二.二〇〇五年十一月二十六日
次に遼一に会ったのは、夏休み明けて一度目のゼミの日だった。
結衣子が教室に着いて扉を開けた時には、中にまだ遼一の姿は無かった。少し肩に力が入っていた結衣子は、軽く息を吐いて教室に入った。
「おぉ、秋月ちゃん、お久ぁ」
「結衣、久しぶり」
結衣子の姿に気付いた梶が手を挙げ、みゆきが手招きした。結衣子は軽く微笑みながらそちらへ足を進め、「久しぶり」と応えた。
「元気してた?」
座っている綾が、結衣子を見上げながらおっとりと尋ねてきた。結衣子は小さく頷き、「皆は?」と話を向けた。
「おうよ」
梶が一同を代表するかのように、堂々と胸を張った。その様子を見て、市村が「お前に聞いてないよ」と笑い、「いっつも元気そうやもんねー」とみゆきも続けて笑った。
「中谷くんと各務くんは?」
結衣子はなるべく意識しないようにしながら、声を出した。
「まだだね。あいつら、この前に講義取ってるから」
市村が腕を組みながら応えた。その時、教室の後ろの扉が開いた。結衣子の胸が一瞬大きく高鳴った。
「お、言うとったら」
扉の方に向いていた梶が、「おう、こっちやこっちや」と手を挙げた。結衣子の後ろから、足音が二つ近付いてくる。それに合わせて浅くなっていく息を、結衣子は意識して整えて、後ろを見た。中谷と遼一がいた。
「おう、久しぶり」
中谷が言い、遼一が軽く手を挙げた。
「お久ぁ。二人とも元気してた?」
「おう。お前等は?」
梶が陽気に声を上げ、中谷が軽く応えた。「おうよ」と、梶がまた一同を代表するかのように胸を張った。「だから、あんたには聞いてないって」とみゆきが口を出し、「って、何で得意げなんだよ」と市村が笑った。
「元気そうだな」
やり取りを笑いながら見ていた遼一が、綾の方を見ながら声をかけた。綾もにこりとしながら「そうねぇ」と応えた。そのまま、遼一は結衣子へ顔を向けた。
「よっ」
「久しぶり」
遼一の声に、結衣子は応えた。あらかじめ考えてた通りに、喉の上ぐらいを見るようにしながら、簡単に応えた。不自然に目線を外したようには見えなかったはずだし、言葉も噛んだりせずに済んだ。「久しぶり」と言葉を返した遼一の、その声の調子に変化が無かったので、結衣子は密かに胸をなで下ろした。が、その時に目に入った彼の口元が結衣子の目に焼き付いて、続けて言おうと思っていた言葉は、胸の途中でつかえてしまった。途端に心臓の音が大きく響き始め、体が硬くなってきた。
「遼ちゃんは? 調子はどない?」
梶が遼一に話を振った。遼一は梶の方に向き直って、「まあ、ぼちぼちやな。お前ほど元気やないが」と返した。
梶のおかげで会話の流れが上手く切り替わって、結衣子は改めて胸をなで下ろした。心臓の音はまだ耳を突いていたが、体に入った余計な力は抜けて、結衣子は誰にも分からないように小さく息を吐いた。それに合わせるように、教室の前の扉が開いて教官が姿を現した。
「お前等、すぐに帰んなよ、飯でも食おうや」
やや声を抑えて梶は素早く言い渡し、席に着いた。
その日のゼミでしたことは、後期で輪読する文献を選び、発表の順番を決めることと、四回生の卒業論文構想発表の順番を決めることだけだった。
その間、結衣子は上の空で、前に座る遼一の背中を見つめていた。梶のように大柄ではないが、細身の割には肩幅は広い。思っていたよりも、遼一が大きく見えた。それなのに、手を伸ばせば届くところにあるその背中が、何故か遠かった。
大体の割り振りが決まってゼミが終わる前に、教官がゼミ合宿のことを結衣子達三回生に話した。このゼミでは、例年大体十一月ぐらいに合宿をしていて、三回生はその時に卒業論文のテーマについて大まかな構想を発表することにしているらしかった。「三回生の諸君は、簡単でもいいから何か考えておいてください」と、指導教官は締めくくった。
