第134話 諸葛亮の後継者は、三人でも足りません
【延熙二年|成都】
諸葛亮が、一枚の文書を持ってきた。
《丞相後継案》
俺は、表題を見て、嫌な予感がした。
第一候補——蔣琬。第二候補——費禕。
◆
延熙二年。西暦二三九年である。俺は、三十二になった。そして、五丈原から五年である。
五十八になった。決裁は、一日十件。夜間執務は、禁じている。そして、この人は、それを五年守っている。
正確には、守らされている。董允が、数えているからだ。
「先生」
「陛下」
「一人ずつですか」
「丞相職は、一人です」
諸葛亮が答える。
「官職としては」
「では」
「——」
「仕事は一人分ですか」
諸葛亮が、黙る。
丞相。行政。軍事。外交。人事。法。皇帝補佐。地方調整。
先帝の時代、諸葛亮が、ほぼ全てを担った。人間一人の職務ではない。
二十四年前、俺は職掌表を作った。そして、この人の欄が、十三項になった。移す先が、なかったからである。
「公琰なら」
諸葛亮は言った。
「日常行政を安定して行えます」
「外交は」
「文偉」
「宮中は」
「休昭」
「軍事は」
「子均、文長、伯約ら」
「法は」
「董和の後継監査官」
「では」
俺は尋ねた。
「なぜ丞相の後継者を一人にするのです」
諸葛亮は、答えを知っていた。
制度が、昔のままだからである。一人の丞相。一人の大将軍。一人の責任者。
官職名が、英雄依存を求めている。
◆
「丞相職を」
俺は言った。
「分けます」
広間が、ざわめいた。諸葛亮本人も、驚く。
「廃止されるのですか」
「名誉職として残します」
「名誉」
少し、傷ついている。
「丞相は」
俺は言い直す。
「国家戦略と皇帝への助言を担当してください」
「日常執行は、分けます」
俺は、そこで、一つ聞いた。
「先生」
「はい」
「名誉職という言葉が、お嫌いですか」
諸葛亮は、羽扇を止めた。そして、正直に答えた。
「嫌いでございます」
「なぜですか」
「——」
「働かぬ者の職でございますゆえ」
俺は、そこで、こう言った。
「では、書き換えます」
「何と、でございましょう」
俺は、答えた。
「『渡す職』です」
諸葛亮は、しばらく黙っていた。そして、こう言った。
「……それは、名誉職より、きつうございますな」
三つの中核を、置いた。
蔣琬——行政執行。地方官。財政。法令の運用。
費禕——外交。部門間調整。執行評議。軍と民間の調整。
董允——宮中。皇帝監察。人事規律。異議制度。
さらに、軍事評議。王平。魏延。姜維。関平。張苞。馬謖。攻勢と防御を分ける。
そして、龐統は、常任執行から外れ、戦略審議、危機案件、重大交渉だけへ参加する。
「私は」
龐統が尋ねる。六十一である。そして、去年から、歩くのが遅くなった。
「週二日です」
「少ない」
「医師は週一日と言っています」
「では週二日で」
増えたつもりらしい。そして、こう付け足した。
「ただし、つまらない案件では呼ばないでください」
「つまらないかどうかは」
「私が決めます」
それでは、意味がない。俺は、そこで、こう言った。
「士元どの」
「はい」
「では、つまらない案件を、書いてください」
「……は」
「——」
「先に、書いておいてください」
「そして、そこに入らないものだけ、お呼びします」
龐統は、しばらく黙っていた。そして、こう言った。
「……若君」
三十二である。そして、この人は、いまだに時々こう呼ぶ。
「三十年前と、同じ手を使われますな」
「はい」
「——」
「そして、三十年前より、うまい」
◆
「丞相」
俺は諸葛亮を見る。
「後継者を選ばないでください」
「では、誰が」
「仕事を渡す相手を選んでください」
後継者。一人。師の全てを継ぐ者。その考え方を、やめる。
戦略。行政。外交。諫言。軍事。教育。記録。それぞれを、異なる人物へ渡す。
「陛下」
諸葛亮は言った。
「責任が分散します」
「はい」
「失敗した時、誰の責任か曖昧になります」
「最終責任は私です」
「陛下へ集中するのでは」
「判断の責任です」
実行の責任。記録の責任。監査の責任。全てを分けて、残す。
最終的に、国としての失敗は、皇帝が受ける。ただし、皇帝が全てを自分で決めるわけではない。
「新体制を」
蔣琬が尋ねる。
「いつから実施しますか」
「来月から」
「早すぎます」
諸葛亮が反対する。
「移行準備が」
「既に、大部分は分かれています」
五丈原後、諸葛亮の仕事は減った。それでも、重要案件になると、最後は全て諸葛亮へ戻る。
制度として、戻らないようにする。
