三.二〇〇六年四月七日
冬休みが終わって後期の試験日程に入ると、その対策で何かと忙しい日々が続いた。四回生になれば就職活動が本格化するため、取れる単位は出来るだけ取っておくことが望ましい。そう考えると、ここで迂闊に単位を落とすわけにはいかなかった。
就職難の厳しさも、少し前に比べれば若干ましになったとはいえ、決して楽観できるような雰囲気ではなかった。中谷などは試験対策と就職活動の準備を並行して行っていた。その様子を指して、梶は「気が早いのぉ、あいつは」と呆れ気味だったが、就職前線の実態からすれば、中谷の方が真っ当なのだ。まるで無関心の梶の方がおかしい。もっとも、梶の場合は、その鷹揚さに妙な安心感があった。それは、就職出来るだろうというものではなく、どこでも生きていけるだろうという類のものではあったが。綾は卒業したら実家に戻るつもりのようで、就職についての心配はしていなかった。
その意味では、不安なのは市村の方だった。ゼミ合宿の発表の時もそうだったが、就職についてもどうも曖昧なようだった。自分が何をしたいのか、どんな仕事をしたいのかのイメージがはっきりしないらしかった。しかし、そうは言っても刻一刻と時間は経っていくわけだし、出遅れた分だけ当然不利になっていく。はじめから語学を活かした仕事に的を絞っていたみゆきにしてみれば、市村の曖昧さはじれったいことこの上ないらしく、市村への不満の度合いが日に日に高まっているようだった。「各務くんみたいに、大学院に進学しちゃえばいいんよ」と、みゆきはため息混じりに愚痴っていた。
遼一とは、ゼミ合宿以降メールを何度か交わしていた。あの合宿の夜に話を聞いたとき、結衣子は、「煮詰まったら、また電話でもメールでもしてきなよ」と遼一に言ったのだが、結局メールばかりになった。考える時間をとることが出来るからだ。回数は多くはなかった。お互いに元々メールを頻繁に使うタイプではなかったし、それに、遼一が心を寄せる相手の話は、聞きたい話の類ではない。婚約者がいるのに他の男性に惹かれる女性の心理と言われても、結衣子には理解出来なかった。いや、理解出来ない訳ではないと思うのだが、遼一の相手の話となると、どうしても冷静には考え難かった。結婚の約束をして三年間の海外赴任に赴いた相手にも、応えられないのに甘えている遼一にも、裏切りにしか思えない。善い人だからという理由で婚約を破棄出来ないなら、その婚約者を選んでいるということだろう。婚約者には感じないときめきを遼一に感じて、相手にも遼一にも罪悪感を感じているらしかったが、それを遼一に伝えている時点で、逃げて遼一に甘えているとしか結衣子には受け取れなかった。
それに、そんな相手を、そういうこともあるんだろう、と受け入れている遼一のことも歯がゆかった。それは確かに、そういうこともあるのだろう。別に珍しい話ではないだろうし、これが全くの他人の話なら、結衣子もそう思えたはずだった。不安と寂しさで揺れて出来た隙間に別の気持ちが入り込むことが、分からない訳ではない。
だが、その隙間に遼一が甘んじていることが辛かった。
だとしても、仮にも遼一が想いを寄せる相手を露骨に避難することは出来なかった。遼一の表現は相手を思いやったもので、相手を非難すれば遼一も同時に追いつめることになりそうだった。何より、相手を切り捨てれば、遼一とメールを交わす理由が無くなってし
まう。このメールのやりとりは、結衣子にとっては遼一との二人だけの繋がりだった。
手放せなかった。
だから、結衣子からの応えは、その相手の批判はしても、決定的なとどめは刺さないものばかりになった。
遼一は、日々の雑談などにメールを使うタイプではないようだったし、逐一経過報告するようなこともなかった。だから、メールが欲しくなれば、まず結衣子から送らなければならない。でも、メールを送る理由は、その相手との話しかない。しかも、頻繁にメールを送れば、ただの野次馬になってしまう。真摯に応えるからこそ、遼一はメールを返してくるのだ。節度は守らなければならない。でなければ、この二人だけの繋がりは切れてしまう。それが、自分以外の女性を想う内容のものだとしても。
遼一とのメールのやりとりは、結衣子の胸を締め付けるものになった。
三月末の金曜日、約束の時間通りに玄関の呼び鈴が鳴った。ドアホンの受話器を手に取ると、いつものように「来たよー」というみゆきの声が耳に届いた。ドアスコープから外を確認し、チェーンを外して、結衣子はドアを開けた。
「お邪魔しまーす」
「お邪魔します」
みゆきと綾の声に、結衣子は「どうぞ」と応えて、二人を中に招き入れた。
「はい、お土産」
「これ、あたしから」
