表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/6

第4話「婚約破棄を諦めたら今度は結婚後が怖すぎた」

 私は机の上の紙を、長いこと睨んでいた。


『第四項。神も意味がない』

『第五項。直接会わなくても死ぬ』

『第六項。逃げても死ぬ』

『仮説。婚約破棄という言葉ではなく、私が彼女を捨てる意思そのものが引き金ではないか』


 ひどい。


 王太子の執務机に置く記録として、あまりにもひどい。


 いや、内容が事実だからこそ、余計にひどい。


 私は頭を抱えた。


「……だとすると、答えは一つではないか」


 侍従が朝の支度を整えながら怪訝そうにこちらを見る。


「何かおっしゃいましたか」


「婚約者に刺されない方法だ」


「はあ」


「婚約破棄しようとしなければいい」


 侍従は数秒黙ったあと、慎重に口を開いた。


「それは……たいへん健全な結論ではございませんか」


「健全かどうかは分からん。だが少なくとも、今までの中では一番血が出ない」


 問題はそこなのだ。


 別れようとするたび死ぬなら、別れようとしなければいい。


 理屈としては単純である。


 腹立たしいほど単純である。


 これで助かるなら、私は六回も死ぬ前にこの結論へ辿り着きたかった。


 だがまあ、今さら言っても遅い。


「よし」


 私は立ち上がった。


「今回は婚約破棄を考えない。口にもしない。紙にも書かない。逃げない。とにかく普通に過ごす」


「それは……普段通りでは」


「私の胸中は普段通りではない」


 むしろかなり荒れている。


 だが、荒れていても死ぬよりましだ。


 私は自分にそう言い聞かせ、温室へ向かった。



 ***



「本日のお茶は、東方から取り寄せた新茶ですわ」


「蒸らし時間を少し短くしたのだろう。知っている」


「まあ。まだ申し上げておりませんのに」


「……なんでもない」


 危ない。

 ループの弊害で予言者みたいになってきた。


 ともかくこの日は、別れ話をしなかった。


 翌日も。翌々日も。


 すると、驚くべきことに。


 死なない。


 刺されない。


 朝が巻き戻らない。


 三日目の朝、私は寝台の上で感動のあまり目を閉じた。


「生きている……」


「殿下、朝から感慨深げでいらっしゃいますね」


「お前は分からんだろうが、朝を迎えられるのは素晴らしいことだ」


 侍従はたいへん優しい目で私を見た。やめろ。王太子を見る目ではなく、突然人生観が深まった若者を見る目だった。


 だが事実、私は感動していた。


 婚約破棄を考えなければ刺されない。


 この仮説は正しかったのだ。


 私は久しぶりに肩の力を抜いた。


 これでいい。


 とりあえず今は生き延びることが先だ。


 婚約破棄は諦める。少なくとも一時保留。そう思えば――


「殿下」


 イシュレナが微笑む。


「本日の午後、わたくしと妃教育の予定を入れておりますの」


「妃教育?」


「ええ。ご結婚後を見据えて、交友関係の整理から始めようかと」


 私は瞬きをした。


「交友関係の……整理?」


「殿下はお優しすぎますから、どなたにどの距離までお心を砕くか、線引きを明確にした方がよろしくてよ」


 さらっと怖いことを言われた気がした。


 だが、まあ、妃教育だ。未来の王妃候補として前向きに動いているだけかもしれない。今までが今までなので警戒はするが、すべてを悪く取るのもよくない。


 私はそう思おうとした。


 その日の午後、机の上に置かれた書類を見るまでは。


『ゼルヴァルト殿下、結婚後対人交流指針(第一次案)』


 やめろ。


 いきなり題名から堅い。


 私は震える手で中を開いた。


 一、侍女への私的な労いは必要最低限に留めること。

 二、未婚令嬢との一対一の会話は三十秒以内を目安とすること。

 三、庭師・料理人・近衛への笑顔は全体に向ける形とし、個別供給を避けること。

 四、動物への過度な親愛表現は誤解を招くため注意すること。


「猫まで入っているな……」


「当然ですわ」


 いつの間にか背後に立っていたイシュレナが、誇らしげに頷いた。


「抜けがあってはなりませんもの」


「抜けの概念がおかしい」


「いずれ第二次案も作成いたしますわ」


「作るな」


 私は書類を閉じた。


 嫌な汗が出る。


 だがまだ、これだけなら“少し極端な準備熱心”で済ませられなくもない。たぶん。ぎりぎり。相当に苦しいが。


 問題はその翌日だった。



 ***



「新しい侍従補佐にございます」


 朝、私の部屋へ見慣れない顔ぶれが入ってきた。


「……誰だ?」


 いつもの侍従が申し訳なさそうに頭を下げる。


「イシュレナ様のご提案で、人員の見直しが」


「なぜ私の身の回りが見直される」


「殿下に最適な環境を整えるためですわ」


 また背後だ。


 なぜこの女は毎回、ちょうど嫌な台詞を言われた瞬間に現れるのか。忍者か。


 イシュレナは朝の光の中でも完璧だった。漆黒の髪を結い上げ、淡い色のドレスで微笑んでいる。見た目だけなら慈愛に満ちた未来の妃である。実態は、私の生活圏を静かに囲い込み始めた公爵令嬢だが。