ゼミが終わった後、梶の先導で学食で食事を採ることになった。
「やれやれ、まだ暑っついのぉ」
残暑の厳しさにやや呆れ気味の口振りだが、梶の選んだのはカツ丼定食の大盛りである。とても暑さにまいっているようには見えない。付け合わせの冷や奴が、辛うじて涼を感じさせていた。
「年々暑くなってる気がするねー」
梶に応えながら、みゆきは冷麺に箸をつけた。「だね」と相づちを打つ市村の手元は、焼き肉定食だった。結衣子にしてみれば、その選択も暑さを感じさせるものではなかった。
「お前等、そんながっつり系のもん取ってきといて言う台詞か」
結衣子の考えを代弁するかのように、中谷が梶と市村を指さした。梶はカツを頬張りながら「だって、力つけんともたんやん」と、もごもごと応えた。そして、「そんなんでもつのん?」と、中谷の焼き魚定食を箸で指した。
「十分や」
中谷は呆れながら味噌汁の器を手にした。「うん、十分やねぇ」と綾が頷いた。綾の膳には、ほうれん草のお浸しやら小芋の煮物やら、和食系の小鉢がいくつか並んでいる。それを見た梶は、「うわ、うっすいのぉ」と声を上げ、市村が「ヘルシーだね」と続けた。
「そっちはさらにうっすいのぉ」
一同の膳を見渡した梶が、遼一と結衣子の手元を箸で指しながら突っ込んだ。遼一は結衣子と同じざる蕎麦だった。ただ、結衣子の付け合わせはほうれん草のお浸しと果物だっ
たが、遼一は南瓜の煮物と冷や奴を選んでいた。
「栄養のバランスは悪くないやろ」
遼一は苦笑しながら、箸を手にした。結衣子は「ん」とだけ応えて、同じく箸を取った。
「そんなんやから、お前等細っこいねん。もっとしっかり食って体作らんかい」
大盛りのどんぶりを片手に突っ込み続ける梶を、遼一は「やかましい」と軽くさばいた。綾が「蕎麦と緑黄色野菜に蛋白質やから、アンタよりバランスええよ」と遼一の肩を持って、「結衣ちゃんは蛋白質が足らんねぇ」と付け加えた。結衣子は苦笑して、「気を付けるわ」と綾に返した。
「で、皆どないする? 何かネタ考えてるか?」
箸で焼き魚の身をほぐしていた中谷が、顔を上げて問いかけた。「ネタって何?」と、きょとんとする市村に、中谷は「さっきの話、合宿のや」と続けた。
「んなもん、あらへんわな」
「急に言われてもねぇ」
梶とみゆきが続けて声を上げた。「やな」と、中谷は頷いた。確かに、さっき言われたばかりなのだから、結衣子にも考えは何も浮かばなかった。「まあ、まだ慌てなくてもいいやろ。簡単でええって言ってたしな」と言って、遼一はつけ汁の器を手にした。
結衣子も蕎麦を器に運んでいたが、目は遼一の手元に引きつけられていた。箸を持つ遼一の指は、細くて長かった。男性の手らしく節々がしっかりしていたが、その手は綺麗だった。形の良い爪先が箸を滑らかに操っている。盗み見るようにしていた結衣子は恥ずかしさを感じて、目を伏せて蕎麦を口に運んだ。
「そやそや、んなことより先に学祭があるわ」
梶が空になったどんぶりを置いて声を上げ、代わりに茶を手にしながら、「皆何かせえへんの?」と見渡した。
「無いな」
「無いね」
中谷と市村が続けて応えた。中谷はバスケットボール同好会、市村は無所属だから、二人とも出し物には縁遠いところだろう。「寒いのぉ」と梶は大げさに首を振って残りのメンツに顔を向けたが、みゆきと綾も軽く肩をすくめただけだった。みゆきはESS、綾は報道部に所属しているが、ESSはかなり硬派らしいのでお祭り騒ぎには力を注がないだろうし、綾は腰掛け程度らしかった。
「ま、撮った写真が展示されるかもな」
梶の目線を受けた遼一が、苦笑混じりに応えた。「ああ、遼くんは写真部だっけか」と、中谷が思いだしたように口にした。「えー、そうなん?」とみゆきが身を乗り出し、「そうそう、そうやったねぇ」と綾が頷いた。
