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最終話「お前のその愛し方は怖い」

 私はその朝、珍しく逃げ道を考えていなかった。


 温室へ行く。


 イシュレナと話す。


 婚約破棄は口にしない。


 代わりに、本音を全部言う。


 やることは決まっている。


 決まっているのだが、胃は痛い。


 腹ではなく胃が痛い。腹はもう何度も刺されたので、むしろ今までよく働いてくれた方だと思う。


「殿下、本日は朝から神妙でいらっしゃいますね」


 侍従が襟元を整えながら言った。


「人生の分岐点だからな」


「会議ですか」


「婚約者との会話だ」


 侍従は黙った。


 黙ったあと、非常に慎重に一礼した。


「ご武運を」


「会話に武運を祈られる王太子はたぶん私だけだ」


 だが否定はできない。


 私は胸元に手を当てた。


 そこには、今までの検証記録を折りたたんで入れてある。


『第一項。婚約破棄を切り出すと死ぬ』

『第二項。人目は意味がない』

『第三項。父王も宰相も意味がない』

『第四項。神も意味がない』

『第五項。直接会わなくても死ぬ』

『第六項。逃げても死ぬ』

『第七項。イシュレナは、捨てられるのが怖い』


 ひどい一覧表だ。


 王太子の胸にしまっていい内容ではない。だが、ここまで来たら役に立ってもらうしかない。


 温室までの廊下は静かだった。


 春の陽射しが窓から差し込み、磨かれた床に白く伸びている。


「……最初と同じ場所か」


 我ながら正気ではない。


 だが最初に間違えた場所でなければ、たぶん終われない。


 私はそう思って、温室の扉を押した。



 ***



 花の匂いがした。


 白い花、薄紫の花、湿った土と若い葉の青い匂い。


 春の光がガラス越しに落ち、温室の床に柔らかな影を作っている。


 その真ん中に立つイシュレナは、今日も完璧だった。


 漆黒の髪は艶やかに結い上げられ、紫水晶みたいな瞳は静かに細められている。淡い色のドレスは春の空気に溶け込んで、どこからどう見ても未来の王妃にふさわしい公爵令嬢だ。


 そして私は知っている。


 この女は美しい。


 美しいが、花束の芯から短剣を出した実績がある。


「殿下」


 イシュレナが微笑む。


「本日はずいぶんと、お顔が固いですわね」


「当然だ」


「まあ」


「今日は本当に大事な話がある」


 彼女の表情が、わずかに止まった。


「……そうですか」


 少しの沈黙のあと、イシュレナは静かに私を見た。


「本日は、どの始まり方ですの?」


 私は眉をひそめた。


「始まり方?」


「ええ」


 彼女は困ったように笑う。


「わたくしも上手く言えないのですけれど……殿下がこういうお顔で温室へいらっしゃるの、初めてではない気がいたしますの」


 私は息を止めた。


 やはりだ。


 曖昧な違和感どころではない。


 はっきり覚えているわけではないにせよ、向こうにも積み重なっているものがある。


 イシュレナは自分の指先を見た。


「お花の香りも、光の落ち方も、殿下のお声も、時々だけ変に懐かしくて……そのたびに胸がざわざわいたしますの」


「忘れているわけではないんだな」


 私がそう言うと、イシュレナの睫毛が揺れた。


「……殿下は、何をご存じですの?」


 逃げるな。


 もうここで退いたら終わる。


 私は一歩前へ出た。


「イシュレナ。私は、お前に婚約破棄をしようとした」


 彼女の表情が固まる。


「何度もだ」


「……何度も?」


「そうだ。温室で。舞踏会で。父上と宰相の前で。礼拝堂で。書簡で。逃げようともした」


 花の匂いの中で、沈黙だけが濃くなる。


 私は続けた。


「そのたびに、お前は私を刺した」


 イシュレナの唇が震えた。


「……やはり」


 小さな声だった。


「夢では、ありませんでしたのね」


「覚えているのか」


 彼女はすぐには答えなかった。


 だが、やがてゆっくり頷く。


「全部ではありませんわ」


 その声は、これまで聞いたどの声よりも弱かった。


「でも、殿下がわたくしから遠くへ行こうとなさる瞬間だけは、毎回とてもはっきりしておりますの」


 彼女は胸元で手を組んだ。


「温室で、お別れを言われた時も。舞踏会で、人前で白紙に戻すとおっしゃった時も。書類の前で、礼拝堂で、お手紙で、お逃げになった時も……胸の中が真っ白になって、気づいたら、わたくしは刃を持っていました」


