Il secondo movimento(第2楽章)-c
一希のトラウマ回。
女の子に臆病な、その理由。
誰にも迷惑をかけずに、頼らず生きていこうとしてしまうその理由。
その日、一希は夢を見た。
小学生に戻っていた一希は、自宅のリビングにいた。
薄暗い夜だった。
サイレンが鳴っていた。
父の自慢であるベーゼンドルファーのピアノには、大きな傷がついていた。椅子はひっくり返っていた。床は濡れていた。
母は猫足の一人ソファを投げた。細腕のどこにあんな力があったんだろうと、一希は震えながら見ていた。投げられた相手はずっと奇声をあげている。
「一希は隠れていなさい! 瑞希はお隣の坂本さん呼んで来て。お母さんは大丈夫。セコム呼んでるし」
「でもお母さん!」
「いいから行きなさい!」
気の違った女の後ろには一希の同級生がしゃがみ、大声で泣いていた。
「一希、何突っ立ってんのよ。隠れなさいって言われたでしょう!」
姉が叫ぶ。
「させるかぁぁぁぁ!」
髪を振り乱して、女は手に届くもの全てを一希に向かって投げ始めた。あれはお祖母ちゃんがくれたリヤなんとかいう置物、ロイヤルコペコペなんとかいう大皿、花瓶、楽譜。ギターも。どれも両親が大切にしていたものだ。
やめて、やめて、という一希の声はあまりに小さく、誰に届くこともなかった。
「一希!!」
一希の姉が彼の前に立ちはだかる。大きな皿の破片から弟を守るために。
腕をかすめて青い皿は飛んでいく。しばらくして真っ赤な血が噴き出した。
「おねえちゃん!」
「いいから、行きなさい一希。お母さんもおねえちゃんも強いから。おねえちゃんの代わりに坂本さんち行きなさい。ね? 早く!」
顔が、腕が、赤く染まる姉を置いて?
「早く行きなさい!」
姉の前には母が立ち、狂った女と対峙していた。
「一希、行きなさい。お母さんたちは大丈夫だから」
一希は震える足で、それでも精一杯玄関に向かって走った。扉を開け、門へ。
非常ベルの音は随分遠くに聞こえた。本当は屋敷中に響いていたろうに。
門は唐突に開いた。そこには父がいた。
暗闇、外灯に照らされた父親の顔は青かった。
その姿に安心して、一希の腰はぬけそうになった。
「どうした、一希。おねえちゃんとお母さんは」
喉が詰まって声が出なかった。
只ならぬ雰囲気に父は一希の両肩を大きな手で掴んだまま、後ろを振り返った。
「増田君、この子を頼む。それから警察に連絡を」
「社長!」
父の大きな背を見送ることしかできなかった。母も、姉も、小さな一希は守ることはできなかった。守られるだけだった。
あの時、タイミングよく父が帰宅していなかったらどうなっていただろう。
考えるだに恐ろしい。
激しい頭痛と共に目が覚めた。
飲み過ぎたわけではない。夢見が悪かったのだと思う。
結局朝までキャバクラだったわけだが、昨日は本当に散々だった。
バブル世代の監督は、一希世代と感覚が異なる。こういう場に大勢を呼んで豪遊することがステイタスだと思っている。そして少なくとも男たちは喜んでいると信じている。
全くそんなことはないのに。
今時、豪遊出来るだけの実力を持っているのは素晴らしいとは思うが、振り回されるこっちは散々だ。
コンサートのことだって初耳だ。事務所から何の話も聞いていない。
自分勝手な人だと思う。
しかし、実力があるのは確かだ。面白い作品を作るのも、金を引っ張ってくる力も。
ベッドに座ったまま、一希は久しぶりに見た昔の夢を思い出す。
一希と、彼の両親のもつ財産目当てに近づいてきた女。小学低学年の一希に娘をあてがって入り込もうとした女。もちろん一希にそのつもりはなく、大勢いる友だちの一人としか思っていなかった。人当たりのよい一希のまわりには、いつも人がいたから。本当にただのクラスメイトに過ぎなかった。
あの夜、姉は利き腕に大きなキズを負った。指の骨は折れていた。
腱が切れていたものの治療の結果、日常生活に支障は出なかった。。しかし、もうピアノは弾けない。「左手のためのピアノ協奏曲」を弾いていたこともあったが、すぐにやめてしまった。片手で弾いているのを一希に見られたから。
右手に、親指とその他2本の指があれば持てる弓。そう、ヴァイオリンをはじめとしていくつかの弦楽器。それだけを奏でるようになった。フルートも手にしなくなった。
一希のせいで。
一希の友人のせいで。
彼女の母が、なぜそんなことを企んだのか、狂ったように暴れたのか、詳細はわからない。誰も話をしてくれなかったから。
弱い自分が憎かった。情けなくて、ふがいなくて。
あれから誰も家に呼ばなくなった。
両親は気軽にお友達を連れて来いといってくれていたが、恐ろしくてできなかった。
ヴァイオリンを弾く姉を見るのもつらかった。
女の子がこわかった。
学校や、公園で遊ぶ友達はいたけれど、女の子が相手だと足のすくむ自分がいた。
気取られないように必死だった。
中学でもそう。自分に関する話は一切しなかった。家でのことも話さなかった。姉がいることを知っている友人もほとんどいなかったろう。
高校に入って、はじめて恐ろしさを感じない女の子に出会った。高遠野花である。
あの夜のことを思い出さなくていい女性は彼女が最初だった。
彼女を見ていると心地よかった。いや、むしろずっと見ていたかった。そばにいたいと思った。そして少しずつ、女性に対する恐怖心は少なくなってきた。
「花さん」
名前を、呼ぶ。
外は明るい。日が高い。
彼女は今、会社だろう。
すぐに会いたいと思うけれど、それは無理な話だ。迷惑でもあろう。
彼女は一希の友達だ。一希にとって特別な人であっても、彼女にとっても同じとは限らない。
それはずっと、15の頃からわかっていたことだ。
もう誰にも迷惑をかけたくない。
あの幼い夜、そう決めたのだから。
次回も、どうぞよろしく。




