Il secondo movimento(第2楽章)-d
今は人気作曲家として活躍している一希君。
学生時代の貧乏生活はなかなか堂に入ったものだったようです。
お坊ちゃん育ちなのにね。
「シャワーを浴びるの禁止ね。お風呂にゆっくりつからなきゃだめ。健康にいいんだから」
花の忠告を思い出しながらシャワーを浴びる。少し熱め。
もう水じゃない、お湯だからと一希は心で言い訳する。
バスタオルを被ったまま、PC一式を立ち上げる。なんだか気持ちが落ち着かない。ここはひとつ、曲でも作って投稿しようと思ったのだ。
何か食料でもと水屋をあけると、癖でストックしている各種パスタ類とミートソースの山が目に入った。知らず苦笑する。
パスタは貧乏苦学生には最もコストパフォーマンスのよい食料として知られている。高校卒業後、家を出た一希も世話になった食品だ。
大学から自転車で通える距離。ボロアパートは一希の新たな出発点だった。
車が通ると振動する窓。薄い壁。外を歩く人の気配。
お屋敷育ちの彼には、経験したことのないことばかり。
狭い部屋にいっぱいの電子機器。電子音楽のための機器は持ってきたものの、あとは通りすがりの旅行者くらいの持ち物しかない。旅行者と違うのは、大学で使う資料やテキストが積まれているくらい。
電気代だけは滞り無く支払っていたが、ガスはしばしば止められた。
ガスがなくても、レンジがあればいいじゃない、などとはいかない。
電子レンジは知り合いから譲り受けたものがあったが、滅多に遣わなかった。パスタを温めるずとも、ふやかせば食べられるよな、と水につけてみた。残念ながらそれはそれは不味かった。熱を加えないデンプン質は、味わうものではない。固いが乾麺のまま食べたほうが幾分かましだった。
パスタを齧った話をした時の花の顔は見ものだった。あれを何故そのまま食べようと思ったのか、不思議そうだった。まさかガスが止められていたからとは言えなかった。
Cubaseにメロディーを叩き込む。50センチもない小さなキーボード。
殆どの場合、歌は2オクターブほどの音域で作るようにしている。これを超えると一般には歌えない率が極端に上がってしまうからだ。「歌ってみた」でも使ってもらおうとすると、どうしても音域に制限が出る。もちろん、アイドル声優が歌う場合も気を遣わねばならない。
音を上げて盛り上げたいのに、わざとずらさねばならないのは結構つらい。
でもそれは、文筆家が字数や言葉遣いを制限されることと同じ。作詞家も同じ苦労を背負っているのだとわかっているので、依頼されたときは素直に規定に従っている。
そもそも人間は、「枠内で行動する」ほうが楽ないきものでもあるし。
浮かんだメロディーを入れ込み、VOCALOIDに移す。
歌詞は……ハミングとどっかの国の言葉っぽいものでいいか。
あの日も、一希は依頼された曲を作っていた。気晴らしにボカロ曲も平行して制作した。
昼から集中して作り始め、出来上がったのは朝方だった、と思う。
そのまま事切れたように床に倒れて眠ってしまった。
気づいたのはいつだったろう、夕方だったろうか。
いつのまにか眼前に花が座っていた。
何故か目を真っ赤にした花がいた。
「何してんのよ」
震える声で彼女は言った。
「あの、高遠野さん。あれ……?」
なぜそこに花がいるのか、一希は寝起き頭で考えた。
「なにゴロンとしてんのよ。死んでるかと思ったじゃないの!」
「あ、え? 寝てた……」
花は思いっきり一希の頭をはたいた。
「最近メッセでもお返事がないし! 今日はメールでも電話でも反応がないし! どうしたんだろうと来てみたら鍵あけっぱだし」
そんな不用心していたか、まあ安アパートになかなか泥棒は入らないと思うけど、と一希はのんびりとしたことを考えてしまった。それよりも泣きそうな花の態度に動揺する。
「叩いても起きないし、とりあえず死んでないっぽいし、また夢中になって曲を作って倒れてるんだろうと思ったけど、何なのよ。この部屋、水も出ないわよ! 頭を冷やそうと思ったのに」
「あの、ペットボトルに水が」
数日前に水を止められたため、拾ったペットボトルに公園で水を入れてきたのを何本かキッチンに置いてあったはずだけど。
「今時水を止められるって何よ。まさかと思ったらガスも止められてるじゃないの。最近痩せちゃったなあと思ってはいたけど、カズくん、あなたどんな生活してんのよ!!」
貧乏生活です、と答える雰囲気ではなかった。
「おじさんおばさんに連絡されたくないだろうし、お姉さんはお仕事中だし、カズくん起きないし」
花の目から涙がこぼれた。
丸い粒でこぼれた。
頬を伝うのではなく、丸い透き通った水がぽとりと落ちた。
「もう……もう、このまま死んじゃうんじゃないかって思ったじゃないの!」
一希の両手を握って、バンバン膝にたたきつける。
ああ、心配をかけてしまったんだと一希は申し訳なく思った。
こんなに、人前で涙を見せることはないはずの花が、涙をこぼすまでに。
「……ごめん。ごめん、高遠野さん」
他に告げることのできる言葉はなかった。
真っ赤な顔で泣きじゃくる花にかける言葉などなかった。
大好きな女の子を泣かせてしまうことが、こんなにつらいとはことだったなんて。
こんなに申し訳ないことだったなんて。
夜になってかけつけた瑞希が、とりあえず水道料金を建て替えた。
花には電気代よりも水道代のほうが大切だから、と釘を刺された。
それから一希は家庭教師を1件増やし、水道は止められることのないようつとめた。
もう二度と花を泣かせたくなかったから。
その後。
3年生になり、偶然事務所所長に拾われるまで、一希は2度、ガスを止められた。
お話はまだまだ続くよ!
お楽しみに。




