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48.道徳観の違い

ジンスケも、マドリナの視線を真正面から受け止めたまま、静かに言葉を返した。


「金貨2,000枚とは……たいそうな金額ですね。拙者との一夜にそんな大金では到底つり合いがとれないでしょう」


言葉の意味をどう受け取ったのか、マドリナはすぐに応じた。


「そうですか、それではジンスケ様がつり合いが取れるとお考えになる金額に訂正させていただきましょう」


ジンスケはやや困った顔を見せ、口を引き結ぶと、低い声で続けた。


「いえ……そういう話ではありません。そもそも、今回のお申し出自体を、なかったことにしていただきたいのです」


それくらいでマドリナが引き下がるわけもない。唇の端をわずかに吊り上げ、冗談めかして返した。


「おやおや、金貨2,000枚でも一緒に寝るのは嫌だと言われるほど嫌われてしまいましたか」


その瞳は柔らかく微笑んでいたが、その裏に鋭い探りがあることをジンスケは感じ取っていた。


「このような老兵ではジンスケ様のような若い男とではつり合いがとれませんか?」


ジンスケは腹を決めて言った。


「そういうことではありません。拙者は金をもらって女性と交わることはしない主義なのです」


マドリナは、ゆるやかに首を傾げてみせた。


「それは何故なのでしょう?」


彼女の問いは、好奇心からだった。


断られたことに対する怒りではなく、純粋な疑問のように感じられた。


ジンスケは短くため息を吐いた。説明しても通じないと、もうわかっている。だが、それでも彼は、言葉にするしかなかった。


「拙者の元いた世界では金をもらって女と寝ることは恥とされていたからです」


マドリナはしばらく沈黙したあと、本気で不思議そうに口を開いた。


「金をもらって女と寝るのが恥ならば、それ以外でどうやって女と寝るのですか?」


この世界に来てから何人もの女性からジンスケは同じような問いを何度となく受けてきた。


そして、毎回思うのだ――話が、まったく噛み合わないと。


この世界の女性たちは、相手が望むだけの金を出せば男と交わるのは当然のことだと信じて疑っていない。


むしろ、金銭のやり取りこそが誠意であり、礼儀だとさえ思っている節がある。


そして、おそらく男たちも、それを当然のこととして受け入れて生きてきたのだろう。


数において圧倒的に少数である男にとって、それが「義務」であり「役割」であり「当然」なのだ。


だが、ジンスケは違った。彼はここでは異邦人なのだ。


浪人であろうと、無位無官の流れ者であろうと――彼の中には、武士としての誇りが確かに生きていた。


いくら世界が違う、男が少ない世界だからといって。男が金で女に買われるというのはジンスケにとっては屈辱にしか思えないのだ。


くだらない意地なのかもしれないが武士としての誇りは捨てられない。


「拙者のいた世界では、男は……好いた女としか、交わらぬものなのです。拙者も、そうです」


マドリナは眉を寄せた。「好いた女」という言葉が理解できなかった。


「好いた女」というのはどういう意味だろう?


男が女を好きになるということだろうか?


つまり男が女を選り好みするということか?


