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マリー  作者: 沢村茜
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未来への希望と残された血痕

 教室の前に来ると、深呼吸した。

 将と伊代は知美に休んだほうが良いと言ったが、知美は学校に行くことにした。

 部屋の中に一人でいると真美の笑顔が思い出し、それをあざ笑うかのような乾いた笑い声が聞こえてくる。夢の中で聞いたマリーの声と似ていると感じながらも、空耳だと言い聞かせていた。そのため、家にいたくなかったのだ。


 教室の扉を開けると、教室内のざわめきが一瞬のうちに静まり返る。何人かに挨拶をしたが誰も返事はなく、代わりに教室のどこかから笑い声が聞こえてくる。


 理由は席に着いたとき分かった。


 木製の席に赤い絵の具が零れており、それが文字を形作っていた。

 あくま。ひらがなでそう書かれていた。だが、文字は一つだけではない。

 人殺し、出て行けといった言葉も並んでいた。


 知美は拳を強く握る。


「よく学校に来れるよね。家にいるだけでも迷惑なのに」


 振り返ると優子が笑みを浮かべながら知美を舐めるように見た。

 彼女の隣にいる笠井も満足そうに口角をあげて微笑む。



 誰が犯人かは分からない。だが、今までの比でない程、冷たい視線に自分の居場所はここにはないと悟る。


「あなたがここに来なかったら、真美はあんな目に遭わなかったのにね」


 笠井の言葉で知美の中で何かが壊れるのが分かった。鞄を持って、後ろの扉から教室を飛び出した。前方の教室のドアに手をかけた高田がいたが、彼は知美と目が合っても何も言わない。

 知美は彼から目を逸らし、近くの階段を駆け下りていき、学校を飛び出していた。



 知美の足は一軒の家の近くで止まった。この辺りでひときわ大きな和式の家だ。石の塀が家の周りを取り囲み、その上には木々が葉を出していた。その家の看板には吉井と書かれている。


 その家から喪服を着た年配の女性が二人出てくるのが見えたため、知美は電柱の陰に隠れた。


「白井さんの娘の子供がこっちに戻って来たらしいけど、やはりあの子が原因なのかしら。真美ちゃんはその子と仲良くしていたらしいし、学校でもその子のクラスだけおかしなことがつづいているらしいわ」

「どうかは分からないけど、何でここに戻ってきたのかしらね。白井さんも少し考えてくれれば良かったのに」


 見知らぬ人までが悪い意味で自分のことを知っていると考えると、言いようのない気持ちを味わう。周りの目があるのか、ストレートには言わないが笠井の言葉が皆の本心なのだろう。


 真美の通夜や葬式に行き、せめて彼女を見送りたい気持ちがあった。

 だが、病院で見た真美の母親の姿に、自分が行ってはいけない場所だと察したのだ。


 知美は手を合わせ、目を閉じると、真美の冥福を祈る。

 そのまま立ち去ろうとした知美の肩に手が触れる。その触れた部分から一気に冷たいものが流れてくる。高鳴る心臓を押さえ、振り向くと、そこには辛らつな表情を浮かべた将の姿があった。