みゆきと綾が差し出す包みを受け取って、結衣子は、「ま、座って」と二人を座卓へと促した。二人が荷物を置いている間に、包みを開けて中身を確かめてみると、みゆきの手土産は、四角い形でキャラメルより一回り大きい洋菓子だった。色とりどりの詰め合わせで、ゼリーを固めたような、羊羹のような感じだ。初めて見るもので、味の想像がつかなかった。一方、綾の手土産はロールケーキの和菓子版といった風情だったが、スポンジケーキではなさそうな生地で小倉餡が巻いてあった。こちらは二本組で、御進物で使われるものと見受けられた。結衣子は少し首を傾げて、電気ポットで湯を沸かし始めて、棚から日本茶の缶と湯呑みを取り出し、綾の手土産の一つを開けて厚めに切り分けた。
湯の沸いた電気ポットと茶器一式、それに切り分けた和菓子を座卓に運んで、「おまたせ」と言いながら結衣子は席に着いた。そして、急須に湯を注いだ。
「今日は日本茶?」
急須に目を留めたみゆきが、少し身を乗り出した。
「うん。綾のの方がボリュームがあったから、まず先にね」
秒針で時間を見ながら、結衣子は応えた。
「一応、銘菓なんよ。ちょっと多かったけど、余った分は結衣ちゃんが食べて。賞味期限は保つと思うし」
そう言って、綾ははにかんだ。少し申し訳なさそうなのは、合宿のときのことを気にしているからだろう。わざと二本組にして、一つは結衣子へ贈るつもりだったのだ。「うん、ありがと」と言って、結衣子は微笑んで見せた。
合宿の夜、宿へ戻った後で、綾は隙を見て「結衣ちゃん」と、目で首尾を訊いてきた。
結衣子は薄く微笑んで、「好きな人がいるのよ」とだけ、小さく応えた。そのとき、綾は絶句した表情になり、続いて顔を歪めた。言葉は無く、ただ、そっと手を添えただけだった。それ以降、結衣子に対して、綾は何となく申し訳なさそうな気配を出していた。別に、綾は何も悪くないのだが、何かにつけて密かに気を使っているのだ。結衣子はかえって申し訳なかった。
時間を見て、結衣子は茶漉しを使って湯呑みに茶を注ぎ、二人の前に配った。
「いただきまーす」
「いただきます」
みゆきと結衣子が口を揃え、綾が「どおぞ」と応えた。和菓子をフォークで切り取って口に運ぶと、生地は口の中でほろほろと崩れて、餡と溶け合った。しっかりとした甘みがあったが上品で、続けて食べるのには苦にならない。結衣子は続けてもう一口運んだ。
「美味しいねー」
みゆきが風味を楽しみながら声を上げた。結衣子も、「うん、美味しいね」と続けて、綾に微笑んだ。それを見て、綾はほっとしたように、「良かったぁ」と笑った。
「綾のお菓子は美味しいなぁ」
みゆきは上機嫌で和菓子を食べていたが、茶に口を付けたとき、「ん、濃いね、このお茶」と小さく舌を出した。
結衣子は首を傾げて、自分の湯呑みに口をつけてみた。特に濃いとは思わなかった。自分にはちょうど良い感じだ。ということは、どうやら自分好みに煎れてしまったらしい。使った茶葉も濃味になるものだったから、みゆきにはやや重たいかもしれなかった。
「粉茶っていう、鮨屋でよく使うものだから」
結衣子はそう言い訳した。綾が、「ああ、お鮨屋さんのあがりに使われるやつやね」と応え、「さっぱりしてええやん」と続けた。「それもそうね」と言って、みゆきは湯呑みを傾けた。結衣子は、綾に目で礼をした。
「明日から四回生やね」
和菓子をフォークで切りながら、みゆきが話を向けた。
「そおやねぇ」
綾が和菓子を頬張りながら応えた。
「綾は就職活動しないんだよね」
みゆきは綾に話を振って、和菓子を口に運んだ。
「うん。実家に帰って家事手伝いするわ。どこぞの職場でテキパキしよる自分なんて、想像つかんのよ」
歯切れよく言いながら、綾はやや大げさに肩をすくめた。その様子を見て、みゆきは和菓子を味わいながら、「そうかなぁ」と首を傾げた。
結衣子はみゆきと同じ意見だった。合宿の時の手伝いの様子や、日頃の地道な準備周到さを見ていると、むしろどんな職場でも手際よく仕事をさばいていける気がした。この三人の中では、おそらく一番仕事が出来るのは綾だと、結衣子は思っていた。が、綾が実家に戻ることについては、結衣子は反対する気はなかった。綾がそう思っているのを、人が口出しするものではない。それに、勝手なことだが、旅館の彼と一緒に切り盛りする姿を想像すると、悪くはなかった。あの調子ならば、将来は女将として存分に手腕をふるって
いることだろう。瞼の裏に浮かぶそれは、微笑ましい姿だった。
「うん、綾はそれがいいと思う。似合うよ、その仕事」
結衣子は綾に微笑んで、湯呑みに口を付けた。みゆきは「もったいないと思うけどなぁ」と漏らし、綾は「ありがと、結衣ちゃん」と笑みを返した。
「結衣は? もう始めてるんでしょ?」
湯呑みを口にしてから、みゆきは結衣子へ顔を向けた。
「まあね」
結衣子は応えて、和菓子を口へ運んだ。「どんなとこに出してるの?」と、みゆきは湯呑みを置いてフォークを手に取った。和菓子を味わってから、「手当たり次第ね」と苦笑し、結衣子は湯呑みに手を伸ばした。
