第5話「完璧な婚約者は、捨てられるのが怖い」
翌朝、私は珍しく机に突っ伏していなかった。
正確に言うと、突っ伏す段階を通り越していた。
「……向き合うしかない、か」
昨夜、自分でそう結論づけたくせに、朝になってもまったく嬉しくない。
刺されない別れ方を探す方が、まだ分かりやすかった。
死ぬ。戻る。検証する。死ぬ。戻る。検証する。
非常に不本意ではあるが、手順だけなら明快だ。
だが今、私の前にある問題はもっと面倒だった。
婚約破棄しなければ死なない。
しかし婚約を続ければ、生活のあらゆる角がイシュレナ色に塗りつぶされていく。
つまり必要なのは、逃げ道ではない。
理解だ。
「最悪だな」
「何がでしょうか」
侍従が朝の上着を持ったまま聞いてきた。
「婚約者を理解しようと思っている自分がだ」
「それは、たいへん健全なご決意では」
「ここまで来ると健康かどうかの判断が難しい」
私は立ち上がった。
ともかく今日は、別れ方ではなく、イシュレナそのものを調べる。
なぜああなるのか。
どうしてあそこまで管理に走るのか。
なぜ愛情表現に、記録と配置換えと凶器が混ざるのか。
凶器はともかく、それ以外は根っこがあるはずだった。
***
最初の手がかりは、向こうからやってきた。
「殿下、本日の妃教育用資料ですわ」
イシュレナが差し出してきた書類束を、私は慎重に受け取った。
慎重に、である。
紙束は紙束の顔をした凶器候補だ。慎重にもなる。
「……今日は刺さらないやつだな?」
「はい?」
「なんでもない」
私は書類束をめくった。
結婚後の公務分担。行事日程。社交予定。座席配置案。
そこまでは分かる。分かるが、一冊だけ異質な薄い冊子が紛れていた。
『理想の妻十二か条』
題名からして嫌だ。
「これは何だ」
「わたくしが幼い頃より用いております手引きですわ」
用いるな、そんなものを。
私は恐る恐る開いた。
『第一条、夫となる方の視線の揺らぎを読むこと』
『第二条、夫となる方の周囲の危険は事前に排除すること』
『第三条、夫となる方の感情変化は日々記録し、原因を分析すること』
『第四条、他者へ向ける優しさの量を把握し、自分への不足を補うこと』
『第五条、不要と判断される前に、不要となる要素を除くこと』
「待て」
私は冊子を閉じた。
「これを、誰が書いた」
「もとは公爵家に伝わる教育書ですわ。母と家庭教師が加筆して完成いたしましたの」
「完成させるな」
しかも余白がすごかった。
私は再び開き、びっしり書き込まれた小さな文字を見た。
『侍女の視線は油断しやすい。角度まで見ること』
『笑顔だけでは不十分。声色も確認』
『白猫は雄であれば一旦保留』
『庭師は褒められやすいので注意』
怖い。
見覚えがありすぎる。
いや、見覚えどころではない。実績がある。全部すでに運用されている。
「殿下?」
イシュレナが少し不安そうに首をかしげた。
「何か、おかしなところでも?」
「おかしなところしかない」
「まあ」
彼女は目を丸くした。
本気で意外そうだった。
つまり本人はこれを普通だと思っている。
私は頭痛を覚えたが、同時に少しだけ妙な感覚もあった。
冊子の後ろの方、余白のさらに隅に、ほとんど潰れそうな字で別の書き込みがあったからだ。
『失敗すると外される』
『役に立たなければ残れない』
『完璧でいれば大丈夫』
そこだけ、妙に筆圧が強かった。
「……イシュレナ」
「はい」
「この書き込みはお前か」
彼女は一瞬だけ黙った。
そしてすぐ、いつもの微笑みに戻る。
「ええ。覚え書きのようなものですわ」
「覚え書きにしては、かなり必死だな」
「必死でなければ、身につきませんもの」
あまりにも自然に言われて、私は返事を失った。
***
その日の午後、私は珍しく公文書庫へ足を運んだ。
別に公務を放り出したわけではない。
放り出したい気持ちは大いにあるが。
イシュレナの冊子があそこまで具体的なら、同種の教育記録も残っているかもしれないと思ったのだ。名門公爵家である。教育方針くらい文書になっていてもおかしくない。
そして、あった。
公爵家から王城へ提出された過去の教育報告書。
おそろしく真面目な表紙。
おそろしく嫌な予感。
『イシュレナ嬢教育経過報告 七歳』
『同 十歳』
『同 十三歳』
私は十三歳のものを開いた。
『礼法、会話、舞踏、政治教養とも優秀、 ただし自己判断による感情表出が散見されるため、矯正継続。王太子妃候補としては、より安定した管理能力が必要』
次。
『失敗時の動揺が表情に出る傾向あり。不要と判断されぬよう、常に結果を示す意識を持たせること』
次。
『愛情は信頼を生むが、信頼は実績によって維持されると教示済み』
私はそこで紙から目を離した。
「信頼を、実績で維持……?」
横で書庫番が咳払いした気がしたが、今は気にしていられない。
続けて十歳の記録を読む。
『お茶の温度を誤り、本人は強く落ち込んだ。この程度で揺らぐようでは選ばれ続ける立場に耐えられないと指導』
