外伝・董允伝 『四百六十二回』 (〜246年)
序 死亡記事
史書には、こう書かれるはずだった。
《允、没して後、宦官 黄皓、政を弄ぶ》
《蜀人、允を追思せざる者なし》
——董允が死んだ後、黄皓が国を蝕んだ。蜀の人々は、董允が生きていれば、と惜しんだ。
◆
この世界でも、董允は延熙九年に死んだ。年も、変わらない。
変わったのは、死んだ後である。
黄皓は、政を弄べなかった。
理由は、董允が死ぬ前日に言い残した、たった一つの進言だった。
——二十年温めて、最後の日に出した進言である。
第1話 叱れる者
まず、この男の帳簿について述べる。
董允は、数えていた。自分が叱った回数である。
二十三年で、四百六十二回。そして、誰にも言わなかった。
理由は、一つである。
——叱る者は、叱るのが好きになる。
好きになれば、回数が増える。増えれば、中身が薄くなる。数えていれば、それが分かる。
◆
皇帝を叱る係、というのが、この男の職の実態だった。
任命の日、董允は三つ確かめている。人前でもよいか。面子を損なってもよいか。そして——自分が間違えた場合は、どうするか。
三つ目を口に出すと、十六の皇帝は答えた。
「記録してください」
「間違えたとき、で、ございますか」
「はい。……私が改めなかった件で、後で私が正しかったと分かることもあります。その場合は、休昭どのが書いてください。私が書くと、言い訳になります」
董允は、返す言葉がなかった。十六である。叱られる側が、叱る側の帳簿の様式まで、先に考えていた。
◆
その夜、竹簡を一本おろした。表題は六文字である。
《申し上げた回数》
欄は三つ。何を申し上げたか。陛下が改められたか。そして——自分が正しかったか。
三つ目はその場では書けない。一年後か、十年後に書く。董允は、欄を空けて置いた。
◆
最初の年は、四十七回に達した。多い。皇帝が若く、周りが多すぎたのである。
献上品。増築案。舞姫。そして、皇帝を「聡明」と褒めた文書が、四十七件。
董允は、それを数えた。皇帝も数えていた。同じ数だった。
「休昭どの。四十七を、数えられましたか」
「数えております。……反対した文書も、数えております。二件」
「二件は、誰ですか」
董允は、答えなかった。皇帝は、それ以上聞かなかった。
——二十三年で、董允が答えなかったのは三度である。これが一度目だった。
◆
年の暮れ、董允は妙なことに気付いた。
「聡明」を書いた四十七人のうち、翌年も書いたのは十一人。三年目には三人。五年目には、誰もいなくなった。
董允は、何もしていない。返却も、叱責もしていない。ただ、受け取らなかっただけである。
竹簡の備考に、書いた。
《受け取らねば、止まる》
《叱らずとも、止まる》
《これは、私の手柄ではない》
——叱った回数を数える男は、叱らずに済んだ分も、ちゃんと数えから外すのである。几帳面にも、ほどがあった。
第2話 黄皓
黄皓という宦官がいた。
口が上手い。そして、人の嫌がることを正確に避ける。
董允は、この男を二十年抑えた。方法は一つ——位を、上げなかった。黄門丞のまま、二十年動かさなかった。
◆
理由を、皇帝に聞かれたことがある。
「黄皓は、悪いことをしましたか」
「しておりませぬ。……そして、上げればいたします」
「なぜ、分かりますか」
「私の前で、一度も失敗しておりませぬ。二十年でございます。人は、二十年で必ず一度は失敗いたします。……していないのは、隠しております」
◆
黄皓は、一度だけ董允に挨拶へ来た。贈り物を、持たずに。
「何も持ってきておらぬな」
「侍中さまは、受け取られませぬゆえ」
正しい。そして、正しいことを、来る前に調べてある。この抜かりなさが、恐ろしいのである。
「お前は、何がしたい」
「陛下に、お喜びいただきとうございます」
嘘ではない。そして、喜ばせるのが上手い者は、悲しませるのも上手い。
「陛下は、何をされると喜ばれる」
黄皓は、考える顔をした。そして、答えた。
「存じませぬ。……陛下は、喜ばれませぬ。何を差し上げても、同じ顔をされます」
「……」
「一度だけ、違うお顔をされました。五年前、文書を一つ落としまして。拾って、順に並べ直してお渡ししたときでございます」
