5 サンスワン・ハードレイン
三つのタンブラーに入った、薄いオレンジ色のカクテルが運ばれてきた。パッションフルーツの強い酸味が鼻をくすぐる。
紫月は手近な丸テーブルに、それを置いたまま。
オーダーした男は、三口目で飲み干しグラスを置いた。
「部下が到着する時間だな。私は、船の出港準備をする」
『Z』は、自分の端末を閉じ取り上げた。
「少し待って下さい。こちらを片付けて、私も行きます」
「沿岸警備隊の動きを追っていろ。最初の関門は奴らだ」
「私が……! 私が行きます」
紫月の手元を眺めていた舞が、弾かれたように立ち上がる。
「お嬢さん……。しかし……」
「私、以前、あの船に乗った時、教えてもらったことがあるの。大丈夫よ」
舞は『Z』を振り返った。
「それに、あなたは船がどこにあるか知らないでしょう?」
「そういえば……。どうするつもりだったんですか?」
「地形と海流を読めば、どこにつけるべきかはわかる」
「そんなの時間の無駄だわ。それとも、あなたは最初から知っているの?」
舞の質問は奴から一本取ったらしい。答えはなかった。
「ですが、あなたもしらないはずでしょう?」
「海へ降りた時、見つけたの。狩野さんが用意してくれたんだって、すぐにわかったわ。とても安心できました」
「舞……。君は気付いていたのか……?」
……狩野の配慮、二人を案ずる気持ちに……。
紫月に、彼女はコックリうなずいた。こちらも、何も言えなくなる。……兄貴失格だ。
「どちらにしても、一人では出港準備は難しい船です」
「なら僕が……」
立ち上がろうとして腰を浮かせただけで、眩暈がした。
「心配しないで、兄さん。すぐに戻ってくるから」
先に駆け出す舞を『Z』が渋面を造り慌てて追う形になった。いい気味と思えるはずがない。紫月自身も舞には勝てない。
「……余計な知恵を付けたのは、一体どいつなんだ?」
「生きる為です。一瞬たりとも、彼女は注意を怠らない。優れた兵士になりますよ」
作業に戻る狩野を、睨みつける。
「冗談でも、その話しをするなよ。本気にする」
「承知しています」
「ひきかえ、兄貴は役に立たない」
オレンジ色の、氷そのもののように冷え切ったグラスを取り上げる。額に押し当ててみる。視線だけは画面から離さない。
「元気があったら、真っ先に殴り合いになっていたでしょう?
同じことです。
せめてあなたの端末を見ていて下さい。出港準備が完了したら、連絡が入るはずです。コンソールの操作もご存知でしょう」
……僕は知らない! そう拗ねたら、ボスには必要のない知識でしょう、と返されるに決まっている。我々の役目ですと。
額や頬に押し当てるだけでは、だるい微熱は収まらない。
グラスを傾ける。舌を刺激し、喉を走る冷たい熱さ。
「!!」
「よくこんなものを涼しい顔で飲めるな、と言いたいですか?」
目だけで振り返る狩野。自分もグラスを半分空けている。
咳き込むのだけは堪え、紫月は大きく息を吐いた。
「……妙な味だ」
「香料が入っていますね。ボスのグラスには」
「相変わらず鼻がきくな。悪くない……。思ったより……」
「もう終わりました。休んで下さい」
狩野に言われる前に、全身の血液が熱く燃え始め、その脈動に委ねずにはいられなくなった。膝からパソコンを下ろし、背に持たれる。呼吸が楽になる。頭の奥にかかった、靄のような嫌な熱はまだ引く気配はないが。メギナが慈愛の籠もった視線で近付き、軽い掛け布で紫月の身体を覆った。
「こちらではお薬がわりに、同じような症状の病人に飲ませることもあるんですよ。あまり多くを召し上がられては毒ですが」
「……あいつは、知っていたのかな……?」
「さあ……。それよりも、まだ眠らないで下さい。酷なことですが」
ボーイが一人、玄関方向から駆け込んできた。その背後が、男たちの声で賑やかだった。
「ボス。全員集まったようです」
「……時間通りだな。さすがに僕の部下だけのことはある」
起き上がり、姿を現す六人を迎えた。贅沢なリビングには不釣合いなほど、頑健で危険なまでに鍛えられてきた男たちばかり。
一人、彼等の中では一番華奢に見える南洋人が居る。
「舞は?」
パソコンには、まだ着信はない。
「まだ下です。全員、ここに集まってくれ。メールで説明した通り。決行する。出発は五分後。ボス?」
「急なことで申し訳ない。最善を尽くして欲しい。僕は君達の無事な帰還を待っている」
「自分は光栄です。祖国の為に戦うチャンスを頂けて」
細身で浅黒い肌の南洋人が目を輝かせ、声を張り上げる。
負けずに、その隣の栗色の髪の白人が胸を叩いた。
「ご心配なく。こんな事態は、予測の範囲内です」
