第4話「婚約破棄を諦めたら今度は結婚後が怖すぎた」
私は机の上の紙を、長いこと睨んでいた。
『第四項。神も意味がない』
『第五項。直接会わなくても死ぬ』
『第六項。逃げても死ぬ』
『仮説。婚約破棄という言葉ではなく、私が彼女を捨てる意思そのものが引き金ではないか』
ひどい。
王太子の執務机に置く記録として、あまりにもひどい。
いや、内容が事実だからこそ、余計にひどい。
私は頭を抱えた。
「……だとすると、答えは一つではないか」
侍従が朝の支度を整えながら怪訝そうにこちらを見る。
「何かおっしゃいましたか」
「婚約者に刺されない方法だ」
「はあ」
「婚約破棄しようとしなければいい」
侍従は数秒黙ったあと、慎重に口を開いた。
「それは……たいへん健全な結論ではございませんか」
「健全かどうかは分からん。だが少なくとも、今までの中では一番血が出ない」
問題はそこなのだ。
別れようとするたび死ぬなら、別れようとしなければいい。
理屈としては単純である。
腹立たしいほど単純である。
これで助かるなら、私は六回も死ぬ前にこの結論へ辿り着きたかった。
だがまあ、今さら言っても遅い。
「よし」
私は立ち上がった。
「今回は婚約破棄を考えない。口にもしない。紙にも書かない。逃げない。とにかく普通に過ごす」
「それは……普段通りでは」
「私の胸中は普段通りではない」
むしろかなり荒れている。
だが、荒れていても死ぬよりましだ。
私は自分にそう言い聞かせ、温室へ向かった。
***
「本日のお茶は、東方から取り寄せた新茶ですわ」
「蒸らし時間を少し短くしたのだろう。知っている」
「まあ。まだ申し上げておりませんのに」
「……なんでもない」
危ない。
ループの弊害で予言者みたいになってきた。
ともかくこの日は、別れ話をしなかった。
翌日も。翌々日も。
すると、驚くべきことに。
死なない。
刺されない。
朝が巻き戻らない。
三日目の朝、私は寝台の上で感動のあまり目を閉じた。
「生きている……」
「殿下、朝から感慨深げでいらっしゃいますね」
「お前は分からんだろうが、朝を迎えられるのは素晴らしいことだ」
侍従はたいへん優しい目で私を見た。やめろ。王太子を見る目ではなく、突然人生観が深まった若者を見る目だった。
だが事実、私は感動していた。
婚約破棄を考えなければ刺されない。
この仮説は正しかったのだ。
私は久しぶりに肩の力を抜いた。
これでいい。
とりあえず今は生き延びることが先だ。
婚約破棄は諦める。少なくとも一時保留。そう思えば――
「殿下」
イシュレナが微笑む。
「本日の午後、わたくしと妃教育の予定を入れておりますの」
「妃教育?」
「ええ。ご結婚後を見据えて、交友関係の整理から始めようかと」
私は瞬きをした。
「交友関係の……整理?」
「殿下はお優しすぎますから、どなたにどの距離までお心を砕くか、線引きを明確にした方がよろしくてよ」
さらっと怖いことを言われた気がした。
だが、まあ、妃教育だ。未来の王妃候補として前向きに動いているだけかもしれない。今までが今までなので警戒はするが、すべてを悪く取るのもよくない。
私はそう思おうとした。
その日の午後、机の上に置かれた書類を見るまでは。
『ゼルヴァルト殿下、結婚後対人交流指針(第一次案)』
やめろ。
いきなり題名から堅い。
私は震える手で中を開いた。
一、侍女への私的な労いは必要最低限に留めること。
二、未婚令嬢との一対一の会話は三十秒以内を目安とすること。
三、庭師・料理人・近衛への笑顔は全体に向ける形とし、個別供給を避けること。
四、動物への過度な親愛表現は誤解を招くため注意すること。
「猫まで入っているな……」
「当然ですわ」
いつの間にか背後に立っていたイシュレナが、誇らしげに頷いた。
「抜けがあってはなりませんもの」
「抜けの概念がおかしい」
「いずれ第二次案も作成いたしますわ」
「作るな」
私は書類を閉じた。
嫌な汗が出る。
だがまだ、これだけなら“少し極端な準備熱心”で済ませられなくもない。たぶん。ぎりぎり。相当に苦しいが。
問題はその翌日だった。
***
「新しい侍従補佐にございます」
朝、私の部屋へ見慣れない顔ぶれが入ってきた。
「……誰だ?」
いつもの侍従が申し訳なさそうに頭を下げる。
「イシュレナ様のご提案で、人員の見直しが」
「なぜ私の身の回りが見直される」
「殿下に最適な環境を整えるためですわ」
また背後だ。
なぜこの女は毎回、ちょうど嫌な台詞を言われた瞬間に現れるのか。忍者か。
イシュレナは朝の光の中でも完璧だった。漆黒の髪を結い上げ、淡い色のドレスで微笑んでいる。見た目だけなら慈愛に満ちた未来の妃である。実態は、私の生活圏を静かに囲い込み始めた公爵令嬢だが。
「殿下のお世話をする者は、より信頼できる者で固めるべきですもの」
「今までの者たちも十分信頼できるが」
「ええ。ですが、よりですわ」
その“より”が怖い。
結局、私の侍従補佐は増えた。
増えたが、気づけば全員、やたらとイシュレナへ報告が早い。
私が昼食を少し残した。
十分後には「本日は食欲が優れませんの?」とイシュレナが聞いてくる。
私が午後に一度ため息をついた。
