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40.戒厳令のザカト

今日もジンスケはノラの宿屋で、塩味ウサギステーキの昼食を取っていた。


表面をこんがりと焼いたステーキの肉はナイフを入れるとじゅわりと肉汁が滲み、塩の風味がしっかり染みている。素材そのものがいいのか、ノラが料理の腕をあげたのか──何度食べても飽きない味だった。


窓の外では、夏の陽射しが瓦屋根を白く照らし、子供たちの笑い声がかすかに届いていた。まるで戒厳令が出ているとは思えない、のどかな風景である。


ザカトの町には今、王令による厳しい戒厳令が敷かれていた。城門は固く閉ざされ、他の町との交易は完全に絶たれている。にもかかわらず、町の人々が飢えや混乱に苦しんでいる様子はなかった。


「やっぱり、この町の領主は只者じゃないな……」


ジンスケは心の中でそう呟きながら、ナイフとフォークを静かに置いた。


領主が有事に備えて保管していたという物資が、いま市場に惜しげもなく放出されているらしい。


そのおかげで、食料も生活物資も潤沢に行き渡っている。混乱も暴動も起きていない。


確かに立派な対応だ、とジンスケは認めざるを得なかった。


だが同時に、ここまで先回りした備えをしていたことに、少なからず不信感も覚える。


──最初から何か知っていたんじゃないか?


そんな思いが脳裏をかすめたが、それを深く追及する気にはなれなかった。


なぜなら今の暮らしは、かつて夢にまで見た“平穏”そのものだったからだ。


こうして毎日を平々凡々に暮らせているのであればジンスケにとって全く不満はなかった。


ゼブレに行けなくなったのは痛いが、まだ塩の在庫は当分持ちそうだった。


戒厳令が敷かれたために町の城壁から外に出られなくなって冒険者ギルドは開店休業状態だ。


最初の頃こそ、城壁内の道路清掃や城壁修理などのクエストがたくさん出されていたが、それにも限度がある。


ヤリ手の領主といえども戒厳令が敷かれてはさすがにどうしようもないのだろう。


それなのでギルドでの仕事も昼までには終わってしまうのだ。


それで毎日、金貨一枚の報酬を受けているのが申し訳なくてギルド長のアイリーンさんに何度も減額を申し出ているのだけれど、その度に丁寧にお断りされている。


ジンスケが昼食を食べ終わって食後の紅茶を飲んでいると、そのアイリーンがやってきた。


「ジンスケ様、こちらにいらっしゃいましたか」


彼女は穏やかな笑顔を浮かべながら、真っ直ぐジンスケの席に向かってきた。


「どうぞ、こちらへ。紅茶でも一杯」


ジンスケが勧めると、アイリーンは遠慮がちに隣の席に腰を下ろした。窓から差し込む日差しが、彼女の青銀糸のような髪を柔らかく照らしている。


「実は、王都から国軍が派遣されることが正式に決まりました。目的は、例のダンジョン入り口の再封鎖です」


そう言って差し出された文書には、王都の紋章と指印が押されていた。


明日の朝にはまたギルドで顔をあわせるのに、わざわざジンスケに知らせにきてくれたのだった。


本当にジンスケはこの町で大切にしてもらっているなと感じる。


説明を終えるとアイリーンは美しい青い瞳でじっとジンスケを見つめながら言った。


「それでジンスケ様はどうされますか?」


ジンスケは質問の意味がわからなくて聞き返した。


「どうされる? というのはどういうことでしょう」


アイリーンは心配そうな表情で続けた。


「国軍がこの辺境あたりまでやってくれば必ずザカトにも訪れるでしょう」


「絶世の美男、落世人の噂を聞き逃すはずがありませんから」


「こんな魔物騒ぎがなければ噂だけで王都から確認にくることなどありそうもなかったのですが」


「ジンスケ様が王族と関わりになられたくないのは存じています」


「もし町を出て身を隠されるようなことをお考えなのであれば我々にできることはなんでもご協力させていただきますよ」


アイリーンの言うことを聞いてジンスケはなるほどと思った。


さて、どうしよう。


せっかくこの世界に転生できたのだから今のままのこの平穏で変化のない日常を続けていきたい気持ちが強い。


なので領主や王族などの権力にはあまり近づきたくなかったのだ。


──だけど。


ジンスケはふと、店の奥で皿を洗うノラの姿に目をやった。この穏やかな暮らしを、たったそれだけの理由で捨てるのか? この町には、もう“帰れる場所”のような安心感すらあるというのに。


たとえ王族が自分に接触してきても、今の自分に“力”があるとは知られていない。剣術師範になってくれだの、どこかの軍に加わってくれだのと言われるとも限らない。


話をして終わりなら、それでいいのではないか。


──逃げ回るような理由が、今の自分にはあるだろうか?