「万が一のため、この六名には事前に軍事訓練も受けさせてあります」
「だが敵も守るべきものも、君達が想定したものとは違っている。かなり微妙な立場でもある。失敗は、この国にも、FISにとっても大きなダメージとなる。
しかし。僕は君達を信頼している。
夕飯はここで、好きなだけ食わせてやるからな」
六名それぞれがニヤリと笑い、小さく敬礼を造る。
「カザン、アール。二人はここに残りボスとお嬢さんの警護を」
「もう一人は?」
「船の準備だ。彼は本当の依頼人であり、腕の立つ男だ」
「狩野以上の戦闘能力はある。奴の心配はするな」
紫月が言い添えた。
「彼が現場での指揮を取る。何も言わず、命を預けてくれ」
狩野の言葉に、全員が重くうなずいた。
その時、紫月のパソコンの着信音が鳴った。
「船の準備が出来たぞ」
「まず、装備を積み込め」
狩野は端末を閉じ、空いた手で膨らんだ迷彩色のバック・パックを受け取った。男たちの動きが激しく交錯する。
「ボス。チームは『Z』と命名します。私がZ・ヘッド、彼がZ・ゼロ、以下Z・ワン、トゥー……。無線は全てコードネームを使います。それでは」
六人を乗せた高速艇は、予定通りに出港した。目指す、ジャワ島東部上空は、今はまだ晴れ渡り、西の端から暗雲が忍びよっていた。
昨日と変わらない、島の風景。鳥の引き裂くような鳴き声が静寂を乱すのみ。遠く足元から届く潮騒。沖に浮かぶ、地元漁師の小船の位置の変化が時の経過を教える。ゆっくりと、とうとう傾きかける太陽の動きの早さに、紫月は焦れていた。
身体はここに居ても、心は遠く離れている。耳と目だけは、対岸のジャワ東の奥地、ジャングルの中を見据えて。
雑音混じりの無線が、紫月の心を奪い取って放さない。
「兄さん……? 部屋で休んだ方がいいわ?」
ぴしゃりと、透明な水の飛沫が降り掛かる。
瞬きをし見渡して、紫月は現実の、楕円形のプールサイドに戻ってきた。プールの縁に腕を乗せ、舞が見上げている。
水中で人魚のように、ゆったりと揃えた両足を揺らす。
「舞……? 僕のことはもう大丈夫だ。何度も聞かないでくれ」
「だって………。怖い顔をしているわ。
兄さんも泳いだら? 気持ちがいいわよ」
「そんなことより」
紫月はイヤホンを外し、妹に向き直った。すいっと、彼女はラッコのような滑らかな動きで、離れてゆく。
「ま、待てっ。舞っ。どうしてそんな派手な水着を買うんだ? 兄さんは聞いてないぞっ」
こんな追求を予感していたのか、小さく頬を膨らませた。
「……。これは去年買ったものです。サントリー二島で、お友達と一緒に。それに……ちょっと派手だったのは認めるわよ?
だから、ずっと着れなかったの……。ここには兄さんしか居ないんだもの、構わないでしょう?」
「……兄さんしかって……、そりゃそうだが……しかしっ」
「それとも、新しい水着を買ってくれるの? そうだ。一緒に買い物に行きましょう? 兄さんが選んでくれればいいわ」
……そーゆー話しじゃなくてだな? 配色が派手だとか、なんでわき腹に縦にスリットが入ってるんだとか……。とにかく目立ちすぎだぞ……。なんてことを僕が言えるかっっ。
「……あまりよく聞こえないのね。ここを切り替えてみたら?
あ、ほら、前より良く聞こえる」
「か、返しなさい、舞っ」
いつの間にか、プールから上がった舞が、無線のイヤホンを耳にかけている。ガウンを肩に羽織っただけ。無線機の操作面をのぞき込んで、器用に調節をする。髪から顎を伝って落ちる水滴を、ガウンの袖で押さえる。おかげで胸元に光る水滴も紫月の視界から隠されていった。
「私も聞きたいわ」
おとなしくイヤホンを紫月に返して、そのジャックを澄ました顔で抜き取った。スピーカーからの、ガリガリという雑音は、さすがに押さえられない。作戦地域上空に立ち込める、厚い雨雲のせいだ。
土砂降りの雨。視察団は下手に足止めも食らわず、ダム・サイトに到着した模様。Z・ヘッドから、Z・ゼロへ、すでに連絡はついていた。
「Z・ゼロからZ・ヘッド。散開し全員配置につく」
低い男の声が短く告げた。舞の頬が緊張で引き締まる。
「こんなものを聞いているから、怖い顔なのね……」
紫月の顔に笑い掛けて、舞は元通りイヤホン・ジャックを差し込んだ。紫月の耳にだけ、狩野の堅い声が届く。
「了解」
「今夜の夕食は大勢になるわね? 私も手伝わなきゃ」
紫月のアイス・コーヒーを取り上げ、ストローで喉を潤す。
その仕種に、紫月の背筋は冷や汗が走った。彼はストローを使わなかった。使っていたら……夢と同じ……。
「何? 私の顔に何かついてる?」