「殿下のお世話をする者は、より信頼できる者で固めるべきですもの」


「今までの者たちも十分信頼できるが」


「ええ。ですが、よりですわ」


 その“より”が怖い。


 結局、私の侍従補佐は増えた。

 増えたが、気づけば全員、やたらとイシュレナへ報告が早い。


 私が昼食を少し残した。


 十分後には「本日は食欲が優れませんの?」とイシュレナが聞いてくる。


 私が午後に一度ため息をついた。


 その日の夜には「本日十五時頃に憂いが深かったようですが、原因はわたくしでして?」と確認が入る。


 私が窓の外を三秒ほど眺めた。


 翌朝には「外へのご関心が強い一日でしたのね」と微笑まれる。


 怖い。


 結婚前でこれである。


 結婚後を想像すると、城の壁より先に私の精神が崩れる気がした。



 ***



 決定打になったのは、執務室だった。


 私は午前の書類仕事を終え、ふと机の端に積まれた薄い冊子へ目を留めた。


 見覚えがない。


 開く。


『殿下の感情の変化観察日誌』


 私は静かに閉じた。


 もう一度開いた。


 やはり同じ題名だった。


 一日目、午前、侍従への返答は平穏。昼、庭の白薔薇を見た際に少し表情が和らぐ。午後、老庭師との会話で機嫌改善。

 二日目、舞踏会関係の報告後、眉間のしわ増加。温かい茶で回復。

 三日目、イシュレナ様ご不在の時間帯、やや静穏。再会後、心拍の変動が大きい可能性あり。要経過観察。


「要経過観察ってなんだ……」


 私は日誌を持ったまま立ち尽くした。


 この城のどこかに、私を観察対象として扱う勢力がある。いや勢力というか、主犯はほぼ一人なのだが。


 そこへ扉が開いた。


「殿下」


 イシュレナだった。


 私は反射的に冊子を背中へ隠した。遅い。もう見ている。題名まで見ている顔だ。


「それは、まだお渡しする予定ではなかったのですが」


「渡す予定はあったんだな!?」


「進捗報告は大切ですもの」


「誰への?」


「わたくしへの、ですわ」


 堂々としている。


 悪びれろ。少しは。


 だがイシュレナは心外そうに首をかしげた。


「殿下のご様子を把握しておくのは、婚約者として当然ではありませんか」


「当然の範囲を王都中に聞いて回りたい」


「お止めした方がよろしいですわ。答えを聞く前に、回答者の素性を調べたくなってしまいますもの」


「やめてくれ。怖さの足し算をするな」


 私は机に額を打ちつけたくなった。


 刺されていない。


 いないが、じわじわ削られている。


 刃物ではなく管理表で。


 新しい地獄だった。



 ***



 その夜、私はとうとう見てしまった。


 庭園の片隅で、老庭師のガランと少し話しただけだった。


「春薔薇の伸びが良いな」


「今年は土が合いましたので」


「見事だ」


 それだけだ。


 たったそれだけ。


 翌朝、執務机の上には一枚の紙が置かれていた。


『庭園管理体制再編案』


 私は乾いた笑いを漏らした。


 一、老庭師ガランの担当区域縮小。

 二、殿下が頻繁に立ち寄る区画は若年男性庭師へ変更。

