第7話 読者モデルと嫌な視線
「おいおい、マジかよ。オレ、数学で初めて『わかった』って感じたぜ」
「はは⋯⋯。まあ、中学校一年生の内容だけど」
放課後の教室にしては、珍しく人が残っていた。
赤髪の男が教科書を両手に持って、瞳を輝かせている。
そんな相手を前に、トーマは苦笑し、眼鏡の男はぽりぽりと頬をかいていた。
「こまけーことは、いーんだよ。すっげえなあ、ハチッ!」
「いたっ! 力が強すぎるって⋯⋯」
「ははっ! わりぃわりぃ!」
屈託のない笑顔を見せる赤髪の男が、ハチの背中を叩いていた。
ずれた眼鏡を、ハチはかけ直した。
私の側にある影が、わずかに揺れた。
ふと見れば、崩した格好で椅子に背を預けたクロヤがいる。
賑やかな方をしばらく眺めてから、フッと息をこぼして、視線を窓へと移した。
ハチを見ると、どうしても一週間前を思い出す。
屋上。
落ちる感覚。
あれだけのことがあったのに、クロヤはワイシャツを破ったくらいで済んでいた。
クロヤはあの時のことを、どう思ってるんだろう。
木が、変な折れ方をしたときも。
私が、変な落ち方をしたときも。
クロヤは側にいた。
騒ぎを聞きつけた教師にも。
破れたワイシャツをつまんで、「何をしたの」と問い詰めるミクにも。
クロヤは「別に」としか言わなかった。
落下した翌日に、謝ってきたハチを前にしても。
肩をぽんと叩いて、「おう」と短く返すだけ。
恨み言のひと粒すらこぼさない。
何を思ったのか、ハチはそんなクロヤに何かと声を掛けてくるようになった。
ハチがこっちを見るたび、なんだか胸の奥がざらつく。
⋯⋯たぶん、私がハチを嫌いなんだと思う。
そして、たぶん相手も同じだ。
ハチはよく私を見つめてくる。
少しだけ怯えた視線で。
勝手に割れた蛍光灯。
誰も触っていないのに、落ちていった私の身体。
そういうところを、ハチは見てしまっている。
ハチが近くにいると、小さな黒い塵が溜まっていく。
じわじわと、内側に溜まっていくのがわかる。
気味悪がっているのだろう。
負の気持ちを向けられるのは、やっぱり慣れない。
だけど、今の私には少しだけありがたさもあった。
私は相変わらずクロヤと学校に来て、服を直してもらっていた。
古いドレスは扱いが難しいらしく、完全に直すまでには時間が掛かりそうだ。
学校に来ればハチがいて、力を使う練習を気兼ねなくできる。
ナナシは私を半端者と言った。
ちょっとしたことで驚けば、勝手に何かを動かして。
けれど、大事な時には上手く扱えない。
半端者。
その通りだと思う。
私はクロヤをそっと見上げた。
頬杖をついて、遠くを眺めるクロヤ。
少し開けた窓から入る風にそよいで、髪が静かに揺れた。
ミクと話せたように。
いつかクロヤにも届けばいいな。
◇
最近では移動するのに抱っこ紐がないとちょっと落ち着かない。
慣れってすごいんだな。
少し前の方でハチと赤髪の男、トーマがぎゃあぎゃあと騒ぎながら、商店街を歩いていた。
道行く人たちは迷惑そうに眺めている。
けれど、ガラの悪い集団に、そそくさと視線を散らしていた。
ただ、クロヤに向けられるそれは、前の三人よりもさらに酷い。
クロヤを見た人は、身体を強張らせ、自然と距離をとっていった。
クロヤ、そんなに怖いかな。
⋯⋯目つきは確かに、ちょっと気が引けることがあるけど。
ふいにクロヤが立ち止まった。
ぐいっと視線が横に走る。
何かを見つけたのか、身体ごとぐわんと振るように向きを変えた。
どすどすと歩き始める。
――ひゃ!?