 私は黙って聞いた。


「刺した感触も、覚えておりますわ」


 イシュレナは自分の右手を見下ろした。


「毎回、違う形で冷たくて……毎回、殿下が苦しそうなお顔をなさって……そのあと朝になるのです」


 そこまで言って、彼女はほんの少しだけ笑った。


 笑った、というより、無理やり形を作っただけの表情だった。


「わたくし、ずっと夢だと思おうとしておりましたの」


「夢ではない」


「ええ。今は分かりますわ」


 私は息を吐いた。


 これでようやく揃った。


 私だけが覚えているのではない。


 向こうもまた、断片ではなくかなり明確に、私を刺した記憶を抱えている。


 だから毎回反応が少し違った。


 だから“毎回”が口をついた。


 だからあの女は、私が何も言わなくても時々ひどく不安そうな顔をしていたのだ。


「……なら、話が早い」


 私がそう言うと、イシュレナは顔を上げた。


「私は、お前が嫌いで逃げたかったわけじゃない」


 彼女の瞳が揺れる。


「怖かったんだ」


「……怖い」


「ああ。かなり怖い。相当怖い」


 私ははっきり言った。


「記録を取る。感情を監視する。侍女を異動させる。猫の性別を調べる。庭師との雑談まで標準化しようとする。しかも別れ話をすると、どこからともなく刃物が出る」


「最後の件につきましては、その……」


「最後の件だけではない!」


 思わず声が大きくなる。

 温室の花が少し揺れた気がした。


「お前の愛し方は、支配と管理と凶器つきだ。私はそれが怖かった。だから逃げた。別れようとした。死ぬほどな」


 イシュレナは目を伏せた。


 傷ついた顔だった。


 だがここで止めたら、たぶんまた足りない。


「でも、いろいろ調べて分かった」


 私は続けた。


「お前は、私を苦しめたいからそうしていたわけじゃない。捨てられるのが怖かったんだろう」


 彼女の肩がびくりと震える。


「失敗したら終わり。役に立たなければ要らない。完璧でなければ外される。そう思っていた。だから、お前はずっと完璧でいようとしていた」


 イシュレナはしばらく黙っていた。


 やがて、かすれるような声で言う。


「……そうしなければ、残れないと思っておりましたもの」


「私の隣に、か」


「はい」


 その返事はあまりにもまっすぐで、私は一瞬言葉を失った。


「管理して、把握して、先回りして、危険を除いて……そうしていれば、殿下は安心してくださると、本気で思っておりましたの」


「真逆だ」


「ええ」


 イシュレナは、力なく微笑んだ。


「どうやら、ずいぶん前から真逆だったようですわね」


 その言い方に、私は胸の奥が妙に重くなるのを感じた。


 かわいそうだ、だけでは済まない。


 怖いし、重いし、実際に六回刺されている。


 だが、それでも今のイシュレナをただ“危ない女”と片づけるのは違うと思ってしまった。


 最初に怯えていたのは、たぶんこいつの方だったのだ。


 私は大きく息を吐いた。


「イシュレナ」


「はい」


「婚約破棄はしない」


 彼女の瞳が大きく見開かれる。


 だが私は、そのまま続けた。


「ただし条件がある」


「条件……」


「ああ。かなり大事な条件だ。聞け」


 私は指を立てた。


「まず一つ。監視をやめろ」


「監視ではなく把握ですわ」


「名称を言い換えて本質を誤魔化すな」


「……はい」


「二つ。記録をやめろ。対人発言記録も、感情の変化観察日誌も、結婚後対人交流指針も全部だ」


「対人交流指針は、かなり出来が良いのですが」


「捨てろ」


「……かしこまりましたわ」


「三つ。刃物を隠し持つな」


「裁縫用の小さな鋏もですの?」


「今この場で細分化するな」


「では、装飾用の小型短剣は――」


「全部だ!」


 イシュレナは少しだけしょんぼりした。


 なぜそこを残念そうにする。


「四つ。不安があるなら言葉で言え。配置換えと観察日誌と刺殺で伝えるな。口で言え」


 そこまで言って、私は息を吐いた。


「以上だ」


 イシュレナは静かに私を見つめていた。

 やがて、ゆっくり口を開く。


「……では、わたくしからも条件をよろしいですか」


「あるのか」


「ございますわ」


 彼女は胸の前で指を組んだ。


「毎日一度で構いません。わたくしを不安にさせない言葉をくださいませ」


 私は瞬いた。


「毎日?」


「はい」


「重くないか」


「今さらですわ」


 それはそうだ。


 あまりにもそうなので、私は反論を失った。


 イシュレナは続ける。


「それから、殿下は誰にでもお優しいでしょう」


「否定はしない」


「その優しさを、少しだけ多めにわたくしへ向けてくださいませ」


「少しだけ多め、で済むのか」


「最初は」


「最初、か……」


 先行きに不安しかない言い方である。


 だが、不思議と嫌ではなかった。


 少なくとも、庭師との雑談時間を標準化されるよりはずっとましだ。


 私はしばらく考えたあと、頷いた。


「分かった」


「本当ですの?」


「ああ。その代わり、お前も守れ」


「守りますわ」


「本当に?」


「……守ります」


「よし」


 私は一歩、イシュレナへ近づいた。


「最後にもう一つ言う」


 彼女が黙ってこちらを見る。


「私は逃げない」


 イシュレナの瞳が揺れる。


「お前が怖くても、ちゃんと話す。別れようと決めて黙って離れるんじゃなくて、何が怖いのか、何が嫌か、何をやめてほしいのか、口で言う」


 春の光が、彼女の横顔を照らしていた。


「だからお前もやれ。分かったな」


 イシュレナはしばらく何も言わなかった。


 やがてその瞳に涙が溜まる。


 私は一瞬だけ身構えた。


 泣いた直後に刺してくる実績があるからだ。これは仕方がない。


 だが彼女は、今日は何も取り出さなかった。


「……はい」


 その返事は、少し震えていた。


「分かりましたわ、殿下」


 その瞬間。


 私は奇妙な感覚に襲われた。


 頭の奥で、何か張り詰めていたものがゆっくりほどける。


 同じ朝へ引き戻され続けていた糸が、ようやく切れるような感覚。


 気のせいかもしれない。


 だが、なぜか分かった。


 終わったのだ。


 あのどうしようもないループは、たぶんここで。



 ***



 三か月後。


 私は今も生きている。


 それだけで、まず拍手してほしい。


 しかも一度も巻き戻っていない。朝が普通にやって来る。素晴らしい。人類は毎朝をもっと祝福すべきである。


 さらに特筆すべきこととして、イシュレナはあれ以来、少なくとも私の前で刃物を取り出していない。


 記録も減った。


 いや、たぶんゼロではない。ゼロではない気配がする。だが見えるところには置かれなくなった。それだけでも革命的進歩だ。


「殿下、本日分の“不安にさせない言葉”がまだですわ」


「毎日確認するのを本当にやるのか……」


 私は執務机に向かったまま呻いた。


 向かいではイシュレナが優雅にお茶を飲んでいる。


 今日も美しい。今日も完璧だ。今日も少し重い。


「約束ですもの」


「そうだな……では」


 私は咳払いした。


「今日は、お前が来てから執務室の空気が少し静かになった」


 イシュレナの頬がほのかに赤くなる。


「……それは、良い意味で受け取っても?」


「今のところは」


「今のところ、ですのね」


「欲張るな」


「善処いたしますわ」


「その使い方を覚えたのか……」


 私はため息をついた。


 だが以前ほど重くはない。以前なら、この会話の裏で『本日殿下より空気静穏評価を受領』などと日誌に書かれていそうだった。


 いや、たぶん今もどこかに書いている。


 だが見えないなら、ある意味では優しさだ。


「ところで殿下」


「何だ」


「結婚式場の候補を三件に絞ってまいりましたの」


「早いな」


「湖畔、古城、温室ですわ」


 最後を聞いて、私は顔を上げた。


「温室?」


「最初に本当の話をしてくださった場所ですもの」


 私は言葉に詰まった。


 そういうことを言われると弱い。


 花束の芯から短剣を出した件と同じ人物とは思えない。


「……まあ、悪くはない」


 私がそう言うと、イシュレナは嬉しそうに目を細めた。


「では、前向きな検討として受け取りますわ」


「そこまで言っていない」


「でも否定もなさいませんでした」


「お前は本当にそういうところが鋭いな」


「殿下の視線の揺らぎを読む訓練を長く積んでおりますので」


「そこは卒業しろ」


 私は額を押さえた。


 だが、まあ。


 刺されないなら、このくらいは許容範囲かもしれない。


 そう思いかけた、そのときだった。


 イシュレナが資料をまとめようとして袖を動かす。


 私は反射的に身構えた。


「待て」


「はい?」


「袖の中に何がある」


 イシュレナは目を瞬いた。


「裁縫用の小さな鋏ですわ」


「あるじゃないか!」


「日常品です!」


「その理屈はもう聞いた!」


 思わず立ち上がる私を見て、イシュレナがくすりと笑う。


 私も頭を抱えながら、結局つられて笑ってしまった。


 前途は多難だ。


 婚約者はまだ少しどころではなく重い。


 たぶんこれからも、私は何度も振り回される。


 それでも。


 もう同じ朝へ戻ることはない。


 だから私は、今日もこの少し危険で、かなり面倒で、どうしようもなく目の離せない婚約者と話をするのだ。


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