「一か月間」
俺は言った。
「丞相は、決裁を行わないでください」
「陛下」
「助言だけです」
「誤りがあれば」
「記録してください」
「すぐ直さず」
「国が滅びる危険でなければ」
諸葛亮の顔が、明らかに嫌そうになる。
自分なら一刻で直せる間違いを、部下が半日かけて修正する。
見ている。任せる。待つ。最も難しい仕事である。
そして、三十二年前、俺はこの人にこう言った。
「私がやった方が早い、と思われますか」
そして、この人は「はい」と答えた。
三十二年で、その特性だけは、一度も下がっていない。
◆
移行月。最初の失敗。地方官任命の文書が、一日遅れた。
諸葛亮が、立ち上がる。董允が、止める。
「丞相、それはなりません」
「期限が」
「公琰どのが対応中です」
二つ目。呉への返書で、敬称が一つ抜けた。
諸葛亮が、筆を取る。費禕が、取り上げる。
「孫権どのは、この程度では怒りません」
「形式が」
「次回修正します」
費禕は、そこで一つ付け足した。
「丞相」
「はい」
「十六年、私が書いております」
「——」
「そして、笑われたのは、二度でございます」
「——」
「今回は、入りませぬ」
三つ目。軍の食料台帳で、数字が一列ずれた。
諸葛亮の顔色が、変わる。馬謖が、修正した。
「街亭以前の私なら」
馬謖が言う。
「数字が合っているように説明したかもしれません」
「今は」
「間違えたと報告します」
諸葛亮は、口を閉じた。
間違いは、起きる。だが、隠されない。修正される。
一か月後。国は、止まらなかった。重大な混乱もない。
小さな遅れ。小さな誤記。小さな判断違い。それらは、あった。
諸葛亮なら、もっと速く、もっと正確にできた。だが、諸葛亮がいなくても、直せた。
そして、俺は、一つ数えさせた。
「休昭どの」
「はい」
「一か月で、丞相が立ち上がられた回数を」
董允は、答えた。
「十四でございます」
「はい」
「そして、そのうち、座られたのが十三」
「残る一つは」
この人は、少し笑った。そして、こう言った。
「厠でございます」
【蜀漢集団執政体制】
行政執行 蔣琬
外交・調整 費禕
宮中・諫言 董允
戦略助言 諸葛亮・龐統
軍事 複数将評議
最終責任 劉禅
単一後継者 なし
国家単一障害点
諸葛亮 18% → 6%
劉禅 32% → 17%
自分自身の数字も、下がった。皇帝がいなくても、一定期間動ける。それが、必要だった。
三十二年前、この数字は十一だった。そして、十年前、七十一まで上がった。いま、十七である。
◆
諸葛亮は、一か月の記録を読み終えた。
「陛下」
「はい」
「国は」
少し、寂しそうに笑う。
「私より、遅くなりました」
「はい」
「誤りも増えました」
「はい」
「それでも」
「動きました」
諸葛亮は、長く息を吐く。
「先帝が望んだ国ですな」
「丞相が作った国です」
「私は」
「一人で作っていません」
諸葛亮が、今度は素直に頷いた。そして、こう聞いた。
「陛下」
「はい」
「一つ、伺ってよろしいか」
「どうぞ」
この人は、聞いた。
「遅くなった分は、誰が払っておりますか」
俺は、そこで、答えられなかった。そして、しばらくして、こう答えた。
「民です」
「はい」
「——」
「一日遅れた文書の分だけ、誰かが待っています」
諸葛亮は、頷いた。そして、こう言った。
「では、それを数えてくださいませ」
「……」
「速さを捨てた分を、書いておかねば」
「——」
「いつか、誰かが『昔は速かった』と申します」
俺は、そこで、郤正を呼んだ。そして、新しい簿を作らせた。
《遅くなった日数》
三十四年で、十三本目の簿である。
◆
その後、諸葛亮は、正式に丞相の行政印を蔣琬へ渡した。
費禕へ——外交文書の最終整理権。董允へ——宮中人事と皇帝監察。
三人が、それぞれ印を受ける。
渡す日、俺は一つ気付いた。諸葛亮は、印を三つとも、自分で磨いていた。
「先生」
「はい」
「磨かれましたか」
この人は、答えた。
「はい」
「なぜですか」
「——」
「二十四年、使いました」
「——」
「汚れておりますゆえ」
俺は、そこで、何も言わなかった。そして、この人は、こう付け足した。
「陛下」
「はい」
「印は、渡せます」
「はい」
「——」
「手が、覚えていることは、渡せませぬ」
前世で、俺は百年以上、後継者を自前で作り続けた会社の記録を読んだ。
その会社の作り方は、変わっていた。次の長を選ぶとき、一人を選んで育てるのではない。三人を選んで、三人とも走らせる。