なになにっ!?
クロヤ、どうしちゃったの?
急に振り回される感覚に、思わず身体がこわばる。
たどり着いた場所は、入口の前に雑誌が平積みされている店だった。
クロヤの手が迷いなく、一冊の雑誌に伸びていく。
派手な色の表紙。
女の子たちが並んでいる。
その中に見覚えのある顔があった。
ミクだ。
だけど、少しだけいつもと違う。
いつもは後ろでまとめているのに、表紙では髪をゆるく下ろし、肩に掛かっていた。
少し大人びている雰囲気だ。
雑誌の中のミクは、どこかしなやかに見えた。
いつものミクがやんちゃな猫さんなら、本の中にいるのは高貴な猫さんみたいだった。
前のめりになったクロヤが、ぱらぱらとページをめくる。
ちらりとのぞいた三白眼には、言いようのない凄みがあった。
ほんの一瞬、動けなくなる。
「クロさーん、いきなり消えないでくださいよー。めっちゃ探しましたわ」
トーマが困った笑顔で近づいてくる。
「あー、わりい」
「何見てるんすか。⋯⋯VIVIDっすかあ。おっ、ミクちゃんもいる。表紙に載るなんてすごいっすね!」
「まあ⋯⋯、読モ特集号だけどな」
言いながらも、クロヤの視線はミクからブレない。
まるで、それ以外が目に入っていないみたいだった。
トーマに遅れて、ハチと赤髪の男もやってきた。
「おっ! この子、可愛くね?」
赤髪の男が隣のページにいる女子を指差していた。
少しきつめの目に、ゆるく巻いた髪。
ミクとは、なんだか違う感じがした。
「⋯⋯あん?」
クロヤの低い声に圧が乗っていた。
三人が、びくっとする。
「ミクよりも、か?」
あ⋯⋯、これ、まずいやつだ。
「はは⋯⋯、そこはほら、オレ的な好みってか⋯⋯」
赤髪の男が、乾いた笑いをもらす。
「な、なあっ、ハチはどっちがいい?」
「ええっ!? ぼぼぼ、僕っ!?」
赤髪の男に背を叩かれ、ハチの眼鏡がずり落ちかけた。
私はじいっとハチのことを見つめた。
なんて答えるのか、少しだけ気になった。
私は、ミクの方が可愛いと思う。
「⋯⋯ん」
クロヤが雑誌をハチへ押し付ける。
ハチは受け取ると、両手でしっかり抱え、視線を落とした。
ごくり、と誰かが唾を飲み込んだ。
「え、と⋯⋯。こっち⋯⋯、サナちゃんて書いてある方が⋯⋯」
身体の内で、力を練るように意識を向ける。
雑誌へ、そっと力を流した。
パラパラパラッ――。
「わあっ!?」
勢いよくページがめくれ、ハチの手から雑誌が滑り落ちた。
「あー、何やってんの」
トーマが雑誌を拾い上げ、ぱんぱんと汚れを叩いた。
「いや、その⋯⋯」
ハチがちらりと私を見つめた。
けれど、すぐに目を逸らした。
じわりと内側に溜まっていく塵が、わずかに増えた気がした。
「トーマ。雑誌」
クロヤが無造作に手を差し出す。
「クロさん?」
「買ってくる。待ってろ」
トーマから雑誌を受け取ると、クロヤはレジへと向かった。
◇
ジュージュー。
フライパンで炒め物をする音が、リビングまで届く。
すっかり定位置になった、リビングのテーブルの上。
今日も二本の一升瓶に、身を預けている。
二瓶の丸みが、なんだかちょうどいい。
私は、テーブルの雑誌をこっそり一枚進めては止め、また戻してみる。
「いやはや、本屋での出来事は愉快じゃったの」
ナナシがくっくっと笑いながら言った。
面倒がらずに人っぽい姿を作って、宙に浮いている。
私には見えている。
けれど、クロヤが気にする素振りはない。
ナナシは学校に来るわこともあれば、家でごろんとしていることもあるようだ。
