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6 バリ・ハイ



「紫月様。主人、エミル・サリム様からお電話です」

 日が傾き、そろそろ高速艇が戻る時間だった。

 メギナが受話器を差し出した。彼女の体から、ふわりと強い香辛料が香る。彼女を手伝って、舞の姿もキッチンにあった。

「申し遅れましたが。ナミルノ様は、サリム様の末の息子にあたるのです。ジュベルを兄弟のように可愛がって下さって」

「……それで……」

 親密な眼差しに感謝の色も込めて、彼女は一礼しキッチンへ引き取った。

「紫月です」

「大変な休暇にしてしまいました。心からお詫びします」

「そんなことは。会見を見ました。あなたがご無事で安心しました。部下が役に立ったようで」

「インドネシア政府は感謝しています。事件が内密に処理されたことで、お互いに遺恨を残さず収めることができました。

 このことは、彼等、解放軍との交渉によい印象をもたらすでしょう。凶暴であったのは、一部のゲリラであり、そのほとんどをあなた方が排除して下さった。彼等も、強行派を持て余していたのです。会見の直後、私の元に電話がありました。

 あれは私の部下か? と」

「どう答えたのですか?」

「本当のことを話しました。ダムを守るために、現場責任者が雇った者たちであると。たまたま捕らえたゲリラが、あなたたちのアジトを白状したので、軍が検挙したと」

 サリムは微笑むように、沈黙した。紫月は尋ねた。

「一つだけお聞かせください。あの男は、軍が雇った軍事コーディネーターと名乗る男は何者ですか? どういう関係を。

 我々とは因縁浅からぬ者で、どうしても知りたいのです」

「それだけは、申し上げられません」

「なぜですか? 彼には何度となく煮え湯を飲まされてきました。どうか僕に手を貸して下さい」

 一時沈黙し、サリムは静かに答えた。

「私も、何者なのかは分かりません。あなたのお父上同様、ある困難に直面した時知り合いました。そうして、今回の協力の報酬は『秘密厳守』。それ以外、何も望まないと言いました」

