-私の日常-
列車に乗る。
立ち込める蒸気と、それに呼応するかのように高鳴りを隠せないディ―ゼルの軋み。
眼前に飛び込むは、剥げかけた茶褐色のレール。
まっすぐで、それでいて頼りのないガタガタな線路。
不安も期待も胸に秘めて、ため息・嘆息一つ交じりに、今は未来へと走り始めた。
「もう七月か……」
そう呟いた私はふと、真夏の真っ青な空を見上げた。
ぎらぎらと照り付ける自己主張の強い日の光を受け、思わず目をしかめる。耳をすませば、夏の風物詩であるセミの生存競争の一部や、どこからか、運動部の覇気を孕んだ掛け声が地鳴りのように私の耳を震わせた。
歩くたびに、滴り落ちる汗の玉が頬を伝い、コンクリートの地面に斑模様を作る。
しかし、暑い。
いくら私の住むこの街が海に面していないからといって、今日は近年稀にみる暑さじゃないかと思う。ついさっき、お昼のニュースでもそう言っていた。まあ、明日になって引き続き暑いままだったら、また稀にみる、とかニュースは伝えるわけなのだろうが。
大学二年の私、佐俣 杏華は、そんな至極どうでもいいことを考えながら、大学へ向かっていた。
私の在籍する大学は山の上にあるため、最寄りの駅から徒歩三十分かかる。歩くにしては遠いけれど、道中には急な坂しかないので、自転車はお役御免になっている。
このハードな通学は体力邁進に一躍買っていると自分を鼓舞し、私は歩みを早めた。
汗に身体を浸しつつも、やっとの思いで校門に着いた。下着が妙に湿っている感じがして、気になる。私は急遽、靴箱ではなく更衣室に向かうことにした。
遮光カーテンで閉め切った更衣室の中は、燦々と煌めく陽気な太陽の光とは反対に沈んでいた。自分の影がマットレスの床に映らないことに、慣れた違和感を抱いた。濃紺の制服を脱ぎ、青のブラウスもはだけて、キャミソール姿になる。……正直自分としても小ぶりな胸が、キャミソールの中でもぞもぞと悶えている。暑いからね、今日は。仕方ない。
私は時々、何もかも取っ払ってやりたい、と思う。少し小さめのキャミソールも、とっくの昔に手に負えなくなった、人間関係のいざこざも。また、世界史の教科書の無理やりな話のもっていきかたとかも。
キャミソールを外して一糸まとわぬ姿をさらけ出す。
ふう。
途端、スッと、心地よい風が流れ込んできた。
今は授業中だから、どうせ人は来ないだろう。そばのベンチに身をおろし、羽目を外す。
ロッカーの隣にある鏡に映し出された私の姿からは、疲労感こそ滲み出ていない。
けれど、この二年間の中で社会の荒波にほどほどに揉まれたからだろうか、昔の自分よりもさらにこじんまりとした印象を受けた。
両足をぷらんぷらんと揺らす。長年使いこんだスポーツ系の部室特有のすえた匂いと、女子を象徴するかのような甘い香りがそこかしこに漂う。朝にここに来ると寝てしまいそうになるのはこの部屋の大きな欠点だ。でも、今は大丈夫……
「zzzzzz」
ではなかった。
お昼は眠い。世界の常識だ。私は常識に則っただけだから何も悪くない。授業に遅れても悪くはない。
正論は正論で打ち負かすんじゃなくて、正論の皮をかぶった自論で対抗する。
これは、私の信条の一つである。
私が眠りの世界へ誘われようとウトウトしていたその時、閉め切っていたドアが控えめに開いた。
「あ、いたいた。杏華さん、今日の授業は出なくて良かったのですか」
可愛らしい声の中に一寸の棘を交えた彼女は、私のところまで来てそう言い放った。
「……たぶん大丈夫じゃないかな……?」
実は授業があること自体を忘れていたとは言うまい。そんなこと言ったら、彼女にこっぴどく怒られかねない。
ちらりと時計を見ると、時刻は二時をやや周っていた。授業はいつの間にか終わっていた。