結衣子は知らなかった。思わず遼一を見ると、「まあ、一応、な」と、少しばつの悪そうにしながら目を泳がせていた。隙をつかれたようなその仕草に、結衣子は思わず目を細めた。
「見たいな」
結衣子の口が動いた。合わせるように、市村も「見たいねぇ」と声を続け、みゆきも「ねぇ」と口の端を上げた。畳み込まれた遼一は、「お、お前等、来んなよ」と気圧されたように腰を引いた。さっきの背中は遠かったのに、今は近い。結衣子は目を細めて、真っ直ぐ遼一を見つめていた。
「そう言うお前はどうなんや」
一同の視線から逃れるようにして、遼一は梶に顔を向けた。
「ん? 別に無いで」
梶があっけらかんと応えた。梶の所属は多文化研究同好会だが、要するに旅行同好会であり、それも各自が勝手に好きなところへ行ってお互いに土産話を披露するだけらしい。同好会としての予算など有って無きが如しで、出し物をする余裕などさらさら無いとのことだった。「散々人に話を振っといて、それかい」と呆れる中谷に、梶は全く悪びれた様子もなく、「そやから、皆に期待しとったんやないか」と、腕を組んで反り返った。
「威張るなよ」
遼一が苦笑した。
十月の最後の金曜日の午後、約束の時間より少し早くに、来客を告げる呼び鈴が鳴った。手に取ったドアホンの受話器が、みゆきの「来たよー」という声を伝え、ドアスコープで確認した結衣子はチェーンを外して鍵を開けた。
「お邪魔しまーす」
「お邪魔します」
みゆきと綾の声に、結衣子は「どうぞ」と応えて二人を中へ入れた。
「へぇ、綺麗な部屋やねぇ」
部屋の中を見た綾の声に、「うん。もうちょっと可愛くしてもいいと思うけどね」と、みゆきが応えた。綾は初めてだが、みゆきは既に何回か結衣子の部屋を訪れていた。結衣子は軽く肩をすくめつつ、「物が無い方が落ち着くから」と応えた。「すっきりしててええよ」と、綾はにっこりとした。
「結衣、これ今日のお土産ね」
「あ、あたしも持ってきたんよ」
みゆきが手にしていた箱を結衣子に差しだし、綾も続けて鞄の中から紙で包まれた小箱を取り出した。受け取った結衣子は、「ま、座って」と、二人を促した。
二人が荷物を置いて座卓の前に腰を下ろす間に、結衣子はキッチンで二人の手土産を開けてみた。みゆきのは有名どころのケーキで、綾のは高級そうな金平糖だった。一瞬頭を巡らせて、結衣子はケトルを火にかけて棚から紅茶の缶を取り出した。沸いた湯をポットに注いで数分蒸らし、二人分のカップには先に注いで、一式を座卓へと運んだ。
「お待たせ」
カップを二人の前に配ると、みゆきが「今日のお茶は何?」と、結衣子に尋ねた。
「今日の?」
綾が首を傾げたのを見て、みゆきは、「結衣はお菓子に合わせてお茶を淹れるのよ」と微笑んだ。
「アッサムベースのブレンドティー。まずはこれで、次は別のを淹れるよ」
綾に応えながら、結衣子はケーキを座卓の真ん中に置いて座り、自分のカップに紅茶を注いだ。その仕草を見てまた首を傾げる綾に気付いて、結衣子は「濃い目が好きなの」と
説明した。
「さ、お好きなのをどーぞ」
みゆきがケーキを指して二人に勧めた。綾と顔を見合わせると、綾は「結衣ちゃんから選び」と譲った。自分から先に選ぶのは少し苦手だった。結衣子は少し首を傾げた。手を上げて、結衣子はチーズケーキを取った。結衣子がチーズケーキを自分の皿へ運ぶのを待ってから、綾は「じゃあ、どっちにしようかなぁ」とのぞき込み、手元の紅茶に目を移して、ちらりと結衣子を見た。そして、「こっち」と言ってオペラを手にした。オペラは結構濃厚な味わいのチョコレートケーキだ。結衣子はそれに合わせて、手持ちの中から一番味のしっかりした紅茶を淹れていた。残ったフレッシュフルーツのタルトは、「じゃ、あたしはこれね」と、みゆきの元へ行った。