董允は、返す言葉がなかった。
——贈り物では動かず、仕事の丁寧さで顔が変わる皇帝と、それを二十年観察している宦官。
竹簡の備考に、書いた。
《黄皓——嘘をつかぬ。それが、恐ろしい》
《この男は、陛下を見ておる。私よりも、長く》
第3話 三つの間違い
二十三年、四百六十二回のうち、皇帝がその場で改めたのは三百九十一回。
改めなかったのは七十一。そのうち六十八は、後に皇帝が自ら改めた。一年後、十年後——一番長いものは、十九年後である。
董允は、そのたびに三つ目の欄を埋めた。
《正しかった》
六十八回、同じ字を書いた。
そして、残る三が、董允の側の間違いだった。
◆
南征に行くという皇帝を止めた件。止めた理屈は正しく、皇帝は行かなかった。そして三年後、皇帝が二年かけて通訳五十人を養成しながら、一度も見に行けなかったことを知った。
董允は、三つ目の欄に書いた。
《半分、間違っていた》
《行かせぬ理由は正しく、行かせぬ代わりを、考えなかった》
半分、という書き方をした間違いは、四百六十二件でこれ一件である。几帳面な男の、精一杯の言い訳だった。本人は言い訳と認めなかったが。
終章 空いていた一行
延熙九年、董允は死んだ。五十六である。蔣琬の、三月後だった。
◆
死ぬ前の日、皇帝が来た。三十九になっている。
「休昭どの。何か、申し上げることはありますか」
董允は、少し笑った。二十三年、逆ばかりだった問いである。
「ございます。……黄皓を、上げられませぬよう」
「承知しました」
「理由は、お聞きになりませぬか」
「二十年前に伺いました」
◆
董允は、そこで一つ付け足した。二十年温めた、最後の進言である。
「陛下。——上げてもよろしゅうございます」
皇帝は、顔を上げた。
「どういう意味ですか」
「抑えるのは、人でございます。人は、死にます。抑える者がいなくなれば、上がります。……ならば、上げてから、制度で抑えられませ」
皇帝は、長く黙った。
「二十年、考えておられましたか」
「考えておりました」
「……そして、今日まで申し上げませなんだ。なぜですか」
董允は、答えた。
「私が生きているうちは、抑えられますゆえ」
——自分という抑えが利くうちは人で抑え、利かなくなる前日に、制度へ引き継ぐ。四百六十二回叱った男の、四百六十三回目は、叱責ではなく設計だった。
◆
皇帝は、最後に一つ聞いた。
「休昭どの。休沐の日、何をしておられましたか」
董允は、答えなかった。
二十三年で、三度目の無回答である。
◆
答えは、死後に分かった。侍中の部屋の記録である。
《休沐日——出仕せず》
その日付の隣に、別の記録が並んでいた。
《宮門、異常なし》《献上品、なし》《面会申し出、なし》
十日に一度、三年分。全部、董允の字である。
——家にいて、報告だけ受けていた。そして、それを執務とは呼ばなかった。
休みを取れと皇帝に迫られ続けた男の、これが「休み」だった。叱る側が、一番言うことを聞いていなかったのである。
◆
遺品の竹簡は、四百六十二行。三つ目の欄が、一つだけ空いていた。
皇帝は、空いた行を探した。延熙七年である。
《陛下に、休んでいるかと問われた》
《休んでいる、と答えた》
《正しかったかどうか——》
そこで、字が止まっている。
◆
皇帝は、筆を取った。そして、空欄を埋めた。
《間違っていた》
《そして、規定で直した》
《二十一年、気付かなかった私も、間違っていた》
◆
竹簡は、焼かれなかった。侍中の部屋へ置かれ、次の侍中が読み、その次の侍中も読んだ。
董允の弟子の弟子にあたる陳恭は、自分の竹簡に同じ表題を書いた。《申し上げた回数》。欄は、三つである。
二十五年後、陳恭は皇帝に問われている。
「あなたは、今何回ですか」
「三百十一でございます」
「多いですか」
「少のうございます。陛下が、お変わりになりましたゆえ。……そして、それが困ります」
「なぜですか」
「叱る回数が減れば——叱れなくなった、と同じに見えます」
四百六十二回の男の帳簿は、こうして数え続けられている。
減ったことを喜ばず、減った理由を疑う。それが、あの三つ目の欄の遺言だからである。




