8
一向に弱まらない雨をソラは窓越しに見つめていた。
孤児院の彼女の自室。
ソラは窓際の椅子に座り夜の雨空を見上げながら物思いにふけっていた。
ちょうど同じ頃、パルがそうしていたのと同じように。
どうしてあんなことを言ってしまったのだろう。
その後悔が心の真ん中でいつまでもくすぶっている。
パルは確かにあの場面で自分の力を発現させることができなかった。
しかし、それはやむを得ないことだ。仕方のないことだ。
あんな怪物を向うに回し、命の危険に晒されて。恐怖しない者などいない。
それが普通なのだ。
かくいう自分だってそうだった。仲間に助けられなければ命を落としていた場面もある。まして能力を使えなくなって最終的には旅から脱落しているのではないか。
それなのにあんな皮肉めいたことを言ってしまった。
あんなのはただの八つ当たりだ。彼を憤懣の捌け口にしてしまった。
「ふう」
ソラは細い溜息をついた。罪悪感が胸中に広がっていく。
「あの、ナリアです!」
そのときドアがノックされた。
「どうぞ。開いてるわ」
ドアを開けてナリアが顔を出した。
「遅くなりましたけど、晩ご飯ができました~」
ナリアは疲れた表情でそう言った。
何となくの話の流れで今日の夕食はナリアがつくることになった。
まだナリアの腕を知らなかったソラとラッセルは彼女に任せることにしたのだが間もなくその決定を後悔することになる。
失敗に失敗を重ね結局はラッセルがつきっきりで教えることになったのだ。
正直、先生か自分が自分で作った方がよほど手っ取り早かっただろう。
「ありがとう。今行くわ」
しかし、ソラはそんな事はおくびにも出さずに返事をする。
「あの、ちょっといいですか?」
「え? いいわよ」
「失礼しま~す」
ナリアはドアを閉め部屋の真ん中まで入ってきた。
「何かしら」
「はい。え~あの~」
ナリアは胸に両手をあてて珍しく話しにくそうにしている。
「パルのことを訊きたくて」
やがて意を決したように話を切り出した。
「あいつ、今日は様子が変だったから。なんだかへこんでるっていうか」
ナリアの言葉には確信が満ちている。
「そう。よくわかっているのね、彼のこと」
「まぁ、付き合いは長いので」
ナリアは苦笑して頭を掻いた。
「そう」
穏やかな仕草から本当にパルのことを案じていることが分かる。
付き合いは短いけれど彼女が悪い人ではないことはもうわかっていて。
二人の絆のこともわかっていて。
こんなにも真っ直ぐな気持ちが伝わってきているのに。
それでも信じたくないのだろうか。
この彼女の笑顔の裏にも目を背けたくなるような暗いものが居座っているのだと、そう言いたいのだろうか。この自分は。
「昼間の事件のときに何かあったんじゃないかと思うんですよね」
「それなら知ってるわ」
「教えてもらいますか?」
「ええ。もちろん」
それからソラは昼間の出来事をナリアに話して聞かせた。
怪物の件も、パルの件も、フローラの件も、ソラがパルにかけた言葉についても。
ナリアは真剣な表情でソラの話に耳を傾けていた。
「何か言うことがあるかしら」
話し終えたソラはそう尋ねた。
自分の八つ当たりをナリアが責めてくれればこの後味の悪さも薄まるかもしれない。
そんな浅ましい計算も多分に込められていることをソラは自覚していた。
「昼間のことですか?」
「ええ」
「そうですね。じゃあ幼馴染として!」
ソラは少し身構える。当然、非難されると思ったからだ。
これだけ言っておいて、非難されればへこむ。
自分のことながら、面倒臭いことこの上ない。
しかしナリアは
「ありがとうございました!」
というと頭を下げた。つられて右耳後ろのお下げがぴょこんと揺れた。
「えっ? ――え゛え゛っ?!」
ソラは全く予想外の言葉に驚愕した。
勢いよくのけぞりすぎて危うく椅子ごとひっくり返りそうになる。
「だ、大丈夫ですか!?」
ナリアが慌てて駆け寄ると椅子を支えて元に戻した。
「怪我しているんですからリアクションは加減して下さい! 笑いなんて命かけてまで取るもんじゃないんですよ!」
「ええ。だだだだ、大丈夫よ。げふっ、ごほん」
ソラはわざとらしい咳払いをするとすまし顔を作り手櫛で髪を整え
「ちなみに取ろうなんて思ってないわよ、笑い」