自分からわざわざ接触しようとは思わないが、向こうが来るというのなら仕方ないし、それだけで気に入っているこのザカトの町から逃げ出すこともないだろう。


考えがまとまってジンスケはアイリーンに言った。


「お気遣いありがとうございます。あまり王族と関わりになりたくないというのは本当ですが、まあそれだけで町から逃げ出すほどのこともないでしょう」


アイリーンは少し意外そうな顔をした。


「本当に、よろしいのですか?」


その声音には、どこか躊躇いがあった。


「そうなれば、きっとジンスケ様は王都に連れ帰られることになると思いますが?」


ジンスケは思わず目を見開いた。


「拙者が、王都に……連れ帰られる?」


言葉に戸惑いが混じる。思いがけない展開に、思考が一瞬止まった。


「然し、この国では男は法律で守られているのではないのですか? たとえ王族といえども、拙者の意思を無視して、無理やりに連れて行くことなど……」


その言葉を最後まで言い切る前に、アイリーンがやや険しい顔つきで首を横に振った。


「ジンスケ様……失礼を承知で申し上げますが、そのお考えは、あまりにも甘すぎます」


「女王は、この国の法そのものです。いかなる法律であろうと、王命があれば、それを上書きできるのです」


ジンスケは口をつぐんだ。


それが事実だと、表情から読み取れた。だが、それでも腑に落ちない。


「それでも……拙者を無理に連れ帰る理由などないはず。そこまでして王都に迎えるなど――」


ジンスケの疑問をさえぎるように、宿の客たちが一斉に首を横に振った。まるで示し合わせたかのように、揃ってブンブンと。


その異様な反応に、ジンスケはますます困惑する。


アイリーンはため息をひとつついてから、優しく、けれどはっきりと告げた。


「ジンスケ様は……ご自分という存在を、まだよくご理解していらっしゃらないのです」


「それが、ジンスケ様の魅力のひとつでもあるのですが……」


静かな言葉は、深く染み入るようだった。


「この世に二人といないような男と出会って……それを自分のものにしようとしない権力者など、絶対にいません。」


「もし女王陛下がジンスケ様をご覧になったなら、間違いなくご自分の傍に置こうとされるでしょう」


「その後、王族の者たちが次々と、ジンスケ様を――」


言葉を濁したが、誰もがその意味を理解した。


「……睦もうとするに決まっています」


ジンスケは目を見開いた。


「……拙者と、そんなに多くの者が?」


アイリーンは、顔を赤らめながら頷いた。


「そうなってしまうでしょうね……。女王、その娘たち、貴族の姫たち……誰もが、ジンスケ様との房事を望むはずです」


広間のあちこちから、深く頷く音が聞こえた。年配の婦人も、若い娘も、その現実を知っているかのように静かに同意している。


ジンスケはようやく悟った。


――自分は、この世界の常識を甘く見ていたのだ。


「うーむ……拙者は事態を軽く見過ぎていたようです。そういうことであれば、アイリーン殿のお申し出通り……町を出て、どこかに身を隠そうと思います」


ジンスケの言葉に、アイリーンは安堵したように頷いた。


「……わかりました。後のことは私たちにお任せください。インフルアには、私の信頼できる知人がいます」


「他国であれば、さすがに王族の手も届かないはずです。ですが……」


言葉を切ったアイリーンは、真剣な面持ちで続けた。


「今度こそ、変装を。男であることは、絶対に隠してくださいね、インフルアでも同じことになりかねませんから」


ジンスケは、深く頭を下げた。


「……かたじけない。お言葉に甘えて、そうさせていただきます」


だが――そのときだった。


帳場の奥から、太い声が響いた。


「……本当に、それでいいのかい?」


広間の空気が凍った。


ジンスケが振り向くと、そこには宿屋の主――ノラが、帳場から鋭い視線をこちらに送っていた。


「本当にお前さんは……いつも呑気だね。自分がいなくなった後のことを、少しは考えたらどうなんだい?」


アイリーンが目で「やめて」と訴えたが、ノラは一歩も引かなかった。


「王族が、あんたを探しにこの町に来る。そして、いるはずのあんたがいない……そうなったら、この町の者が無事にすむとでも思うのかい?」


ジンスケは、息を呑んだ。


ノラは一気にまくし立てた。


「一人一人、徹底的に尋問されるだろうさ。誰が関わっていたか、誰が逃がしたか――洗いざらい調べられる」


「逃がすのに加担していたとわかれば……ただじゃ済まない。拷問だってあるかもしれない」


「……それでも、あんたを逃がそうって言ってるんだよ。この人たちは」


重い沈黙が広間に満ちた。


「それを知ったうえで……本当に、逃げるっていうのかい? ジンスケ」


まるで横っ面を張られたような衝撃だった。


ジンスケは息を止めたまま、周囲を見回した。


アイリーンは、何も言えずに目を伏せている。


他の宿泊者たちも同じだった。


皆が――自分のために、危険を背負おうとしていたのだ。


「……拙者の考えが、浅はかだったようです」


静かに、ジンスケは言った。


「……逃げるのは、やめにします」


アイリーンが、顔を上げた。


「ですがジンスケ様……それでは、あなたが……!」


「我々のことなら、心配には及びません。死罪にまではなりませんから、なんとでも……」


だがジンスケは、首を振った。


「いいえ。これは、結局は拙者自身の問題なのです」


「王国軍の者が来たなら、拙者自身の口から――『王都には行きたくない』と、はっきり伝えましょう」


「それでも、無理に連れて行くと言うなら……その時は、その時です」


アイリーンがノラを睨んだ。「余計なことを」と目で訴えたが、もう遅かった。


ジンスケは一度こうと決めたら、誰が何を言おうと動かない。


その華奢で美しい見た目に反して――いや、だからこそかもしれないが、誰よりも芯が強く、意志が揺るがないことを、この町の誰もが知っていた。



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