「いただきます」
「どおぞ」
綾と結衣子が口をそろえて言い、みゆきが笑顔で応えた。チーズケーキはスフレタイプのもので、淹れた紅茶には軽やかすぎたが、その上品な味わいは結衣子の好みに合った。「美味しいね」と結衣子が言うと、綾も「美味しいねぇ」と声を合わせて、紅茶を一口含んだ。お菓子とお茶とが一番良い組み合わせになった綾は、満足げに微笑んでいた。みゆきは、そんな二人の様子に満足そうだった。
「この間の学祭、結構楽しかったね」
タルトに乗っていたグレープフルーツをフォークで取りながら、みゆきが話を始めた。
「そうやねぇ。去年はもっと地味やったけど、今年はがんばったんやね」
オペラを口に運んでいた綾が応えて、紅茶のカップを手にした。
学園祭は先週に開催されたのだが、思っていたよりも盛り上がった。前年度もそれなりには盛況だったのだが、今一つ華やかさに欠けた印象があり、人出もそこそこだった記憶がある。例年そんな感じだったので、学園祭は結衣子もあまり気にかけていないイベントだった。しかし、実行委員会が人気上昇中の女性シンガーを呼ぶことに成功したことで動員効果が跳ね上がり、例年に比べて人出が急増したのだ。結果的に全体のテンションも随分と高まって、大学としては大盛況と言って良い盛り上がりを見せて、学園祭はその幕を閉じた。結衣子は、人気のある芸能人の力の大きさを改めて感じたものだった。
「今回は目玉が大きかったもんねー」
みゆきが、感嘆しながらカップを口に運んだ。その女性シンガーのコンサートのことを指しているのだろう。「そうやねぇ、よく呼べたよねぇ」と、オペラを味わっていた綾が頷いた。紅茶を口の中で転がしていた結衣子も、「実行委員会、がんばったね」と続けた。
「まあ、コンサート以外はいつも通りの内容やったんやけどねぇ」
濃厚なチョコレート味を紅茶で洗い流した口で、綾がさらりと学園祭の内容を振り返った。「そうそう、やってることは同じなんだよね」と相づちを打って、みゆきは笑った。それは確かにその通りだった。結衣子も思わず苦笑した。
「でも、写真部の展示に行ったのは初めてやったな」
タルトを口に運びながら、みゆきが思い返すように言った。
チーズケーキをフォークですくっていた結衣子の手が、一瞬止まった。ケーキの欠片にフォークを刺しなおして、結衣子は口へと運んだ。
「あたしも初めてやったわぁ」
カップを手にしたままの綾が応えた。目線は結衣子へ寄越していた。
「あたしも。行ったこと無かったな」
カップの紅茶に目を落としながら結衣子もそう続けて、カップを手に取り、紅茶を口に含んだ。
写真部の展示は出店のような形式ではなく、棟内の部屋で行われるものだった。人出は屋外のコンサート会場周辺に集中していたため、写真部の展示へ訪れる人は少なかったらしく、人はまばらだった。
中では、壁と衝立を利用して部員の撮った作品が展示されていた。最も目の引くところには、どこかのコンテストで入賞した写真が飾られていて、それを中心として上級生の写真から順に並べられていた。腕に覚えのありそうな人のものは、数点続けて掛けてあったりした。
遼一の写真は、窓際の壁に掛けられていた。一枚だけだった。それは、鳥を写したものだった。赤い屋根の端っこにいる鳥が、下をのぞき込んでいた。アップの写真では無いのだが、鳥の留まっている屋根も写真の下に少し写り込んでいるだけなので、その鳥が何を見ているのかは分からなかった。鳥と屋根以外は、雲一つ無い青空が広がっているだけだった。その写真を見たとき、「こんだけかい」と梶が遼一に問いかけ、遼一は「こんだけや」と応えた。梶は、「遼ちゃん、もっとこう、ぱーっとしたもんで勝負しようよぉ」とかぶりを振り、中谷も「うん、他のやつの印象に隠れてしまってるで」と続けた。二人のコメントに無言で肩をすくめる遼一を見た市村は、「でも、シンプルでいいんじゃないかな」と口にして、みゆきがうんうんと頷いた。遼一は「ありがとよ」と苦笑した。