紫月を見返す妹は無邪気で、優しく視線を合わせてくる。
「いや……。とんでもない休暇になったな……。すまない」
グラスを丁寧に押し戻し、舞は紫月に向き直った。
「私、これまで一度も会社の仕事のせいで、休みが無いって思ったことなかったわ。私はいつものんびりしてきたもの。
休暇が必要だったのは、兄さんだけよ。
一日中、兄さんの側に居られて、眺めていられて。それだけが一番嬉しかったわ。今も同じよ?」
照れ臭さを隠して、紫月は海を眺めた。
「夕飯が楽しみだな。少しは料理がうまくなったのか? でないと僕が、またあいつにどやされる……」
「! ……兄さんの意地悪。一生懸命、努力してますっ」
軽い水音がして、舞の体が水中に消えた。年若い人魚姫。
彼女も戦いの挑む男たちが気掛かりで。懸命に緊張を忘れようとするけれど、うまくいかない。
「Z・ゼロよりZ・ヘッド。作戦完了。全員帰還開始する」
そんな無線が入ったのは二時前。あれから、Z・ゼロからの交信は無く、Z・ワンがヘッドと定時交信を引き継いだ。
「ボス。狩野です。現在、作戦部隊を艇に回収中。川を下り帰還します」
携帯電話から、やや疲れきった狩野の声。
TVでは会見三十分前に、集中豪雨のため機材にトラブルが発生し、記者会見が三十分延期になると発表されていた。そのテロップを見た瞬間、紫月は全身の血の気が引いたが、無線から流れる狩野たちの声はあくまでも冷静だった。まったく同じ時間、彼等作戦部隊はゲリラどもに襲いかかっており、雨に紛れて、一人一人、テロリストどもを排除していった。
会見の延期は政府側が流したのだろう。三十分の猶予を得て、Zチームが捕獲したゲリラから、蜂起の拠点を聞き出し軍が先に奇襲をかけた。数箇所に及ぶ、アジト殲滅の報道は翌日、小さく扱われた。政府側とのパイプを持つ『Z』が現場に居なければ、こうも素早く手は打てなかっただろう。
「全員無事か?」
無線機をオフにして、紫月はデッキ・チェアを立ち上がった。
「一名を除いては、ここに居ます」
「……間抜けな兵隊は、一体誰だ?」
「記者会見があると、Z・ゼロだけ離れました」
「一体どこで?」
「……現場でそのままだそうです。引き止めたらしいのですが」
「記者会見ね。どの面下げてTVに出るつもりか、見てやろう」
リビングへ向かう。TVを見つめる舞の隣に座った。
「みんな無事だそうだ」
携帯電話を渡してやった」
「狩野さん。ご苦労様でした。お夕飯、待っていますから」
戦い疲れた無骨な男たちの、溶けそうに安堵した顔が目に浮かぶ。奴らは揃って、舞の言葉に嬉しそうな顔をする。
「あいつは居ないらしい。だが会見で顔が見れるはずだ」
TV画面では、白いリネン掛けという即席の会見場にマイクが並び、左端からぞろぞろとお仕着せの作業服を着た男たちが数名入ってくる。マイク中央にエミル・サリムの小柄だが、思慮深い黒い瞳の十分存在感のある姿があった。全員着席しても、その隣が一つ空いた。ラハルディ環境相。遅れてきた、雛壇の中では最も年若い男。三十代半ば、マレー系の顔立ちの一人が、環境相のプレートを取り上げ自分のプレートを乗せた。名前は難しい表記でうまく読めないが、役職は読める。サンスワン・ダム警備及び保守責任者。
「あいつ……。また騙された……!」
紫月は膝を叩いた。会見が始まったが、インドネシア語でまったく理解できない。舞はTVを消した。狩野が答えた。
「そのようですね。……気に掛かるのは支払いのことですが」
「んなことはどうでもいい。僕はあいつに……!」
「ラハルディ環境相も加担していたようですね」
「……だから、会見場に姿を見せなかったのか」
「エミル・サリム氏は命を得て、同時に政敵も無くした。大逆転ですね」
「それは結果論だ。まだここに到着したわけじゃないんだ。君たちの戦争はまだ終わっちゃいない。沿岸警備隊と悶着など起すなよ。ちゃんと無傷で帰れ」
「そのことですが、申し訳ありません。一名負傷者が」
「! 一体誰だ、その馬鹿はっ」
「兄さんっ、そんな言い方……」
「申し訳ありません、ボス……! 右腕を負傷しただけです。ですが自分は、祖国の為に死ねるなら……」
「バカ野郎っ!! お前が例え死んでも、祖国の為に殉死したなんざ、誰にも言わんからなっっ。掠り傷程度で泣き言を言うなっ」
「ボスぅ……。自分は……、自分はZ・ゼロに助けられました。礼を言い損ねて……、彼が居なかったら……自分は本当に……」
「わかったわかった……。代わりに言っておいてやる……」
……あのクソ野郎に借りを造っただと……!?
一体、どこまでお人好しなんだっっ……!?