今の彼女の名は、伊倉 夏南。同じ大学の同級生(学部は違う)。身長は私とさほど変わらず女子高生標準サイズ。愛らしい声に、たれ目が特徴の柔和そうな顔つき、それでいて、スレンダーボディ。男子諸君から人気がある。もちろん性格の良さも転じて、彼女は女子にも人気だ。
誰かさんとは大違い。
「杏華さんの多分は多くは分からないことにしてうやむやにするって意味でしょ」
「そうともいうかもね。そうともいわないかもね」
すかさず反論されて、私はぐうの音も出ない。
「もう、今回だけは私がノート取っておいたんですから、来週からはちゃんと出てくださいね」
そういって彼女は、バッグから取り出したルーズリーフの紙きれを私に手渡してくれた。なんだかんだいって、私が授業を休んだ時はこうやって毎回渡してくれるからありがたい。
「……」
押し黙るふりをした私を、心配そうな目で彼女は覗きこんでくる。うああ、からかうつもりが逆にこっちが恥ずかしくなってきた。
眦が下がり、たれ目がさらに垂れた彼女。ふと、私の母性がうずき始め、
「あの、だいじょう……ひゃっ!」
そんな彼女が愛しく思えて、彼女の右手を、私は両手で包み込むようにして握った。この子は大切にしなければいけない。友達だったら尚更愛しいのだろうが、それは到底無理なんだろうな。
私が握った手を放すと、彼女は頬を一目でわかるぐらい真っ赤に染め、足早に部室を去っていった。
去り際にぼそっと何かつぶやいていたし、その内容も把握したけれど、私は後追いはせずにのろのろと着替えを続行した。着替えが終わったらさすがに5限は出席するか。――、彼女と会話している時、上半身が裸のままだった自分をある意味褒めたい。
私は一人でいるのは楽だけれど、自分を保てない。
だからこそ、夏南は私の中で大切な存在だ。
彼女が私の事をどう思っているかという客観性はあえて考慮していない。
大切なものほど人生には溢れすぎていて、すぐに忘れてしまう。友達と言っていいかよく分からない彼女もまた、いづれかはそうなるのかな。
私はいまだに分からない。それこそ、うやむやにしているだけといったほうが正しいけれど。
・部活には所属せず、のびのびと過ごしている私にとって、この大学はパラダイス。田舎の山の上というとんでもなく悪い立地、総生徒数はなぜか3万人、サークルも多いし、ボッチも多いからだ。
小さな地方都市ほどの人数を併せ持つこの大学には、8つの学部がある。一つはこの学校の目玉学部である、国際学部。
断じて言おう。ここは田舎である。田舎に国際学部とか設置されても、肝心の外国人が少ないなら学部名は名ばかりだ。
ちなみに私は国際学部に次いで生徒数が多い、文学部所属だ。夏南は経済学部。他は教育、理学、工学部で、最後の一つの学部。
この最後の学部は、生徒数は一番少ない代わりに、所属している教授陣、生徒たちが濃い人材ばかり。その学部名は――――――
『おい、窓際の前から二番目の机の女子!話を聞いていたか?』
マイク越しにハウリングした教授の声が教室に響き、私は目を覚ました。同じ長机にそもそも人が居ないから、該当者はこの私で決まりだろう。ただ、だからといって別に私は注目の的、にはならないところが大学という場所の特徴だ。
次第に、薄らぼんやりとした視界が開けていく。
『ったく、最近の学生はこれだから駄目なんだよ。授業ぐらい真面目に聞いてくれ』
「すいません」
平身低頭し、目をさすりさすり、黒板を再度眺める。そこには、何やら謎の呪文みたいな数式がびっちりと、読み取れないほど雑な字で書いてあった。