それは、比喩でも冗談でも無かった。結衣子は、様々な業種に出来るだけ満遍なく応募していた。正直なところ、結衣子は自分がどんな仕事をしたいのか、分かっていなかった。それを見極めることを兼ねて、就職活動に取り組み始めたのだ。もっとも、みゆきのように特にやりたい仕事があるわけでもなかったので、多分、訪れた企業の雰囲気で希望を決めるのだろう、と予感していた。
「ふぅん、そういう決め方もありなんかなぁ」
結衣子がする一通りの話を和菓子を食べながら聞いていたみゆきは、顎を少しあげて上を見ながらそう呟いた。始めから業種を一本に絞っているみゆきには、少ししっくりこないようだった。「ま、そうなのよ」と、結衣子はもう一度苦笑した。
「みゆちゃんは、旅行関係一本やもんねぇ」
綾が湯呑みを両手で包みながら、みゆきに話を振った。
「もち。あたしはそのために英語やってきたんやから」
みゆきは少し胸を張ったが、その胸をすぐさま萎まして、「でも、きついわぁ。就職はやっぱ厳しいね」とぼやいた。
「みゆきでも?」
結衣子には少し意外だった。こと英語に関しては、みゆきは相当な努力をしてきたはずだ。英検も一級を持っているし、TOEFLもTOEICも、確か高得点だったはずだ。
「出来て当たり前なんよ、英語は。それだけじゃダメ」
和菓子をつつき回しながらそう応えて、みゆきは肩をすくめた。「他にも何かウリがないと。何か、こう、上手くアピール出来るネタを見つけんと。あー、何かやっとくんやったかなぁ」と続けて、みゆきは頬杖をついた。
「二人とも、大変やねぇ」
一人進路が確定している綾が、茶を飲みながらのんびりと言った。
「もう、軽く言ってくれるわね」
みゆきが口を尖らせて、綾にフォークの先を向けた。「そんなことないよ」と、綾は真面目な顔を作って応えた。結衣子は声に出さず小さく笑った。
「自営業に就職するんだもんね」
結衣子の言葉に、綾は「そおや」と、深々と頷いてまた湯呑みを傾けた。「そういうこと?」と、みゆきは拍子抜けしたようだったが、「ま、それなら大変か」と言って苦笑した。「そうや」と、綾は再び深く頷いた。
「っていうか、心配なのは尚也よ」
思い出したかのように、みゆきが声を上げた。
「まだ何もしてないの?」
結衣子はみゆきに顔を向けた。「全く、なぁんにも、ね」と、みゆきはやや力を込めた。
どうやら、市村は後期試験が終わった後も、ずっと自分がしたい仕事について悩んでいるらしかった。市村の曖昧な感じがじれったいというのは、みゆきから度々聞いていたので驚きはしなかったが、まだ何もしていないというのには少し驚いた。中谷などは、既にあちこちに飛び回っているらしい。梶が、その様子を「あいつは営業マンか」と皮肉っていたと、少し前に耳にしたところだった。もっとも、翌日から四月になるばかりだから、別に、中谷の如く取り組まなければならないわけでもない。が、それにしても、資料請求も何もしていないのは、ちょっといただけない話に感じられた。一月の頃ならともかく、もうそろそろ始めないと、本当に出遅れたことになってしまう。ここから先は、出遅れた分だけ間違いなく不利になっていくだろう。こうなってくると、みゆきの心配も気の早いものではない。
「さっき結衣が言ってたみたいに、とにかくやり始めて、それから考えたらいいんよ。頭の中だけで考え続けても埒があかんわ」
みゆきは本格的に苛つき始めているようだった。結衣子は、電気ポットから急須に湯を注いで、少し間を空けてから、みゆきの湯呑みに茶を注いだ。
「でも、悩んだ分だけしっかりと形にするじゃない、市村くん」
綾の湯呑みにも茶を注ぎながら、結衣子はこの場にはいない市村に助け船を出した。合宿での発表の時、最後まで曖昧なままだった市村の発表が、結局一番出来が良かった。指導教官も、「今まで受け持ったゼミ生の中でも、一番まとまっているね」と感心した程だった。
「そうかもしれんけど、ちょっと話が違くない?」
少し溜飲が下がったようで、若干声の調子が落ち着いたが、みゆきは口を尖らせたままだった。
「そうやねぇ。期日までに仕上げればいいって話やないからねぇ」
綾が首を傾げて応えた。
「でしょ?」
みゆきが綾の言葉に乗った。
「あんまり、こうじれったいのも、どうかと思うわ。先が不安になるっての」
「先って、みゆちゃん、結婚相手の心配やないんやから」
ぶつぶつ言うみゆきに、綾が呆れ気味に応えた。
湯呑みを持つ結衣子の手に、少し力が入った。
「そりゃそうやけど。でも、心配ばっかりさせられるのは嫌やん、やっぱり。別に男に頼るわけやないけどさ、あんまり振り回されるのもどうかと思わん?」
みゆきは綾へ身を乗り出した。
「それは、まあ、そうやねぇ」
綾はのんびりと相づちを打って、茶を口にした。
結衣子も湯呑みを口に運んだ。薄い。茶の味をあまり感じなかった。
「あんまり心配かけさせられるのもねぇ。そりゃちょっとは不安にもなるってのよ」