その発想に、彼女は強い違和感を覚えた。


そんな不道徳な考え方が許されるわけもない。


この男が少ないこの世界で男がそんなことをすれば世界は少子化ですぐに滅んでしまうだろう。


たしかに、稀に特定の男に入れ込み、独占しようとする女が出てきたりもする。


だが、そんな者は周囲から強く非難される。


不道徳の極みであり、死罪の罪人よりも軽蔑される存在だった。


貴族であれば、そんな考えが明るみに出れば即刻爵位は剥奪される。


王族でさえも、気に入った男を持つときには、親族や姉妹、高位貴族と共有するのが義務であり作法とされていた。


それが、繁殖を維持するための、この世界における倫理だった。


ましてや男が女を選り好みして特定の女にしか種付けしないなどということがあっていいはずがない。


男とは、選ぶ側ではない。選ばれる側であるのが自然の摂理というものだ。


こんな天使のように美しい容姿をしていながら、なんという汚らわしい不道徳な考え方をしているのだろう。


マドリナはこの場でジンスケを切り捨ててしまいたい誘惑にかられた。


彼女にとって、道徳と正義は信念そのものだった。


それをあざ笑うような思想を、この男は平然と口にする。


この男の考え方は社会正義や世のなりわいに反している。


だが同時に、軽々しく剣を抜くこともできなかった。


この男は国を滅ぼしてしまいかねないほどに危険な存在なのだ。


たとえどんなに汚らわしい精神の持ち主だとしても敵にまわすわけにはいかない。


マドリナは感情を抑え、冷ややかに言葉を吐いた。


「ジンスケ様は、随分と変わった信条をお持ちなのですね。それは私の理念とは相容れぬものです」


「どうやら私たちは、根本的に相性が良くないようだ。……今回のご提案は、撤回させていただきましょう」


ジンスケは相手の態度の豹変には気づいていたが、あえてそれには触れなかった。


「ご理解がいただけたようで何よりです、お役目ご苦労さまでした無事のご帰還をお祈りしています」


その時カリーネはマドリナの隣でまったく違うことを考えていた。


この男をどうにかして抱きたい。どんな手を使ってでも、自分のものにしたい。


たとえどれだけ不道徳な思想を持っていようが、それでも構わない。


もちろん副師団長ともあろうものがそんな考えを微塵も表に表すわけはないが。


マドリナはカリーネに向きなおって言った。


「それでは用件もすべて済んだことだし、我々はおいとますることとしよう」


「ジンスケ様、わざわざお時間をいただきありがとうございました」


ジンスケも穏やかに一礼して応じた。


「こちらこそありがとうございました。」


マドリナとカリーネの姿が見えなくなるとリフィアが不思議そうに言った。


「随分とあっさりと引き下がりましたね」


「国軍とあれば、それも王族がらみの依頼とあればジンスケ様の首に縄をつけてでも連れていくつもりかと思っていましたが」


ジンスケも同じ考えだった。


「拙者もそう思いました。ただしマドリナ殿は途中から随分と不愉快そうな顔をしておられましたから、もしかすると嫌われてしまったかもしれませんね」


リフィアが吹き出した。


「ジンスケ様が女に嫌われる? それは面白い。」


「それにしても……随分と安く見られたものですね。ジンスケ様がたった金貨2,000枚などとは」


そして、思い出したように言った。


「あの言い訳には笑ってしまいそうでしたよ。『好きな女としか寝ない』──って。あの一言で、向こうの表情が完全に固まりました」


「きっと気づいたでしょうね。ジンスケ様が、あのケチな提示額に内心憤慨していたことに」


それでも何事もなく遠征隊は帰っていきそうだと二人はやっと安心したのだった。


その帰路、領主の館へと戻る途中のことだった。カリーネがふと隣を歩くマドリナに問いかけた。


「王家からの命だったのではないのですか? あれで良かったのですか」


マドリナは不愉快そうに唇を歪めた。


「天使のように美しい見かけだが、それ以上に精神が醜く歪んでいる」


「あんな男を抱けばきっと腐臭がするに違いない」


カリーネは内心「腐臭がしてもかまわない」と思ったが、それを言葉にすることはしなかった。


代わりに、別の話題を口にする。


「それにしても本当に華奢でしたね、あれで強いだなんて、私にはどうしても信じられません」


だが、マドリナは違った意見を持っているようだった。


「私が入っていったとき、あの者が一歩後ろに下がったのに気づいたか?」


カリーネは頷いた。


「ええ、そうでしたね。マドリナ様に気圧されて怯んだんじゃないですか?」


マドリナは思案するようにしながら言った。


「そうかもしれない。……が、そうではないかもしれない」


「あの位置から半歩でも前に出れば私の一番遠い剣技ファイアーブレードで届く間合いに入る」


「それを察して下がったように私には思えた」


「だから無用ないさかいは避けるためにあそこで止まったんだ」


カリーネは、冗談にしては真面目すぎるマドリナの口調に、少しだけ戸惑いながら言った。


「いやあ、それはさすがにマドリナ様の思い過ごしでしょう」


「初対面で剣を交えたこともなく、相手の技も知らないのに間合いが見切れるわけもありません」


だがマドリナは首を横に振った。


「その通りだ……普通なら、ありえない」


「だがあの男は、私の気配の変化を感じ取ったのかもしれない。あるいは、人の心が読めるのかもな」


「それに――間合いの外にいるときのあいつは、完全に気を抜いていた。まるで、あの場が既に“自分の間合いの中”であるとでも言うように」


「……いつでも斬れる。だからこそ、あんなにも余裕綽々だったのかもしれない」


カリーネは「まさか」と苦笑したが、次の瞬間、自分の背筋に冷たい汗がつうっと伝うのを感じた。


――もしあの男が、本当に人の心を読むことができるのだとしたら。


あれほどまでに妄想していた自分の心も……全て、知られていたのではないだろうか?


思わず目を伏せるカリーネを見て、マドリナはそれ以上何も言わなかった。




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