結衣子は写真には詳しくなかったので、正直よく分からなかった。ただ、綺麗だと思った。
「各務くんの写真、悪くなかったけど、ちょっと地味やったね」
みゆきの声で、結衣子は物思いから戻ってきた。
「もうちょっとインパクトのある写真は無かったんかなぁ」
みゆきはそう続けて、タルトを口に運んだ。オペラの残りを食べながら聞いていた綾も、
「そうやねぇ。まあ、他のと比べたら、やっぱ地味やったねぇ」
と合わせて、さらに、「ぱっとせんかったね」と続けた。
「そうかな」
思うよりも早く、結衣子の口が動いていた。結衣子は、カップを手にしたまま止まっていた。自分が発した言葉に、驚いていた。続けて何を言えばいいのか、何をすればいいのか、考えようとしたがそのきっかけがつかめない。頭の中は余計に散り散りになった。
と、視線を感じた。綾が丸い目を細めて、結衣子を見ていた。
「結衣ちゃんは好きなん?」
綾の言葉に、どきりとした。紅茶が揺れないように注意して、結衣子はカップを口元へと運び、目を伏せた。
「そう、ね」
短く応えて、残っていた紅茶を飲み干した。声に、抑揚は、無かった。
「そうね、結衣はシンプルなのが好きやもんね」
みゆきが明るい声で続けた。結衣子は「うん」と頷いてカップを戻した。綾は、結衣子からみゆきへ視線を移して、「そうやねぇ、シンプルで綺麗やったもんねぇ」と笑みを作った。みゆきが「もおう、どっちなんよ」と、そんな綾に向かって口を尖らせたが、綾は「ぱっとはせんかったけど、シンプルで綺麗やったよ」と、しれっと応えてカップを手にした。結衣子は静かに一息吐いて、「お茶を淹れ直すね」と言って席を立った。
キッチンで電気ポットで湯を沸かす傍ら、茶壷と呼ばれる急須と茶海と呼ばれる器、それと茶杯を棚から取り出して、結衣子は茶壷に茶葉を入れた。座卓の方から、みゆきと綾が交わす声が届いていた。結衣子は、一度大きく深呼吸した。お茶の用意は気持ちが落ち着く。体制を立て直すにはちょうどいい。湯が沸いたところで電気ポットと一式をそのまま座卓へ運ぶと、空いた皿とカップは端に寄せられていた。結衣子は茶道具を座卓に置いて、茶壷に湯を注いだ。
「次は何?」
みゆきが少し身を乗り出して、結衣子に顔を向けた。
「烏龍茶。金平糖に合うかと思って」
結衣子は時計の秒針を見ながら、みゆきに応えた。数十秒程で一度茶海に注ぎ切り、茶海から茶杯へと注いで、「どうぞ」と二人に差し出した。
「これ、烏龍茶?」
一口含んだみゆきが、やや意外そうに声を上げた。結衣子は小さく笑って、「鉄観音じゃないから」と応え、金平糖を口に運んだ。結衣子の淹れたのは台湾産の茶葉だが、自動販売機や居酒屋で使われる鉄観音とは違って、軽やかで甘みが感じられるものだ。代わりに渋みが少ないので味の強いお菓子は苦手だが、高級どころの金平糖で、おまけにゆず風味とあったので、ちょうど良いかと思ったのだ。金平糖との組み合わせを試した綾も、「うん、ちょうどええわ。美味しいねぇ」と楽しそうに笑った。
自分も茶を楽しんで、「で、何の話?」と、結衣子は二人を見た。金平糖をつまみながら、みゆきが「うん、合宿の話」と応えた。
後期始めのゼミで指導教官が言っていた合宿は、今月の最後の土日に行われることになっていた。土日が潰れることになるのだが、ゼミが代わりに休講になるだけだった。梶などは「平日にしたらええですやん。僕らの取ってる講義を、ゼミのためってことで欠席扱いにせんようにしてもらいましょおよ」と不平たらたらだったし、中谷も、「休み中にはせんのですか」と異議を申し立てたが、結局、「まあまあ、君たちの交通費は僕が持つから」という指導教官の妥協案で落ちがついた。