そう言って、みゆきは大きくため息を吐いた。
「市村くんのこと、好きなんでしょ」
湯呑みを持ったまま、結衣子は口を挟んだ。
「それは、まあ、そうやけど」
唐突に言われて、みゆきは虚を突かれたように口ごもったが、「でも、あんまり心配ばっかりやったら、こっちの気もさぁ」と小さな声で続けた。
結衣子は、みゆきに目を向けた。
「信じてあげなさいよ」
結衣子の一言に、みゆきは「う」と漏らした。いたずらを叱られた子供のようだった。口調が少し低かったのかもしれない。
「そおやねぇ、信じてあげたらいいんとちゃう?」
綾がのんびりとした口調で言って、「みゆちゃんのお菓子はどんなんやったん?」と結衣子に微笑みかけた。その視線を受けて、結衣子は笑みを返しつつ、「そうね。お茶も変えるね」と、茶器を片づけて席を立った。
キッチンでケトルと小鍋で湯を沸かし始めて、結衣子は棚から紅茶の缶を取り出した。小鍋で先に沸かした湯でポットを温め、頃合いをみてポットの湯を捨てて茶葉を入れた。沸騰したケトルの湯をポットに注ぎ、きっちりと時間を計った。一連の作業を丁寧にするうちに、結衣子の肩から力が抜けていった。カップに紅茶を注いでいるときに、みゆきが「お手洗い借りるねー」と声をかけてきた。「どうぞー」と応えて、その声がいつもの調子だったことに、結衣子はほっとした。
座卓にみゆきの手土産と茶器を運んで腰を下ろした結衣子に、綾が「大丈夫?」と小さく声をかけた。「うん」と応えて、結衣子は微笑んで見せた。綾は、結衣子の目を見ながら、「変なこと、言うてしもた?」と続けた。綾には、遼一に好きな人がいることは伝えてあったが、婚約者がいるとか、それ以外のことは言っていなかった。結衣子は笑みのままで、首を横に振った。「ごめんね」とうなだれる綾の前に、結衣子は紅茶のカップを置いて、「大丈夫よ」と囁いた。
みゆきが戻って席に着いたところで、結衣子はみゆきの前にもカップを配った。
「これはダージリン。結構いいやつだよ。私の手持ちの中では一番かな」
結衣子は柔らかい口調で、みゆきに勧めた。
「あ、美味しい」
紅茶に口をつけたみゆきは明るい声を上げ、「これ、マスカットフレーバーってやつ?」と、結衣子へ振り返った。
「そうね。もっと上手に入れたら、もっといい香りがするんだろうけど」
結衣子は苦笑混じりに応えたが、みゆきは、「ううん、十分美味しいよー」と上機嫌だった。綾も、「うん、美味しいねぇ」と満足げだった。
結衣子は胸をなで下ろして、「これがみゆきのお菓子」と綾に紹介しつつ、「で、これ何?」とみゆきに問いかけた。
「果物のピューレを砂糖で固めたもの。甘いけど、美味しいよ」
みゆきは自信ありげに応えた。「ふぅん。いただくね」と言って結衣子は一つ手に取り、
綾も「いただきます」と言って手を伸ばした。
一口かじってみると、口の中に果物の味が広がった。砂糖で固めたというだけあって甘かったが、果物の風味は濃厚で、引けを取っていなかった。素材をかなり贅沢に使っているのだろう。綾が「美味しいわ、これ」と真剣な口調で呟き、結衣子も「うん、美味しいね」と頷いた。二人の反応を見て、みゆきは「でしょ?」と胸を張った。
「そう言えば、お花見は来月の七日やったっけ?」
洋菓子の余韻を楽しみながら、綾がみゆきに顔を向けた。
「そうそう、今年は六、七、八日が通り抜けになったしね。金曜日なら皆都合がつくでしょ?」
洋菓子を摘みながら、みゆきが応えた。結衣子が紅茶のカップを手に取りながら「いつも、ちょうど桜の見頃にするね」と続けると、「そりゃそうよ、あそこの桜が基準なんやから」と、みゆきが訳知り顔でにやりと笑い、綾が「あ、そうなんや?」と声を上げた。
王子動物園では、桜の季節になると、何日かは閉園してから八時ぐらいまでの間、無料で通り抜けが出来るようになる。園内の道沿いにずらりと並んだ桜がいつも満開で、絶好の夜桜見物となるのだ。あくまで通り抜けなので、座って花見というわけにはいかないのだが、その風情のある催しは例年盛況となった。毎年行っているというみゆきが、皆を誘ったのだ。王子動物園の夜桜通り抜けは知っていたが、桜の開花基準がその園内の桜だというのは、結衣子も知らなかった。
「なら、見頃で当然なんだ」
そう言って、結衣子は紅茶で洋菓子の後味を洗った。「そういうこと」と、みゆきは頷いた。そして、
「それまでにはっきりさせなさいよって、尚也に言ってあんだけどね」
と、市村への不満をまた口にした。
目で問いかける綾に、結衣子はカップで口元を隠し気味にしながら、苦笑で応えた。そして、「そうね。少しははっきりしてもらわないとね」と笑顔でそう言って、結衣子は紅茶に口をつけた。
本当に、笑ってしまいそうだった。
七日の夜七時少し前、待ち合わせ場所のJR王子公園駅前に結衣子が到着したときには、既に中谷、市村、みゆき、綾の姿が見えた。
「結衣、こっちこっち」