と大真面目に否定する。
「ふふっ」ナリアは吹き出した。
「何よ」
ソラは恨めし気にナリアを睨み付ける。
「いえ、何でもないですよ」
「ふんっ」
ソラは目をそらすと「それで? どういうことなの?」と話を変えた。
「それでって。さっきの話ですか?」
「そうよ」
「そりゃ、あいつにキッチリと言ってくれたことですよ」
ナリアは窓際に立つと、先程までのソラと同じように雨空に視線を送る。
「そういうの言えないんですよね、あたし。どうもあいつには甘くて」
ナリアは苦笑を浮かべた。
「一度、ここらでガツンとやられたほうがよかったと思うんですよ」
「ガツン?」
「はい、ガツン! です。フォルトゥナとして戦うっていうのはきっとすごく危険なことですよね?」
「まあ、そうね」
「でしょ? 絶対いつかこういうことがあると思ってたから。なんとって言ってもあいつの基本は臆病に出来てますからね。なのに最近無理してるみたいに感じられて」
「……」
ソラは口を挟まない。
「正直なところ心配だったんです。でも、ここであいつを止めちゃったらまた昔に戻っちゃうような気がして。何にも言えなかったから」
「そうだったの」
「これは、ピンチだけど、チャンスです」
ナリアがソラの方へと振り向いた。
「もし、これでまた今までと同じことを言えたら。そしたらあいつが今度こそ少しは強くなったってことだと思います」
言葉の端々から真剣にパルを案じていることがひしひしと伝わってくる。
いつもの元気な印象とは異なる大人びた表情がそこにあった。
「そうなるかしら?」
「まぁ、多分、大丈夫じゃないかと」
ナリアの口調には、その言葉の割には、強い信頼が宿っているように聞こえた。
「今度は私が訊いてもいいかしら」
ソラは一つ、気になっていたことを尋ねてみることにした。
「何ですか?」
ナリアはソラの方へと向き直る。
「あなたは私のことどう思う?」
「え?」
質問が端的すぎてわからなかったのかナリアが不思議そうな顔をした。
「あなたも、そして彼も私のことを知っても変わらず接してくれたわ」
「そうですかね?」
「それはどうして?」
元オプティムスで脱落者。旅を最後まで続けられなかった未熟者。それが自分の過去だ。
孤児院の皆は自分を受け入れてくれているが、ナリアとパルはそれ以外で初めてできた知り合いだ。
だから少し気になった。そういう人たちが自分のことをどう思っているのか。
ソラは恐る恐るナリアを見る。
ナリアは、ぽかん、とまん丸の目をこちらへ向けていた。
「いや。それは、ソラさんのことは知っていて……ちょっとは偏見みたいなものがあったのも確かですけど」
「けど?」
「いきなり涙目でウチの変態にビンタですよ? しかも可愛らしい悲鳴付きで」
「そ、それは! だってあんな」ソラが顔を赤くして俯く。
「あんな可愛いところ見せられたら、嫌うなんてできないですよ~。さすがに噂よりはこの目で見た現実を優先します」
ナリアは大きな自分の瞳を指さして、いたずらっぽく笑った。
「うっ。じゃ、じゃあ彼は? 今の話ならいきなりビンタされたわけだけど」
ソラがまた顔を上げた。
「あいつはまぁ、基本的にお人好しですし? ビンタは自業自得だし、それに個人的な事情でソラさんのことは――」
そこまで言うとナリアは両手を開いて腰を落とし、ソラにすすすとにじり寄った。
「な、何?」
ソラが不安げな声を上げる。
「――憧れてましたからね」
「ひい?!」
雷にでも打たれたかのようにビクリとソラの背筋が伸びた。
さすがにこのリアクションにも慣れてきたナリアは先手を打って椅子とソラの背を支えて対処する。
「どどど、どうして私に?」
ソラがわたわたとしながら尋ねた。
「ソラさん、あいつのフルネーム、聞いてないですよね?」
落ち着いてきたソラの様子を見てナリアが手を放す。
「え? ええ、そういえばパルとしか」
ソラは意図が分からず訊き返した。
「あいつの名前ね、パル=リミットエンドっていうんですよ」
それを聞いてソラの目が驚愕に見開かれる。
「リミット、エンド? それじゃ、彼は?」
「はい。コー姉、コートニー=リミットエンドさんの弟なんです」
優しげなコートニーの笑顔がソラの脳裏を過っていった。