うちの文学部は二週間に一回、『数学を受けてみよう会?』なる、数学嫌いの私にとって至極どうでもいい授業が開かれている。だが、たまたま、この授業は簡単に単位が取れる、との評判を耳にしてしまった。なるべく楽をしたいという怠惰な気持ちは私の自意識を悠々飛び越えてしまった。
結果、目下のところ、赤点街道をひた走っているわけである。
内容が分からない、というよりそもそも黒板に何が書いてあるかすらも私には分からない。
それもそのはずで、この授業、数学Ⅲなのだ。数Ⅲ……。その名前を聞くだけで背筋がぞくり、とした。数学、あれは私が理解できるものではない。日本人は国語ができればじゅうぶんなのであり、センター試験で三十点(二百点中)の私には蚊ほども分からなくて当然である。楽単かどうか私が質問した相手は、たまたま理系の学部だったのだろう。理系の人から見れば、そんなもの朝飯前に二度寝しないことぐらい簡単なはずだ。
……同じ文系の学部に友達がいないとこうなる。
そんなことは昔から分かりきっている。仕方がない。
ほどなくして授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。
しばらくの間、周りの人が掃けるのを待ってから、私はこの大講堂を出た。これからの予定は未定。家に帰っても昼寝するだけだし……。
―――たまには図書館にでも寄ろうかな。
クルリと進行方向から背を向け、私は部室棟の方へ歩き始めた。
リノリウムに透過している柔らかな陽射しは、人の心を穏やかにする。例外なく私も、うとうとしながらゆっくりと、目的の場所へ足を運ぶ。
突き当りの階段を昇り、降りた三階の向かって南側の廊下を進むと、その部屋は見えてくる。
部屋の前に着くと迷うことなく、寂れかかって赤茶色に変色したステンレスのドアを開ける。ぎい、と軋み呻くような音を合図に、足を踏み入れる。
途端、湿っぽい空気と、長年にわたって蓄積されたと思わしき見渡す限りの本の独特の香りが私の鼻腔をくすぐりだした。ここに通い始めて早二年、いまだこの匂いには慣れない
匂いには敏感なほうでもないのに、どうしてここまで気になるのだろう。
図書館と呼ぶには狭苦しいこの部屋の中は、本に次ぐ本で溢れかえっている。
それを管理すべき司書は昔から不在だ。出入りは今の私のように自由のようなのだけども。
この部屋は、立地が学課棟から離れているためか殆ど誰も利用しない。だからいつのまにか見放されてしまったのだ、と私は勝手に解釈している。
ここに来たのはほんの偶然で、講義の合間に友達もいない私が、暇つぶしがてら校舎をぶらぶらしていた時にたまたま見つけた。
切っ掛けはそれだけだ。しかし私はなんとなく気に入ってしまったのか、その後はこうして入り浸ってしまった。
最近ではここで講義をさぼったりしている。ここで。それがなかなかに楽しいもので、説明すれば長くなるから説明は省くけれども、備え付けのテレビで誰にも見つかることなくゲームをしたり、備え付けの冷蔵庫の中でキンキンに冷やしたアイスを食べることはたまらなく素晴らしきことである。
今日もいつも通りに手近な長机に陣取り、その辺に積まれている本から適当に選び、アイスを食べながら優雅な読書を始め……
と、ふいに、がらがら……とドアを引く音とともに、ぼそっと誰かが呟いたような声が聞こえた。
誰だろう、とそちらに目を向けるが、ドアの前には誰も居ない。
侮るなかれ、自分の聴覚には自信があるのだ。聞き逃すはずもない、私と同じかそれ以下のような色っ気のない声が、確かに聞こえた。
「ったく、きみはぼやっとし過ぎだよ。」
やはり同じ声が聞こえる。なんというか、改めて聞くと、かっこいいというよりは鋭利な声だな。
と、今度は、ぼこん、と背後から殴られた。手加減なしである。
「痛いなあ、……って、あら?」
一応振り向いてはみたものの、誰も居ない。
「下かしら?」
誰も居ない。腰を痛めただけだ。
「じゃあ、上?」
誰も居ない。首が痛くなるだけである。
「なるほど、これが心霊現象とかいうものなのね。」
生後長らく抱いていた疑問が解消されたことに、一時の喜びを私は感じた。
とりあえず適当な椅子に腰かけて、スポーツバッグから筆箱、ノートを取り出す。
この部屋の机は木製だからか、妙に勉強がはかどる。
お世辞にも頭が良いとは言えない私は時々こうして、日々の授業の予習やら復習やらを行っている。
大学生は遊ぶものだ、と世間一般では言われているが、そんな言葉、私には通じないのである。そりゃあ、個人差こそあれど、つらい受験生活を耐え忍んだからこそ得られるモラトリアム期間。バイトなりサークルなりに励んで、それなりに勉強して、なによりも得難き友達やら彼氏彼女やらを作るのが楽しいだろう。
しかし、私には余裕が無い。
友達はお察しの通り居ない。話すぐらいの知人はいるのだが。
それ以上に時間が、無い。
果たして間に合うのか……。
ノート教科書ノートと、忙しなく視線を動かす。
夕暮れの残照が
・・・・・・。
・・・・・・っと。
外から差し込む青白い月光により、窓に自分が映し出される。
思いがけず、寝ていたらしい。今日はもう帰ろう。
結局、勉強は予定通りに進まなかった。それに、幽霊(仮)もあれ以降、姿を見せなかった。
そそくさと荷物を纏めて部屋を後にした。
「『寝ていた』、ねえ……。実に好意的解釈だなあ……。」
「まあ、仕方ないかもですよ。それが初めてだったら……。」
感心しているか半ば諦めているかのような声が、空いていた窓の外から響いていた……。
・ピロートークは苦手だと自覚している。
自覚している、はず……、はあ……。
ごめんなさい。それは嘘なんです。
毎晩毎晩、彼女の行動やら話すことやら考えることやらを想像するだけでベッドにダイブインします。
足をバタバタ、頭はぐるぐる。
実に悶えます。りびどーを解放するのです。解放した「りびどー」は私を夢へと誘います。
実にgood night 。今宵も例外なくgood nightでした。
というのも。起きてみたらあら不思議、深夜三時。丑三つ時。就寝十時、起床6時の私にしてみたらえらく早い時間です。
寝付けないので階段を下りて台所に行きます。
自分用の花柄をあしらったコップにミネラルウオーターを注ぎ、コップ片手にリビングへ。
しばし休息です。明日は1限から大学の授業があるので、英気を養います。
……。
今日ノートを渡したとき、杏華さんに手を握られたなあ……。
あれ、どういう意味だったのだろう……。
ただいつもどおりノートを渡しただけだったのに……。
白くてすべすべとした彼女の手の感触が、いまだ熱を持って残っています。
ああ……。
幸せだったなあ……。
にへら~とした顔は、できれば見せたくなかったのですが。
まだ彼女に弱みを見せる段階じゃないはずなのです……。
普段はぐだーっとだらしないのに、変なところだけはきりっとしているところがいけないのですよ、まったく。
人の感情というものは得てして、複雑で繊細、それでいて刹那的なものです。
時と場合に左右されがちなのが玉に瑕ですが、変わらない気持ちだってあるはずだと、「私」は思っています。
それをどう生かすかは、個人の裁量に任せるとしましょう。
……
少々考え過ぎました。
寝ることにしましょう。
おやすみなさい。
zzzzzz……。
夜が更けていく。
主観的に物事をとらえることが得意な彼女、夏南は、杏華を一方的に『想』っている。
ただしそれは、純粋な好意というよりもある種の執着心であった。