みゆきの手招きに応えて、結衣子は足を進めた。
「お待たせ」
「お疲れさま」
一同に加わった結衣子に、綾が笑いかけた。市村も「お疲れさま」と同じく言い、中谷が「各務は現地集合やから、後は梶だけやな」と腕時計に目を走らせた。
梶の姿はまだ無かった。駅へ目を向けると、そこそこの人だかりが出来ては、皆同じ方向へと進んでいた。皆、王子動物園の通り抜けに行くのだろう。この様子では、動物園内はかなりの人混みになっているかもしれなかった。
「まぁ、梶は時間ぎりぎりでしょ」
みゆきが呆れ口調で軽やかに言い、市村が「か、微妙に遅れるか、だね」と笑顔で付け加えた。それを聞いた中谷は「全く」と鼻を鳴らしたが、綾は「そうやねぇ」と、にこにこと笑った。
「今日までに間に合ったの? 市村くん」
みゆきの様子を見た結衣子は、市村に問いかけた。
「ん? ああ、就職の話ね。うん、一応昨日には」
市村は、ややばつの悪そうに、首の後ろに手を回しながら苦笑した。その横で、みゆきが腕を組んで顔を背けたが、その素振りは明るかった。「そう」と言って、結衣子は微笑んだ。
「何、お前もう決まったんか?」
中谷が高い声を上げた。どうやら、就職が決まったと勘違いしたらしい。市村が、「違う違う、どこにアプローチしていくかを決めただけだよ」と、慌てて手を振った。
「何や。脅かすなよ、自分」
そう言って中谷は息を漏らしたが、すぐさま「って、お前まだ決まってなかったんかい」と、市村に突っ込んだ。市村が怯んだ隙間に顔を挟むようにして、みゆきが「そーなんよ、遅いでしょ」と追い打ちをかけ、その上に中谷が、「遅いわ」ともう一つ追い打ちをかけた。畳み込まれて窮する市村の姿に、少し吹き出しそうになった。
「中谷くんは?」
結衣子は中谷に顔を向けた。そして、「もう随分やってるんでしょ?」と、中谷に話を向けた。
「ん? まあな。いくつかはもうすぐ結果が出るわ」
中谷の応えに、「早っ」と市村が反応した。「それって、最終選考の結果?」と、みゆきも意外そうに声を上げた。結衣子も少し驚いた。一次や二次ならともかく、最終的な採用決定がもう出るとは、確かに早い。
「遅いぐらいや。報道系のところは選考が早いんや。実際、最終選考まで行ったところから不採用通知受け取っとるわ」
平然とした表情を見せながら、中谷は鼻で息を吐いた。
「はー」
市村は間の抜けたような声を出した。中谷のハイペースに呆れたのか、就職戦線の厳しさを実感したのか、自分とはかけ離れすぎて実感が湧かないのか、判然としない表情だった。みゆきもやや唖然としていたが、その市村の様子を見て、「ちょっと。あんたもちょっとは見習いなさいよ」と、市村を肘で突いた。そして、「分かった? しっかりしてや」と、市村の顔を睨みつけた。みゆきの視線を浴びた市村は、「うーん」と唸りながら目を泳がせて、手を首の後ろに回した。
「大変やねぇ」
綾ののんびりとした声が場に広がった。市村はその声に拾い上げられたように、「軽く言うね」と、苦笑して綾に顔を向けた。みゆきも綾の方を向いて、「綾は家業を手伝うんやもんね」と肩の力を抜いた。「大野には関係無い話か」と、中谷が軽く肩をすくめた。
「そんなことないで」
綾は、少し憤然としたように胸を張った。その様子に、結衣子は、「自営業に就職するん
だもんね」と、笑みを作って見せた。
「そおや」
と、綾は深々と頷いた。
「お、もう一人関係ない奴が来たわ」
綾の主張をさっくりと流して、中谷が駅の方を顎で指した。振り返ると、駅の階段から吐き出される人混みの中から、梶の姿が現れた。中谷が腕時計を見たので、結衣子も時間を見てみると、七時をほんの少し回ったところだった。「微妙に遅れたね」と囁いて、みゆきが笑った。結衣子も、僅かに吹き出した。
「おう、お待たぁ」
鷹揚にゆっくりと足を進めて近付きながら、梶は手を挙げた。
「遅い」
中谷が短く応えて、みゆきが「遅刻遅刻」と続けた。合流した梶は、「そぉか? 時間通りやん」と首を傾げたが、市村に「微妙に、遅刻なんだよ」と冷やかされて、時計を見た。それから、「細かいな、自分ら」と突っ込み返した。
「時間は過ぎてるやろ。じゃ、行こか」
中谷がさばいて、動物園へ出発した。
もう春になったとはいえ、七時を回れば日は完全に落ちている。雲のない空からは、日の光に代わって煌々と輝く月から、青い光が降り注いでいた。街の光もあり、道行きは明るかった。同じ目的地へと向かう人の群で通りは昼のような雰囲気だったが、昼間とは少しだけ色彩が違う。ほんの少しだけ青色がかった通りを、結衣子たちは進んでいった。
「そう言えばさ、梶はどうすんの? 卒業したら」
歩みを進めながら、みゆきが梶へ声をかけた。
「んん、さあ、どうしようかのぉ」
あっさりと言った。まるで考えていない口調だった。
「どうしよう、ってあんた、就職活動もしてないんでしょうが。どうすんのよ?」