ただ、実のところ、そんなに悪い話という訳でもないと結衣子は思っていた。何かしら発表はしなければならないのだが、そんなに真面目にするようなことではないらしく、要するに親睦会である。しかも、今回は綾のつてで、京都嵐山の旅館に安く泊まれることになった。「実家の取引先のつてで、小さいとこなんやけどねぇ」と綾は恥ずかしそうに言っていたが、紅葉の嵐山に格安の宿泊費だけで旅行できると考えれば、決して損な話では無いだろう。実際、ぶつぶつ言っていた梶も、「綾様、いやぁあんたは素晴らしい、後光がまぶしいわっ」と、綾を拝んでいた。
「よく取れたよね」
金平糖を手に取りながら、結衣子は綾に顔を向けた。綾は、「うん、まぁ、ちょっとお願
いしてみたんよ。ついてたねぇ」と苦笑した。綾にしては、少し歯切れが悪いような気がした。結衣子はほんの少しだけ首を傾げたが、金平糖を口に運んで、「で?」とみゆきに話を振った。
「それがねぇ、尚也がね、まだテーマが決まらないとか何とか言ってるのよ」
結衣子へ身を乗り出しながら、みゆきが声を上げた。
「大体でいいから、って話でしょ? そんなに悩むようなことじゃないやん? 取りあえず適当に言っとけばいいのに、何か、こう、もじもじとしてんのよ、これが。で、『どう思う?』って、あたしに聞いてどうすんのっての」
立て板に水を流すように、みゆきの言葉が続いていった。結衣子は相づちを打ちながら、電気ポットから茶壷に湯を注いで、二煎目の茶を皆の茶杯に注いでいった。茶を注がれたみゆきは、「ありがと」と一言挟んで、「優柔不断なところがあんのよね、尚也ったら」と締めくくって茶を一息に飲み干した。
夏休みが終わって後期が始まってから、みゆきは結衣子の部屋を何度か訪れていたが、そのほとんどは市村の話だった。大体こんな感じで愚痴っぽい話だったが、要するにのろけ話の類だ。内容も、まあ大したことでもない。結衣子は内心苦笑しながらも、その様子が微笑ましくて、よく話を聞いていた。
「真剣に考えてるのね。しっかりしてるじゃない」
結衣子はそう微笑んで、金平糖を口にした。「そう言えば聞こえはいいけど」と、みゆきはため息を吐いて、頬杖をついた。結衣子は、「そうだよ」と重ねて言って、茶壷にまた湯を注いだ。
「まぁ、それにしても、はっきりせえへんねぇ、市村くん」
静観していた綾が、にこやかに話に加わった。みゆきが「そうなんよ」とその言葉に乗ると、綾は「悩んでてもねぇ」と続けた。みゆきは、「そうそう」と頷いていたが、その後の「優柔不断やねぇ」という綾の一言に、声が詰まった。結衣子が綾に目を向けると、綾は静かに茶杯を口に運んでいた。
「話を聞いてあげてればいいんだよ」
結衣子は茶海を手にして、みゆきへと向けた。みゆきは茶杯を差し出して、「そお?」と結衣子へ顔を向けた。茶を注ぎながら、「話をしてるうちに、考えがまとまっていくタイプなんだよ、市村くんは」と、結衣子は微笑んでみせた。みゆきは茶杯を両手で持ちながら、「そうかな」と結衣子に目を合わせた。結衣子は頷いて、「お茶が薄くなったかな。別のを淹れようか?」と声をかけた。
「あ、ごめん、あたしこの後約束があったんや。そろそろ行かんと」
時計を見て、みゆきは思い出したように口にした。荷物を手にして席を立ったみゆきと玄関に行き、「またね」と見送ってドアを閉めた。
「綾」
座卓に戻った結衣子は、綾を横目で見た。
「あの子、自分の話ばっかりなんやもん」
綾は肩をすくめた。結衣子が「もう」と一息漏らすと、綾はばつの悪そうに微笑んだ。結衣子は少し呆れながら、茶杯を空けた。
「みゆちゃんは結衣ちゃんのことは聞かんの?」
そう言って、綾がのