第二話 差出人不明の恩
儀式から屋敷に戻る馬車の中、リディアはずっと黙り込んでいた。
向かいに座る父ヴィクターも、無言のまま窓の外を見つめている。母セシリアに至っては、儀式にすら顔を出さなかった。
(そりゃそうだよね。息子を殺した男の家に、娘が嫁ぐことになったんだから)
屋敷に着くなり、父はようやく口を開いた。
「リディア……すまない。私たちには、拒む力がない」
「分かっています、お父様」
分かっている。分かっているからこそ、何も言えない。
その夜、リディアは眠れないまま、屋敷の書庫に足を運んだ。何かに没頭していないと、気が変になりそうだった。
棚の奥、埃をかぶった帳簿の束に手を伸ばす。ヴァンス家の資金繰りの記録──兄が亡くなってから、家がどうやって持ち堪えてきたのか、リディアはこれまで詳しく知らなかった。
ページをめくるうち、ある一文に目が止まる。
『匿名の後援者より、当家運営費として定期的な支援を受ける』
「……匿名の、後援者?」
三年前から、毎月欠かさず。
金額は決して大きくないが、ヴァンス家が没落せずに済んだのは、明らかにこの支援のおかげだった。
差出人の名は記されていない。だが帳簿の隅、小さく刻まれた紋章に、リディアは見覚えがあった。
翼を広げた鴉。
(これ、どこかで……)
「お嬢様、まだ起きていらしたのですか」
執事のオズワルドが、灯りを持って書庫に現れた。
「オズワルド。これ、見て。この紋章に見覚えはある?」
老執事は帳簿を覗き込み、しばらく沈黙した後、静かに答えた。
「──レイヴンズウッド家の紋章です」
血の気が引く音が、自分の中で聞こえた気がした。
「まさか」
「三年前から、旦那様宛てに匿名で届いていた支援金です。差出人を伏せるようにと、強い指示があったと聞いております」
三年前。
兄が処刑された、その年から。
(意味が分からない。仇の家が、なんでうちを支えてたの?)
頭の中で、儀式で見たあの金色の瞳が、ふと蘇る。
勝ち誇った様子でも、憐れみでもなかった、あの静かな戸惑いの表情。
(──待って。もしかして)
考えかけたところで、リディアは自分に言い聞かせるように首を振った。
(いや、違う。何か裏があるに決まってる。優しくされたからって、ほだされるもんか)
そう思うのに。
帳簿を握る指先が、なぜか震えを止められなかった。
翌朝、屋敷に一通の手紙が届いた。
差出人の名は、今度は隠されていなかった。
──カイン・レイヴンズウッド。
「本日、顔合わせのため訪問いたします」
その一文を読んだ瞬間、リディアの心臓は、儀式の日と同じ速さで音を立て始めた。