七歳の記録。
『お遊戯の席次を誤解し涙したが、感情は価値にならないと諭した』
私はそっと閉じた。
嫌な理解の仕方をしてしまった。
イシュレナは、最初から完璧だったわけではない。
完璧でいなければいけないと叩き込まれ続けたのだ。
失敗すれば価値がない。
役に立たなければ外される。
選ばれ続けるには、結果を出し、管理し、揺らがず、完璧でいろ。
そう教わってきた人間が、私みたいな誰にでも「ありがとう」と言う王太子を婚約者にしたらどうなるか。
そりゃ記録も取る。
配置も変える。
周囲も管理する。
愛し方を知らないまま、必死に「失敗しない婚約者」をやろうとする。
「……だからああなるのか」
納得したくないが、少しだけ分かった。
怖さの根が、ただの狂気ではなかった。
***
だが、決定的だったのは夜だった。
その日のお茶の席で、私はわざと冊子のことを持ち出した。
「イシュレナ」
「はい、殿下」
「お前は昔から、ああいうものを読んでいたのか」
「『理想の妻十二か条』のことですの?」
「題名からして圧が強い」
「役に立つ本ですわ」
「本当に?」
私がそう言うと、イシュレナは少しだけ視線を伏せた。
私は続けた。
「お前はいつも、記録して、把握して、管理しようとする。あれは全部、お前なりに必要だと思ってやっているんだろう」
「もちろんですわ」
「なぜそこまで必要なんだ」
彼女はカップを持つ手を止めた。
いつものようにすぐ答えない。
だが今回は誤魔化さなかった。
「……そうしなければ」
小さな声だった。
「そうしなければ、捨てられますもの」
私は黙った。
イシュレナも、自分で口にしてから気づいたみたいに目を見開いた。
まずいことを言った、とでもいうように、すぐに笑顔を作ろうとする。
だが遅い。
今の一言で、全部つながった。
「殿下、これは、その……」
「お前」
私は思わず言った。
「本気で、そう思っていたのか」
イシュレナは答えない。
答えないまま、指先だけがわずかに震えていた。
初めて見た気がした。
イシュレナが、誰かに刺す前ではなく、自分が傷つく側の顔をしているところを。
「失敗したら終わりだと。役に立たなければ要らないと思われると。だから完璧でいようとしていたのか」
「……だって」
イシュレナは、ほとんど聞こえないくらいの声で言った。
「そう教わってまいりましたもの」
私はそこで、胸の奥が妙な重さで塞がるのを感じた。
かわいそうだ、と思ったわけではない。
それだけで済ませたら、たぶん違う。
ただ、ようやく分かったのだ。
この女は怖い。
かなり怖い。
愛し方が壊滅的におかしい。
私を何度も刺しているし、刺していなくても生活を監査してくる。
だが根っこのところで、最初に怯えていたのはこいつの方だった。
捨てられるのが怖い。
不要と言われるのが怖い。
だから先に全部を把握して、完璧でいようとして、挙句の果てに壊しに来る。
最悪だ。
最悪だが、もう「怖い婚約者」で片づけられなくなってしまった。
「……イシュレナ」
私が呼ぶと、彼女は顔を上げた。
その表情には、珍しく本物の不安が出ていた。
完璧な笑顔では隠しきれない、年相応の怯えだった。
私はその場では何も言えなかった。
うまい言葉が見つからなかったからだ。
下手な慰めは違うと思った。
かといって、いつものように茶化して逃げるのも違う。
「殿下……?」
「今日はもう下がってくれ」
イシュレナの目が揺れた。
しまった、と思った。
今の言い方は悪い。
だが彼女は小さく頭を下げただけで、静かに席を立った。
「……かしこまりましたわ」
去っていく背中は、いつもより小さく見えた。
***
私はその夜、久しぶりに検証用の紙を開いた。
『第一項。婚約破棄を切り出すと死ぬ』
『第二項。人目は意味がない』
『第三項。父王も宰相も意味がない』
『第四項。神も意味がない』
『第五項。直接会わなくても死ぬ』
『第六項。逃げても死ぬ』
『仮説。婚約破棄という言葉ではなく、私が彼女を捨てる意思そのものが引き金ではないか』
そこへ、新しく一行書き足した。
『第七項。イシュレナは、捨てられるのが怖い』
そして、もう一行。
『次は婚約破棄を言わない。代わりに、本音で話す』
書いてから、私はしばらくその文字を見つめた。
怖い。
正直に言えば、かなり怖い。
いまさら本音で向き合う方が、扇の刃より緊張するまである。
だが、たぶんそれしかない。
あいつはずっと、管理と記録と完璧さでしか愛を示せなかった。
だったら私は、それでは足りないと、言葉で伝えなければならない。
「……逃げるのは、もうやめるか」
誰もいない部屋でそう呟くと、少しだけ肩の力が抜けた。
窓の外では春の夜風が木々を揺らしている。
穏やかな夜だった。
その穏やかさの中で、私は次にやるべきことを決めた。
温室だ。
最初に刺された、あの場所でいい。
次こそは、別れ話ではなく、本当の話をする。