その日の夜には「本日十五時頃に憂いが深かったようですが、原因はわたくしでして?」と確認が入る。
私が窓の外を三秒ほど眺めた。
翌朝には「外へのご関心が強い一日でしたのね」と微笑まれる。
怖い。
結婚前でこれである。
結婚後を想像すると、城の壁より先に私の精神が崩れる気がした。
***
決定打になったのは、執務室だった。
私は午前の書類仕事を終え、ふと机の端に積まれた薄い冊子へ目を留めた。
見覚えがない。
開く。
『殿下の感情の変化観察日誌』
私は静かに閉じた。
もう一度開いた。
やはり同じ題名だった。
一日目、午前、侍従への返答は平穏。昼、庭の白薔薇を見た際に少し表情が和らぐ。午後、老庭師との会話で機嫌改善。
二日目、舞踏会関係の報告後、眉間のしわ増加。温かい茶で回復。
三日目、イシュレナ様ご不在の時間帯、やや静穏。再会後、心拍の変動が大きい可能性あり。要経過観察。
「要経過観察ってなんだ……」
私は日誌を持ったまま立ち尽くした。
この城のどこかに、私を観察対象として扱う勢力がある。いや勢力というか、主犯はほぼ一人なのだが。
そこへ扉が開いた。
「殿下」
イシュレナだった。
私は反射的に冊子を背中へ隠した。遅い。もう見ている。題名まで見ている顔だ。
「それは、まだお渡しする予定ではなかったのですが」
「渡す予定はあったんだな!?」
「進捗報告は大切ですもの」
「誰への?」
「わたくしへの、ですわ」
堂々としている。
悪びれろ。少しは。
だがイシュレナは心外そうに首をかしげた。
「殿下のご様子を把握しておくのは、婚約者として当然ではありませんか」
「当然の範囲を王都中に聞いて回りたい」
「お止めした方がよろしいですわ。答えを聞く前に、回答者の素性を調べたくなってしまいますもの」
「やめてくれ。怖さの足し算をするな」
私は机に額を打ちつけたくなった。
刺されていない。
いないが、じわじわ削られている。
刃物ではなく管理表で。
新しい地獄だった。
***
その夜、私はとうとう見てしまった。
庭園の片隅で、老庭師のガランと少し話しただけだった。
「春薔薇の伸びが良いな」
「今年は土が合いましたので」
「見事だ」
それだけだ。
たったそれだけ。
翌朝、執務机の上には一枚の紙が置かれていた。
『庭園管理体制再編案』
私は乾いた笑いを漏らした。
一、老庭師ガランの担当区域縮小。
二、殿下が頻繁に立ち寄る区画は若年男性庭師へ変更。
三、白薔薇周辺の立ち入り記録を強化。
四、雑談時間の標準化。
「雑談時間の標準化とは何だ」
「一定以上親しくならないための予防策ですわ」
後ろにいた。
もう驚かない。疲れた。
イシュレナは胸の前で手を組み、少しだけ眉を下げた。
「殿下はすぐにお心を許されるのですもの」
「許していない。薔薇を褒めただけだ」
「それが危ないのです」
「庭師が?」
「殿下が、ですわ」
私は口を閉じた。
この会話、どこへ着地するのが正解なのか分からない。
たぶん相手も分かっていない。だが本気ではある。だから余計に厄介だ。
その晩、食後のお茶の席でイシュレナはごく自然に尋ねた。
「ところで殿下」
「なんだ」
「本日は、どなたを何秒ほど見つめましたか?」
私は紅茶を吹いた。
「何を確認しているんだ!?」
「日々の把握ですわ」
「把握の方向が完全に監査だ!」
「では質問を変えます。最も長く目を向けたのは、白薔薇と庭師とわたくしのどれでしたの?」
「怖い質問をするな!」
イシュレナは真剣だった。
冗談ではなく、本当に気にしているのだ。
私はそこで、ようやく認めた。
婚約破棄をしなければ刺されない。
それは正しい。
だが。
婚約を続ければ平和かと言われると、全然そんなことはない。
刺されない代わりに、生活がじわじわ細くなる。
人との距離が管理される。
感情が記録される。
息の仕方まで報告書にされそうな勢いで囲われる。
これはもう、「別れるか」「結婚するか」の二択ではない。
どちらを選んでも、そのままではだめだ。
私はその夜、寝台の上で天井を見つめた。
「……詰んでいるのではないか」
誰も答えない。
だが、自分で答えは分かっていた。
婚約破棄したら死ぬ。
婚約継続したら生きたまま死ぬ。
なら問題は、婚約の有無ではない。
問題は、イシュレナそのものだ。
もっと正確に言えば――
「この女と、どう向き合うか……そこを考えないと終わらないのか」
口にした瞬間、腹の底が重くなった。
嫌すぎる。
だが、たぶんそれが正解に近い。
私はゆっくり息を吐いた。
窓の外では春の風が木を揺らしている。
穏やかな夜だった。
その穏やかさの中で、私は初めて理解した。
このループを抜けるには、刺されない別れ方を探すだけでは足りない。
私は、あの完璧で、重くて、怖くて、たまに妙に可愛い婚約者と、真正面から向き合う方法を考えなければならないのだ。
そう思った瞬間、扉の向こうから控えめな声がした。
「殿下。お休み前に一つだけ」
嫌な予感しかしない。
「……何だ」
「本日、わたくしを見つめてくださった時間は、白薔薇より長かったと考えてよろしいですわよね?」
私は天井を見上げた。
刺されてはいない。
だが、やはりこの婚約生活、普通に怖すぎる。