「……そうですか。では無理強いできませんね」

 紫月は深く肩を落とした。

「少なくともこれだけは言えます。我が国にとって、彼は敵ではないと。終生、偉大なる客人として迎えられるでしょう」

 暖かい本心からの声音が、紫月の耳に染みる。

「勿論。あなたも」

「勇気ある息子さんに、よろしく。いい休暇を、感謝します」

 気を取り直し紫月は礼を言った。

「あの男に会うなら、伝えてもらえますか? 今夜限りの、ディナーの席が用意してあると」

 ……現れる可能性は五分。紫月は一方に賭けてみた。



「……僕はディナーに招待したんだぞ。無粋な奴だな」

「招待を受けるとは言ってない。私は忙しいんだ」

 銀髪の男は、まっさらな将校服を着て、岸についた小船から浅い海へ降り立った。船にはもう一人、軍服の若者。紫月に対し短く敬礼をした。

「ナミルノだ。どうしてもというので連れてきた」

「ふん。ひよっ子の面倒を見るので忙しいのか。同情するね」

「今日休んだ分を、明日一日で取り返す。同情するなら、奴らにしてやれ。

 ……それに、今日のアジト殲滅の下手糞ぶりも、鍛え直しだな」

 入り江の影から、軍用大型船が姿を現す。甲板に勢揃いした兵士たちが、揃って敬礼を向ける。

「……やめさせろ。どうして、あんな派手な真似をさせるっ」

「……俺は止めたぞ。だが問題はあるまい。あくまでもエミル・サリム国軍指令への敬礼だ」

 ナミルノが、重そうな木箱を手に降りてくる。

「父からの差し入れです。ビールは、父が飲まないので別荘には置いてないのです。皆さんの夕食の間に合えばと」

「『ビンタン』か。そういえば、誰かが探していたな。これは有り難い。喜んで頂くよ」

「俺からは、これだ」

 投げ出されたのは、似たような赤い印刷の缶ビール。

「『バリ・ハイ』……?」

「バリの名を冠しているが、実際にはフィリピン系企業が生産している。インドネシア人は『ビンタン』を国のビールだと信じているからな。実際『ビンタン』の方が美味い」

「……どうして、僕に?」

「お前に似合いだ。……どうも妹を見る目が異常だ……」

 ぐっと近付いて、囁いてくれる。

「い、一体、どういう意味だっ………」

 慌てて舞を探すと、不思議そうに見ている。それを確かめるように見やって、男は離れた。

「バリの陽気に当てられたかな。開放的すぎる休暇も問題だ。

 それでも飲んで、本気でイってみるか?」

「ば、ばか野郎っっ…………!!」

 イカレてるのはどっちだ。人を食った高笑いを残し、背を向けてくれて……。察しのいい舞に、説明のしようが無いぞっ。

「あの……。お怪我はなかったんですか……?」

 小船に乗り込む『Z』を追いかけて、舞は海に足を浸した。

「無い。早く戻れ。兄貴が怖い顔をしてる」

 言われて、紫月の顔と『Z』を見比べ舞は後ずさりした。

 彼女の素直さに目を細め、男は風に流される前髪を払う。

「……怒鳴って悪かった。謝る」

 指先で出発を合図する。滑らかに船が母船へ向けて走り出す。

 あとは振り返りもしない。空が暮れはじめ、海の輝きが増した。夕日のきらめきの中に、男の姿は溶けていった。

 見送る、長い黒髪が揺れる背中。見ていられず、紫月は握り締めた缶に目を落とす。文字が書かれていた。

『グループに戻れ。それがお前の居場所だ』

 水性ペンで書かれた文字は消えかけていた。親指で擦り落とす。『ビンタン』の山の中に丁寧に戻した。

 ビールの箱を抱え、紫月は先に別荘へ引き返した。



 すぐに軽い足音が追いかけてくる。途中まで登って、考えこむように足を止め、足音を忍ばせ、引き返してくる。

「……僕はここだ。舞?」

 ビール入り木箱が重かったわけじゃない。だが、通路に置き去りにしてきた。たった一本の缶ビールを抜き取って。

 東屋から望める空は、あの男の瞳の色に近付いていた。

 オレンジ色の名残が、水平線に小さく閃く。

 ビールの缶を傾ける。奴が造らせたカクテルとは雲泥の差。水のようにも思える。しかし、空腹の腹の底で、やはり熱くたぎり始めた。

 寝椅子に浅く腰掛け、海を見ていた。

「兄さん。側に座ってもいい……?」

 遠慮がちに尋ねる舞。紫月はうなずいてやった。

 足音もなく近付き、紫月の足元に座った。彼の膝に手を乗せ、その上に顎を押し当てる。同じ海を彼女も見つめた。

「……不思議な人ね。何を考えているのか、ちっとも計れない」

 紫月にはビール一缶を、彼女には一言詫びるために……?

「嫌な奴だ……」

「………それだけが、とっても怖い人」

「舞……」

 頼りない肩を掴もうとしていた手を、舞は両手で包んだ。

「そばに居るわ。兄さんの側にずっと居る。だからちゃんと、私を捕まえていて……?」

「……。何を言っているんだ? 君の方が、謎めいてるな」

 軽く笑い飛ばそうとした。彼女の必死さを。

 けれど舞は真剣だった。

「兄さんは、あの人のことを話したり、目にしていると、とても寂しそうな目をしているわ。私、ずっと気付いてた……。

 どうしてなのか、私にはわからないけど、そうなのよ? 気付かなかったでしょう?」

『お互いに、知らないことを見つけあわなきゃ、もう子供じゃないのよ?』

 ……認めろって……? 自分の弱さを。あいつに感じる、底知れない恐れを……?

 勝てない。あの男には勝てないかもしれない。何年かけても、どんな手を使っても。

「私、ちゃんとお兄さんの側に居るのに……」

 途方に暮れたように呟く舞。

「……わかってる。君が一番、大切だ」

 バリ。心を昂らせ、理性を惑わす楽園の島。

 紫月は、すべてが楽園の夢だと決め付けた。委ねたなら、すべてを破壊し失う。もっとも欲しいものまで砕く想いを、自分の中に見出してしまったから。認めはしない。

 スコールが見せた悪夢。あれはバリの神々からの贈り物。

 二人の男は、どちらも彼自身。

 紫月は、少女の肩を抱え立ち上がらせた。

「さてと。明日はどこへ行きたいんだ?」

 もう一日。魅惑のパラダイスが残っている。

『バリ・ハイ』を、海へと高く投げ付けた。


『バリ・ハイ 完』


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