 彼は知美の手をつかむと、無言で歩いていく。バランスを崩さないように、彼と同じペースで歩き出す。


 人気のない細い道を入った時、将が知美の手を放す。


「学校は?」


 赤い文字が頭をちらつき、唇を噛んだ。彼に優子を悪く言えるわけもない。


「サボりか」


 将は呆れたように微笑んでいた。彼の軽い口調が幾分か知美の心を楽にする。


「伯父さんは仕事は?」


 良く考えると知美が家を出る時、彼はリビングにいた。

 いつも知美がリビングに降りてくるころには家を出てしまっているのだ。


「知美ちゃんと同じで休み。学校には連絡しておくからきにしなくていいよ」


 おどけた様子の彼を見て、知美は今日初めて笑った。

 だが、真美のことを思い出すと、おのずと笑顔が消えていく。

 彼は知美をじっと見ると、目を細めた。


「少しだけでかけようか」

「どこに?」

「それはついてからの楽しみ」


 彼は目立たない場所に隠れているように言うと携帯を取り出した。

 電話の途中、彼は知美に、教室に入ったのかを尋ねてくる。知美は教室に入り高田と顔を合わせたと伝える。

 彼はその内容を端的に伝え、車を持ってきてほしいと言うと、電話を切る。


「伯母さん、驚いていた?」

「少しね。学校には知美ちゃんが体調が悪くて帰ってきたと電話しておくと言っていたよ」


 知美がお礼を言うと、彼は目を細める。


「ごめんなさい」

「気にしないでいいよ。昔、美佐も同じことをして、その時は学校から電話がかかってきて、大騒ぎになったんだ。早めに気付けて良かったよ」


 それからしばらくして二人の隣に白のワゴンが止まる。伊代は車を降りると、将に鍵を二個渡した。

 知美と将はその車に乗り込み、伊代とはそこで別れた。

 知美は事情が呑み込めず、車を走らす伯父を横目で見つめていた。


 彼の車が見慣れた道を走り始めると、知美は思わず声をあげる。

 将を見ると、彼は笑顔を浮かべていた。

 それで彼が自分をどこに連れていこうとしているのか分かる。

 車が止まったのは知美の暮らしていたアパートの近くだ。


 彼は駐車場に車を入れると、知美と車を降りた。

 アパートの前に来ると、将は知美に鍵を渡していた。

 知美は前に住んでいた部屋の前に行き、鍵を入れる。鍵がはまり、かちゃりという音の後、ドアが開く。

 むっとした空気が知美の顔を叩き、閉め切った部屋の独特の匂いに思わず顔をしかめた。


 もう既にこの家を引き払ったものだと思っていた。

 知美に遅れて将も家の中に入ってくる。

 彼は鍵を閉めると、短く息を吐いた。

 電話やテレビ、椅子の上のクッションなどが以前暮らしていたのと同じ状態で置かれていた。


「どうして?」

「まだ引き払ってなかったんだよ。転校前に岡崎さんと知美ちゃんのことを話し合って、大丈夫だとは思っていた。でも、中学生の時に美佐を見ていたら不安はあった。だから、万が一ということで大家さんに話をして、そのまま残しておいたんだ。水道や水は止まっているけどね」


 彼は知美に頭を撫でる。


「九月から、ここで一緒に暮らそうか」

「でも、伯母さんや優子さんはどうするの?」

「伊代と知美ちゃんを引き取る前から話し合っていたんだ。二人はそのまま向こうに住んでもらおうと思っている。卒業までもうすぐだし、優子もそっちのほうが良いだろう」

「伯父さんの会社まで遠いし、大変になるよ」


 彼は目を細める。


「知美ちゃんに美佐と同じ思いをさせたくないんだ」


 彼の眼には様々な感情が浮かんでいた。彼は美佐があの町を飛び出してから、ずっと自分を責め続けていたのだと気づいたのだ。そして、彼自身も傷つき続けていたのだろう。

 そんな彼に負担をかけて良いのかと問えば、返事は決まる。


「大丈夫。だから、あの家に住むよ」

「すぐに決めなくていい。ゆっくり考えよう。あと、夏休みに入るまで学校にはいかなくていいよ」


 知美は涙ぐみ、頷いた。

 今朝の学校の出来事で、居場所はないと思っていた。だが、自分の伯父がこうして作ってくれる。

 だから、完全に失望してしまう状態にはならなかった。

 その時、知美のお腹が鳴る。


「そろそろ昼か。何か食べようか」


 知美は将の言葉に二度頷いた。

 二人はその後、近くの店で食事を取り、将の家に帰る事にした。

 家に戻ると、伊代は笑顔で知美を迎えてくれた。彼女は知美の手を引き、リビングに連れて行く。そこには知美の好きなイチゴショートが並べられていた。


「たくさんあるから、好きなだけ食べてね」


 彼女はコーティングされたケーキの箱を掲げ、知美に見せる。


「ありがとう」


 知美は唇を軽く噛むと、小さく頷いた。

 知美はケーキを五つ平らげると、部屋に戻る。そして、部屋の電気をつけ、鞄を机の上に置いた時、床に黒い塊が付着しているのに気づいた。

 知美は屈み、それにをじっと見る。

 何か落としたのだろうか。


 そう思い、ティッシュで床を拭いたが、固くてはがれない。

 知美はそれを見て、嫌な予感を感じる。根拠があったわけではない。

 そして机の引き出しを開け、そこに眠るマリーを見た時、予感が確信へと変わる。


 彼女の艶やかな髪が一点だけ闇を落としていた。

 知美にはそれが血にしか見えなかった。

 優子が首を絞められた日の黒い髪。

 前田の家が火事になった時の焦げる匂い。


 最近起こった身の回りの出来事で血を見るものといえば、笠井や岡江の怪我かもう一つ。

 それを思い描いた時、知美は身震いした。

 彼女が事故に遭った時、確かに血痕が飛んでいた。

 知美が軽く怪我をして、気づかないでマリーに触れ、今まで血痕に気付かなかった可能性もある。

 だが、美佐の冷たいまなざしが脳裏によみがえる。


 もともとマリーの持ち主は美佐だった。そして、彼女は悪魔だと言われる程、彼女の近くでは身近な人がなくなっている。

 彼女の澄んだ瞳が、知美の心を見透かした気がした。

 身震いして、マリーを落とす。

 だが、彼女は痛いとも言わないし、動かない。そのまま床を転がり、動きが止まる。


 マリーと夢で言葉を交わすことは幾度となくあった。だが、こうして知美が起きているときは話すどころか瞬き一つしない。

 彼女はあくまで人形だと言い聞かせる。


 だが、全身を駆け巡る脈の音をごまかせずに、知美はマリーを机の引き出しの放り込んだ。


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