みゆきが呆れたように問いただした。結衣子にも、ちょっと気になる話だった。別に心配なわけではない。どんな環境だろうとも生きていけると思わせるような、そんな安心感が梶にはあった。肉体的にも精神的にも、結衣子が今まで会った人間の中では最もタフなのだ。ただし、その安心感は、たとえ無職宿無しでも飄々としているだろうという類のものだ。そんな感じだから、梶には就職活動はむしろ似つかわしく思えなかった。だとすれば、一年後、梶は何をしているのだろうか。そう言う意味で、少し興味を引かれる話だった。
「そぉやのぉ。ま、その辺でもぶらぶらとしようかのぉ」
のんきそのものの口調で、適当としか思えないことを口にして、梶は歩みを止めた。信号に引っかかったのだ。信号のせいか、梶の台詞のせいか、ややつんのめったようになったみゆきが、「その辺って、あんたね」と突っ込んだ。その横で苦笑していた市村が、「就職するなら、早くしないとマズいよ」と、真面目な顔を作った。
「お前が言うな」
「あんたが言わんの」
即座に、中谷とみゆきの突っ込みが重なった。綾が小さく笑いだし、市村はさらに苦笑
しながら、「そう言わないでよ」と肩をすくめた。梶の笑い声が響いた。結衣子も吹き出しそうになってこらえていたが、信号を見て、「青だよ」と促した。
「おう」
梶が応えて、横断歩道を渡り始めた。そして、
「まあ、別にええやん」
と、梶は笑った。
そのまま人の波に続いて進んでいくと、すぐに動物園までたどり着いた。動物園の入り口からやや外れたところに、遼一の姿があった。
「おぉ、遼ちゃん、お待たぁ」
梶が遼一に向かって手を振った。遼一は小さく手を挙げて応え、こちらへ向かってきた。
「各務くん、お待たせー」
合流した遼一に、みゆきが声をかけた。遼一は「お疲れ」と応えて、入り口に目を向けながら、「にしても、結構な人混みやな」と続けた。
「三日間だけやからね」
みゆきが腰に手を置いた。
動物園の入り口は人混みで賑わっていた。塀の向こう側では、所々で強い光が広がっていた。スポットライトの光でも集まっているのだろうか。まるで、白い光の霧がドーム状に被さっているかのようだった。入り口前の道路沿いには、出店もいくつか立ち並んでいて、動物園というよりは、お祭りか、夜のサーカスといった風情だ。それは、このところの落ち着かない日々とは、別の世界のようだった。
「で、カメラは持ってきたんか?」
中谷が遼一の方を向いた。遼一は、「ああ、持ってきた」と自分の鞄を指して、「夜やからな。何とか撮れそうなフィルムにはしといた」と続けた。「デジカメやないんか」と続けて訊く中谷に、遼一は「んな高いもん買えるか」と応えた。さらに、「フィルムはどれぐらいのやつ?」と中谷の問いかけは続き、遼一が「ISO八〇〇」と応え、「いけるかなぁ」と中谷が首を捻った。遼一は苦笑して、「何とかなるやろ。一六〇〇は高いんだよ」と肩をすくめてから、「あかんかったら、諦めろ」と言った。
何の話か分からない結衣子が首を傾げていると、綾が、
「ISOっていうのの数が大きい方が、暗くても撮れるようになるんよ」と言って、二人の会話を翻訳した。結衣子にはよく分からなかったが、夜の撮影は使い捨てカメラでは難しいのかもしれない。
「まあ、一枚撮ってみようや」
梶が中谷と遼一の間に顔を割り込ませて口を挟み、「おっしゃ、お前等その辺に集まれ」と手で指し示した。「って、撮れてるかどうかは現像してみんと分からんのやぞ」という中谷の突っ込みを、梶は、「やったら、現像してのお楽しみっちゅうこっちゃな」と笑ってさばいた。
「じゃ、なるべく動くなよ」
集まった一同と少し距離をとった遼一は、そう言ってからカメラを構えた。ファインダーを覗きながら、カメラを小さく操作している。そして、「よし、動くなよ」ともう一度繰
り返して、ボタンを押した。
シャッターが切れる音だけがした。フラッシュが光っていない。
「え? 今のでいいの? フラッシュは?」
みゆきが怪訝そうに声を上げた。結衣子も首を傾げた。
「フラッシュ焚いたら、背景が全く写らん」
遼一はそう応えてから、カメラの上の部分に指をかけて、起こした。
「次はフラッシュ焚いて撮っとく。保険やな」
そう言って、今度は手早くシャッターを切った。シャッター音とともに、今度は光が走った。
「ほな、あれか、フラッシュさえ使えば撮れるんやな?」
梶が、近付いてきた遼一に訊いた。
「そうや。背景の桜とかは写らんかもしれんけどな。ただし、あまり離れんなよ。光が届かん」
そう応える遼一と肩を組んで、「ほな、遼ちゃん、その撮り方教えといてぇな。そしたら俺にも撮れるやん」と笑いかけた。そして、「遼ちゃんにカメラマンばっかりさせたら悪いがな」と続けた。
