺は、その一行を消した。
そして、書き直した。
《独り言と、命令を、分ける》
——
やめては、いけない。
やめれば、俺は何も言わなくなる。
そして、何も言わない主君は、何も知らない主君になる。
……
——関羽が、そうだ。
あの人は、部下に「困っている」と言えない。
言えば、それが命令になるからだ。
そして、独り言も言えない。
……
——十二年、俺はあの人を理解しようとしてきた。
そして今日、初めて、少し分かった。
◆
そして、四方将軍である。
◆
王位に伴い、将軍の任が定まった。
沔陽から、名簿が届いた。
俺は、それを読んだ。
```
【漢中王 将軍任命】
前将軍 関羽
右将軍 張飛
左将軍 馬超
後将軍 黄忠
翊軍将軍 趙雲
```
——
俺は、その五行を、三度読んだ。
そして、四度目に、手が止まった。
◆
——趙雲が、入っていない。
四方将軍は、四人である。
前・右・左・後。
——翊軍将軍は、その外だ。
……
関羽。統率九十六、武力百。
張飛。武力九十九。
馬超。騎兵指揮百、威名百。
黄忠。夏侯淵を討った。
——妥当である。
完全に、妥当だ。
そして。
——趙雲は、危機管理百、忠義百、倫理性百である。
長坂坡で、二度、俺を救った。
截江で、命令系統を破って、俺を取り返した。
七年、危機評価役として、全ての案に「失敗したらどうなるか」を書いた。
……
——そして、四方将軍に、入っていない。
◆
俺は、その名簿を持って、諸葛亮のところへ行った。
「せんせい」
「はい」
「子龍叔父上が、いません」
——
羽扇が、止まった。
そして、この人は、静かに言った。
「翊軍将軍でございます」
「四方将軍ではありません」
「はい」
「なぜですか」
——
長い沈黙があった。
◆
諸葛亮は、答えた。
「荊州には、雲長どのが要ります」
「はい」
「巴には、翼徳どのが要ります」
「はい」
「涼州の抑えには、孟起どのが要ります」
「はい」
「定軍山を取ったのは、漢升どのでございます」
——
「そして、子龍どのは」
——
諸葛亮は、そこで、言葉を切った。
そして、言った。
「成都に、おられます」
——
「……」
「殿下の、おそばに」
——
俺は、そこで、動けなくなった。
◆
——この人は、俺のそばにいるという理由で、外れた。
十二年である。
長坂坡から、十二年。
そのあいだ、この人は俺のそばにいた。
そして、そのあいだに、他の四人は、戦場で名を上げた。
……
——俺が、この人の名を止めた。
◆
俺は、聞いた。
「せんせい」
「はい」
「子龍叔父上は、何と言っていますか」
——
諸葛亮は、答えた。
「何も」
「……」
「一言も、仰せになりませぬ」
```
【趙雲】
自己主張 21
```
——二十一。
十二年前と、同じ数字である。
一度も、動いていない。
◆
——俺は、その夜、書状を書いた。
漢中の、趙雲宛てである。
そして、三度、書き直した。
最初は、こう書いた。
> 《不当です》
——消した。
次は、こう書いた。
> 《父上へ、申し上げます》
——消した。
……
——申し上げて、どうなる。
父は、たぶん、変えない。
変えれば、四人のうち誰かを外すことになる。
そして、外された人が、関羽のように怒る。
……
——そして、趙雲は、それを望まない。
この人は、自分のために誰かが揉めることを、いちばん嫌う。
◆
俺は、三度目に、こう書いた。
> 《子龍叔父上へ》
>
> 《四方将軍に、叔父上の名がありません》
>
> 《理由は、私です》
>
> 《叔父上が、十二年、私のそばにおられたからです》
——
> 《申し訳ありません》
——
そして、最後に、一行足した。
> 《ですが、外しません》
——
返事は、二十日後に来た。
一行だった。
> 《殿下》
>
> 《翊軍将軍の 翊 は、翼けるという字にございます》
——
それだけである。
……
——翊。
翼ける。
……
この人は、字が読める。
そして、自分の官名の字を、調べた。
◆
俺は、その一行を、木簡へ写した。
《名のない者》の簿ではない。
《正しく呼ばれていない者》でもない。
——新しい木簡を、一枚おろした。
そして、表題を書いた。
《四方将軍に、入らなかった人》
一行目に、書いた。
趙雲 字・子龍
《翊軍将軍》
《翊は、翼けるという字》
——
そして、その下に。
《いつか、名簿の順を、変える》
——
そのとき、俺は知らなかった。
——この簿に、名前が増えることを。
そして、増えた名前が、全部、
この国を、いちばん静かに支えた人たちだということを。
◆
そして、四方将軍の名簿は、荊州へも送られた。
費詩という男が、使者として発った。
——前将軍の印綬を、関羽へ届けるためである。
俺は、その男を見送った。
……
——そして、二十日後。
費詩が、青い顔で戻ってきた。
次回 第55話「大丈夫、終に老兵と伍を為さず」