 三、白薔薇周辺の立ち入り記録を強化。

 四、雑談時間の標準化。


「雑談時間の標準化とは何だ」


「一定以上親しくならないための予防策ですわ」


 後ろにいた。


 もう驚かない。疲れた。


 イシュレナは胸の前で手を組み、少しだけ眉を下げた。


「殿下はすぐにお心を許されるのですもの」


「許していない。薔薇を褒めただけだ」


「それが危ないのです」


「庭師が?」


「殿下が、ですわ」


 私は口を閉じた。


 この会話、どこへ着地するのが正解なのか分からない。


 たぶん相手も分かっていない。だが本気ではある。だから余計に厄介だ。


 その晩、食後のお茶の席でイシュレナはごく自然に尋ねた。


「ところで殿下」


「なんだ」


「本日は、どなたを何秒ほど見つめましたか?」


 私は紅茶を吹いた。


「何を確認しているんだ!?」


「日々の把握ですわ」


「把握の方向が完全に監査だ!」


「では質問を変えます。最も長く目を向けたのは、白薔薇と庭師とわたくしのどれでしたの?」


「怖い質問をするな!」


 イシュレナは真剣だった。


 冗談ではなく、本当に気にしているのだ。


 私はそこで、ようやく認めた。


 婚約破棄をしなければ刺されない。


 それは正しい。


 だが。


 婚約を続ければ平和かと言われると、全然そんなことはない。


 刺されない代わりに、生活がじわじわ細くなる。


 人との距離が管理される。


 感情が記録される。


 息の仕方まで報告書にされそうな勢いで囲われる。


 これはもう、「別れるか」「結婚するか」の二択ではない。


 どちらを選んでも、そのままではだめだ。


 私はその夜、寝台の上で天井を見つめた。


「……詰んでいるのではないか」


 誰も答えない。


 だが、自分で答えは分かっていた。


 婚約破棄したら死ぬ。


 婚約継続したら生きたまま死ぬ。


 なら問題は、婚約の有無ではない。


 問題は、イシュレナそのものだ。


 もっと正確に言えば――


「この女と、どう向き合うか……そこを考えないと終わらないのか」


 口にした瞬間、腹の底が重くなった。


 嫌すぎる。


 だが、たぶんそれが正解に近い。


 私はゆっくり息を吐いた。


 窓の外では春の風が木を揺らしている。


 穏やかな夜だった。


 その穏やかさの中で、私は初めて理解した。


 このループを抜けるには、刺されない別れ方を探すだけでは足りない。


 私は、あの完璧で、重くて、怖くて、たまに妙に可愛い婚約者と、真正面から向き合う方法を考えなければならないのだ。


 そう思った瞬間、扉の向こうから控えめな声がした。


「殿下。お休み前に一つだけ」


 嫌な予感しかしない。


「……何だ」


「本日、わたくしを見つめてくださった時間は、白薔薇より長かったと考えてよろしいですわよね?」


 私は天井を見上げた。


 刺されてはいない。


 だが、やはりこの婚約生活、普通に怖すぎる。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