「そうか?」と遼一が口の端を上げて説明し始めようとしたところに、中谷が「待て。おまえに任せたらフィルムが無駄になる。俺が聞いとく」と割り込んだ。「んなことないわい」と口を尖らせる梶を手で制して、遼一は「二人とも聞いとけ」と言って、二人に簡単に説明した。
入園ゲートを通ると、そこは少し広く場がとってあり、その先へ道が延びていた。その道沿いに、満開の桜が立ち並んでいた。
「おお、満開やのぉ」
梶が声を上げた。みゆきが、「うん、今年もよう咲いてるね」と楽しげな声を出した。
さすがに名物、見応えがあった。枝を張り出した桜の木々が、咲き誇る花を幾重にも身にまとい、両脇に連なり続けていくその様は、まるで花であつらえた回廊のようだった。透き通った輝きを放つ月が漂い、空は涼しい黒で敷き詰められ、桜の白桃色を際だたせて美しい彩りを見せていた。「綺麗」と、結衣子は呟いていた。
「よっしゃ、まずここで写真撮ろ」
そう言って、梶は「そこ、そこの桜の前に集まれや」と指示を出した。梶が指し示す場所は、桜並木の道に入る手前の、ややずれたところだった。人通りから少しだけ外れるので、僅かに空間が空いていたが、入れ替わり立ち替わり人が通っていくので、もたついてはいられない。
梶の意図を汲んで、皆で素早く場所を確保し、遼一が手早く写真を数枚撮った。中谷が遼一と代わろうとしたが、それ以上粘るのは難しかった。「またチャンスはあるやろ」と言って、遼一は先に進むように皆に促した。
人の列に加わって道を進み始めると、その夜桜の回廊に結衣子は少し圧倒された。実際に桜に挟まれてみると、静かで穏やかな迫力があった。桜はあくまでただ咲き誇っているだけだが、距離が近く、枝も大きく伸びているので、覆い被さられているような錯覚さえ感じるほどだった。中には、本当に頭上まで桜が覆うところもあり、まるでアーチのようになっていた。人混みが苦手な結衣子には少々息苦しいことは否めないが、歩いている分だけ空間が出来やすく、思っていたよりはましだった。
道を進んでいると、桜の枝に触れようと手を伸ばしている子供たちの姿が前方に見えたが、親に呼ばれたのか、その子たちはすぐに姿を消した。結衣子はそちらの方へ足を向けた。着いてみると、桜の枝はすぐ頭の上にせり出していた。結衣子は、枝にそっと手を添えて、静かに引き寄せた。蘭の類などのように芳香の立つものではないから、香りに包まれるようなことはなかったが、白桃色の花弁の一枚一枚から、その瑞々しさが感じられた。結衣子は、桜の花が放つ密やかな息を、肌で感じていた。
「秋月」
進む方向から、結衣子を呼ぶ声が聞こえた。目を向けると、遼一の姿があった。不意を突かれて、そして無防備な姿を見られた気がして、結衣子はとっさに手を桜から離した。遼一は苦笑していた。顔が火照ってきそうになる気配を感じた。と、遼一が目で結衣子の後ろを指していることに気がついた。ちらりと目を向けると、結衣子を避けて人が進んでいた。慌てて、結衣子は歩き始めた。
「見とれてたな」
並んで歩き始めた遼一が、にやりと笑った。
「うるさい」
目を伏せながら、結衣子は短く言い放った。
「花が好きなんやな」
にやにやと笑いながら、遼一が続けた。
「うるさいな」
繰り返しながら、結衣子は遼一を横目で睨みつけた。
遼一の顔が、思ったよりも近かった。並んで歩いていることに、結衣子はようやく気がついた。混み合っているので、間隔はどうしても狭くなる。第一、今更距離をとろうとするのは不自然だった。また顔が火照ってきそうな気がして、結衣子は目線を前に戻した。
「女の人は、皆そうなんかな」
やや上方に目を向けながら、独り言のように遼一が呟いた。
「多分ね」
結衣子が応えた。落ち着いた口調に、出来た。
「どんな花が、好きなんかな」
夜の空気が肺に刺さった。一瞬、奥歯に少し力が入った。
遼一の想う相手の誕生日が来月に迫っていた。その日には戻ると、婚約者は約束していたそうだった。しかし、まだはっきりとした連絡はなく、延期される気配がしているらしかった。
「人による」
一度口をつぐんでから、結衣子は応えた。
「そか」
遼一は短く応えた。
人混みが少し息苦しい。結衣子は目の前に広がる桜の回廊を見つめた。夜空の澄んだ黒色を背景としたそれは、あくまで白く淡い輝きを放っていた。ただ、先ほどは手を触れた
その輝きが、遠かった。
「秋月は?」
遼一は結衣子へ顔を少し向けた。結衣子は前を見続けた。
「白詰草」
数歩進んでから、結衣子は口を開いた。
「シロツメクサ?」
怪訝そうな声だった。遼一は知らないらしかった。
「クローバーの花のこと。その中でも、白いやつ」
淡々と応えた。
「クローバーって、咲くんか」
遼一の声にはやや驚きが含まれていた。
「咲くんだよ」
もう一度、淡々と応えた。
「綺麗なんか?」
顔を前に戻してから、遼一は問いかけた。結衣子は、薄く笑った。
「どうかな。人による。花束の脇役に使われたりするね」
その花言葉のことは、口にしなかった。
「ふうん」