三人には、別々の事業を持たせる。規模も、難しさも、揃えない。そして、上の者たちが、三人の仕事を何年も見る。会議で、名前と評価を並べて、口に出して比べる。
決まるのは、最後の年である。
そして、選ばれなかった二人は、会社を去る。これは、失敗ではない。そうなると分かったうえで、三人にしている。
俺は、その記録を読んだとき、残酷だと思った。二人を捨てる仕組みだ、と。
読み違えていた。
あの仕組みが作っていたのは、次の長ではない。三人を何年も見た、上の者たちのほうである。見た者は、次のときにも見られる。見る目だけが、会社に残る。
だから、百年続いた。
そして今、俺の前にいる人には、二十四年がない。
三人に見せる、というのは、見る側を作るという意味である。
三十二年前、俺は同じことを思った。羽扇を渡してもらったときである。
そして、この人の右手が、何も持っていないのに扇ぐ動作をしていた。
そして、今日、本人が言った。
「先生」
「はい」
俺は、聞いた。
「では、手が覚えていることは、どうしますか」
諸葛亮は、少し考えた。そして、こう答えた。
「見せます」
「……」
「そして、真似させます」
「——」
「二十四年かかりましょう」
俺は、そこで、頷いた。そして、こう言った。
「先生」
「はい」
「二十四年は、ありません」
諸葛亮は、少し笑った。そして、こう答えた。
「存じております」
「——」
「ゆえに、三人に見せます」
後継者は、一人ではない。三人でもない。
仕事の数だけ、後継者がいる。
◆
その年、魏の皇帝・曹叡が死んだ。三十五である。
後継は、幼い曹芳。魏の政権は、曹爽と司馬懿へ委ねられる。
若い皇帝。巨大な権力を持つ補佐役。外から見れば、蜀と似ていた。
俺は、木簡を出した。十三年前のものである。
《四人のうち、誰が残るか》
曹真。曹休。陳羣。司馬懿。
曹休。十一年前。曹真。八年前。陳羣。三年前。
そして、残るのは、一人である。
「文偉どの」
「はい」
「士元どのの見立てが、当たりました」
費禕は、答えた。
「はい」
「そして、もう一人、増えております」
「誰ですか」
「——」
「曹爽でございます」
俺は、そこで、少し驚いた。
「二人になりましたか」
「はい」
「——」
「そして、二人は、分けておりませぬ」
俺は、そこで、理解した。
魏には、異議制度がない。権限分散もない。補佐役を休ませる董允もいない。
二人の補佐者は、協力するのではなく、互いに相手を排除し始めた。
「文偉どの」
「はい」
「どちらが勝ちますか」
費禕は、少し考えた。そして、こう答えた。
「待つほうでございましょう」
十三年前、龐統は「若い者。宗室ではない者」と言った。そして、今度は、「待つほう」である。
同じ人を、指している。そして十年後、司馬懿が、病人のふりをやめる。
その夜、俺は木簡を出した。
《四人のうち、誰が残るか》
そして、その下に、書き足した。
《一人になった》
《そして、もう一人、増えた》
《二人は、分けていない》
俺は、そこで、筆を止めた。
十三年前、俺はこう書いた。
《四人に分けても、四人とも死ぬまで待てば、一人になる》
《分けるだけでは、足りない》
《次を、書かねばならない》
魏は、次を書かなかった。そして、この国は、今日、三人に印を渡した。
三人でも、足りない。そして、一人よりは、たぶん、長くもつ。
〈あとがき〉
「名誉職という言葉が、お嫌いですか」「嫌いでございます。働かぬ者の職でございますゆえ」「では、書き換えます」「『渡す職』です」——「それは、名誉職より、きつうございますな」。
「つまらない案件を、先に書いておいてください」。三十年前と同じ手で、三十年前よりうまくなりました。
一か月で、丞相が立ち上がった回数、十四。座ったのが十三。残る一つは厠でした。
「遅くなった分は、誰が払っておりますか」「民です」——そして「速さを捨てた分を、書いておかねば、いつか誰かが『昔は速かった』と申します」。新しい簿《遅くなった日数》。
「印は、渡せます。手が、覚えていることは、渡せませぬ」——三十二年前、羽扇を渡してもらった日に、主人公が思ったことです。「二十四年かかりましょう」「二十四年は、ありません」「ゆえに、三人に見せます」。
《劉禅文庫 蔵書その五十四『GE's Talent Machine』——三人を走らせ、二人が去る仕組み。作っているのは次の長ではなく、三人を何年も見た、見る側である》
次回、第135話「後継者を二人作ると、国が二つに割れる」。