「あんまり名乗りたがらないんですよ」
「なぜ?」
「多分、気にしてるんじゃないのかな」
そう言ってナリアは少し寂しそうに笑う。
「気にしてるって、何を?」
ナリアはゆっくりと深呼吸をした。そうしなければ話せないことなのかもしれない。
ソラはナリアが話し始めるのをじっと待った。
「――三年前。ソラさんたちオプティムスがこの国を旅立ったとき。パルも一緒に行こうと思えば行けたんです。あいつはそのときからもう、オムニア、ですか? あの石に適合できたから」
「そんなに優れた術者だったの?」
「いえ。とてもとても」ナリアは首を振る。
「でもオプティムスの肉親の中ではただ一人の能力者でした。だから特例っていうやつで」
「なるほど」ソラが頷く。
この国で最初に認定されたフォルトゥナは計48名だったという。切迫した当時の事情から、彼らを前線へ送るためには実に様々な試みがなされたらしい。お金、名声、正義。フォルトゥナの戦う理由は今も昔も様々だ。
これもその一種なのだろうとソラは得心した。
「でも、あいつはそうしなかった。さんざん迷ってましたけどね」
結果として姉のコートニーだけが旅立ち――そして帰ってくることはできなかった。
ソラも知っている悲しい結末につながる。
「怖かったんだって言ってました。だから行かなかったんだって。あいつはまだ後悔していると思います。コー姉と一緒に行かなかったこと。名のるたびにそのことを意識しなくちゃいけない」
ナリアの顔が苦しそうに歪んだ。
だからリミットエンドとは名乗らない。そういうことだろうか。
「それであいつは憧れているんですよ。自分と同じ恐怖と戦って、それでもちゃんと旅に出たソラさん達に」
「少なくとも、私はそんな立派なものじゃないわ」
「でもあいつはそう思っていないですよ。ちなみに、あたしも、ですけど」
ナリアがにっこりと笑った。
「うぐ」
ソラが思わずたじろいだ。
「そんなことがあって『多芸無芸』を初めたんです。お金とかそういうのじゃなくて、コー姉が守ったものを自分も守るんだって」
ソラの胸裏に『後悔しないように』という彼の言葉が思い起こされた。
あのときは何となしに聞いていたけれど。あの言葉の裏にそんな事実があったとは。
「彼はどうして私のこと知らなかったのかしら? 出発祭もあったのに」
ソラ達が出発するときこの国では急造の出発祭が催された。
そこで自分たちは沢山の人の前に立ったのだ。今も多くの人がソラのことを知っているのもそれが一因である。
「パルはそもそも会場に行きませんでしたよ。後ろめたかったんじゃないですか?」
「そう」
姉の姿を見送る。そのための空間に耐えられなかったのだろうか。
「それに行ったとしてもソラさんのことはどうだろうな~?」
深刻な話は終わったとばかりにナリアが意地の悪い視線を向けてきた。
「え?」
「だって、ソラさんず~っと顔を俯かせていましたから。あれがソラさんですよね」
ナリアが思い出したように含み笑いを漏らした。
「今、思い出しましたよ。変な人がいるなぁって思いましたもん」
「しょ、しょうがないじゃない。恥ずかしかったのよ」
多くの人たちの前で晒し者になるなど地獄以外の何物でもない。
当時を思い出すといまだに顔が赤くなるソラだった。
「コー姉とパルはそりゃもう仲の良い姉弟でした。いろいろあって早くに両親と別れちゃったみたいで。その分すごく強い絆で結ばれているのがよく分かった」
「あなたは、二人とはいつ?」
「あたしですか? もう十年位前かなぁ。少し落ち込むことがあって。そんなときに二人に励ましてもらいました。以降はもうずっと一緒ですね」
ナリアは右の手のひらを慈しむように見つめながら言った。
何か大切な思い出でもあるのだろうか。
「そう」
ソラは意識を少しだけ自分の内側に傾かせた。
自分が旅に出た理由。
彼が戦う理由。
考えるまでもない。今の彼はずっと立派だ。とっくに、自分よりも。
それなのに私はあんな言葉をかけてしまったのか。
またむくむくと心中の罪悪感が勢いを増してくる。
やはりこのままにしてはおけない。それでは自分も一緒になってしまう。
「ね、ねえ」
「ん? 何ですか?」
「ちょっと相談したいことがあるの」
ソラは意を決したようにナリアに話しかけた。