遼一は、相づちだけ打った。
そのまま、数歩進んだ。言葉は無かった。吐く息が白かった。
結衣子は、息苦しさから逃れるように、夜空へ目を移した。月が静かに漂っていた。太陽のように強い光を放つわけでもないのに、その光は静かに辺りを照らしていて、確かにそこに在るということを月は感じさせていた。その輝きは、降り注ぐというよりも、彼方と此方を繋いでいるかのようだった。まるで誘うような静かな光を放つ月は、確かにそこに在り、そして遙か彼方だった。
「届かないよ」
月に目を留めたまま、結衣子は呟いた。
「ん?」
遼一は、小さく問い返した。
「想い」
結衣子の呟きは、静かだった。
「ん?」
遼一は繰り返した。届かなかったようだった。
「気持ち」
目に月を映した結衣子の口から紡がれた、その小さな言葉は、はっきりと通った。
遼一は応えなかった。結衣子は顎を下げて、少し俯いた。そのまま、二人は緩やかな人の流れに流された。その雑踏の中で、お互いの足音も分からなかった。夜風が、桜の枝を揺すって抜けていった。
「かもな」
遼一が口を開いた。受け入れている声だった。結衣子は応えなかった。
「でも、曖昧にされたままで逃げられたくないんだよ」
そう遼一は続けた。それは、初めて聞く、感情をむき出しにした声だった。その荒い口調には、押さえつけられている強い想いが溢れていた。結衣子の胸の中で何かが軋み、それは奥歯を軋ませた。
「残酷だよ」
息を静かに吐くようにして、結衣子は言葉を運び出した。
「やっぱり、そうか」
遼一も静かに応えて、白い息を、細く吐いた。そして、うっすらと笑った。
私なら、その想いに応えられる、と結衣子は思った。私なら、そんな思いはさせない。苦しませたりしない。私ならいつでも側にいられる。私なら受け止められる。私なら叶えられる。私なら。
言葉にならなかった。何一つ。
月は変わらずに光で世界を満たし続け、桜の回廊は薄い靄のような光をまとって続き、夜空は、ただ黒く透き通っていた。変わらない世界の中で、人の群れだけがさざ波のようにうごめいていた。二人は、その波にゆっくりと、そして緩やかに流されていった。言葉は、もう無かった。
人混みに運ばれていくと、しばらくして道沿いにベンチが設えてあるところが見えてきた。ベンチはいくつか並んでいたが、その中の人影の一つが、こちらへ手を振っていた。結衣子たちが気付くのとほぼ同時に、「おぅい、こっちや」という梶の鷹揚な声が届いてきた。
ベンチでは、皆が一休憩入れていた。「ほい、お疲れさん」と梶が迎え、中谷が「またゆっくりやったな」と顔を向けた。「お前等がとっとと行き過ぎなんやろ」と、遼一が応えた。
「結衣、こっちに座り」
みゆきが荷物をどけながら、結衣子を招いた。頷いて、結衣子は腰を下ろした。一度座ると、体がどっと重くなった。気付いていなかったが、結構歩き疲れたらしい。人混みからも解放されて、結衣子は長く息を吐いた。
「一息入れ」
にこやかに言って、みゆきは暖かい紅茶を差し出した。「そこの自販機で買っといたんよ」と、綾が付け足した。「ありがと」と礼を言って一口含むと、体に入っていた力が緩んだ。結衣子は、胸の奥まで息を吸い込んだ。
「にしても、後から後から人が続くのぉ」
続々と続く人の列を眺めながら、梶がのんびりとした声を上げた。「ほんまやねぇ」と綾が続け、市村が「これじゃ、写真は撮れないね」と肩をすくめた。「せっかくなのにー」と、みゆきが口を尖らせた。
「いや、あの辺やったらいけそうや」
中谷が顎をしゃくって、軽く指さした。中谷の指し示す辺りは、道がマラソンの折り返し地点のようにUターンしているところだった。曲がっているところが少し膨らんでいて、かつ人の流れは内側に寄り気味なため、ちょっと場所が空く感じになっている。確かに、そこなら人の流れの邪魔にならずに済みそうだった。
「お、ええとこ見つけるやん、自分」
のぞき込むようにしてそちらを見た梶が中谷の肩を叩き、「よっしゃ、あそこで写真撮ろ」と一同を促した。
その空いてる場所に集まったところで、遼一が写真を撮る角度を決めた。「じゃ、そこらに立ってくれ」と遼一が指示するところに寄り集まると、遼一は座って、合図をしてフラッシュ無しで数枚、フラッシュ有りで数枚と、手早く撮影した。
「じゃ、次は俺が撮るわ」
結衣子の横にいた中谷が立ち上がった遼一へ歩み寄って、手を差し出した。「いや、俺が撮るって」と梶も足を踏み出したが、即座に「お前には任せられん。フィルムがもったいない」と中谷に切り捨てられた。
「じゃあ、頼む」
苦笑しながら中谷にカメラを預けて歩み出し、中谷に代わって、遼一は結衣子の横に立った。とっさに高鳴った鼓動を、息を潜めて意識をカメラのレンズに集中させて、抑えた。次の瞬間、「撮るで」という中谷の声に続いて、フラッシュの光が走った。
結衣子が遼一と共に写った写真は、その一枚だけだった。