それも姿を見せないことがほとんどで、どうしているのか私でも分からないことが多い。
今日は、ついてきていたらしい。
「やれやれ⋯⋯、可愛げがなくなったのう」
少し呆れた口調で言った。
ナナシが繋げてきている時は、考えてることは筒抜けだ。
せっかくだから、聞いてみる。
力の使い方、どうだったかな。
「可愛らしい、とだけ言っておこうかの。そこは、な」
ナナシは意地の悪い話し方をする。
ナナシが力の使い方を教えてくれるようになったのは、学校での一件を終えてからすぐだった。
急にどうしたんだろう。
理由はさておき、むしろお願いしたいことだった。
ただ、教えてくれるのは物を動かすことだけ。
他にも使い方を教えて欲しいのに、はぐらかされるばかりだった。
「焦るでない。半端者は、地道にやることじゃ」
ナナシは、ふっと息を漏らした。
「その可愛らしいとこが、クロヤと合うかもしれんな」
頬に添えた手を、ナナシは人差し指だけで、トントンと刻む。
紙を動かすのも忘れて、ナナシから目が離せなかった。
「⋯⋯ただいま」
玄関の方から、聞き慣れた声がした。
ミクだ。
ただ、どこかがいつもと違う。
リビングへ向かってくる足音も、普段より少し遅いようだ。
ナナシはミクを待つことなく、形をほどくように黒く崩れていった。
フライパンを振っていたクロヤが、手を止めてコンロの火を消した。
考え込んでいる様子のミクが、リビングへ入ってきた。
やっぱり元気がない。
後ろでまとめられた髪も、しょんぼりしているように見える。
「なんかあったか」
「あー、⋯⋯うん」
「聞いてよ兄貴!」って来るかと思ったのだけど。
やっぱり様子がおかしい。
ミクは口をもごもごさせ、何かに迷っているようだった。
「⋯⋯怒んないでよ?」
「内容による」
「そこはさ、嘘でも『ああ』ってうなずくとこでしょ⋯⋯」
「んなことで、嘘ついてどうする」
クロヤの強い視線にさらされ、ミクは大きなため息をついた。
「今日、読モのバイトだったんだけどさ」
「ああ」
「いきなり言われたんだよね。来月から会社の経営が変わるってさ⋯⋯」
クロヤが腕を組む。
「そんで⋯⋯、その社長になるっていう男が、ちらっと来たんだけど⋯⋯」
ミクはわずかにうつむき、上目遣いでクロヤをうかがう。
「なんか、ちょっとヤバそうでさ」
「なにがヤベェんだ」
もご⋯⋯と、ミクの言葉が続かない。
「なんか⋯⋯、いやらしい感じで見られてるっていうの? いやっ、気のせいかもしんないんだけどっ!」
弾けるようにクロヤは動いた。
テーブルにある一升瓶を荒くつかみ取った。
ずかずかとリビングを出ていこうとする。
「ちょ! 兄貴っ! あー、やっぱり言うんじゃなかった!」
ミクが握り込んだクロヤの服が、限界まで伸びる。それでもクロヤは止まらない。
目が血走っている。
どっかに突撃しそうなクロヤが気になる。
でも、私は焦ってもいた。
クロヤの持ってる一升瓶。
それは私の背もたれの片割れだ。
ず――ずず――、パタン。
私は倒れた。
音は、それほど大きくない。
だけど、クロヤの足がピタリと止まる。
クロヤが振り返り、私がいる方を眺めた。
頬をぽりとかき、手にした一升瓶を見つめる。
ゆっくりと戻って来てくれた。
「悪かったな」
一升瓶を並べ、私の身体をそっと戻してくれる。
「あのさ⋯⋯」
ミクは右腕に左手を添えた。
「読モのバイト先、家族とか連れてきてもいいんだって⋯⋯」
ミクが視線を落とした。
「⋯⋯兄貴、しばらく来てくれない?」




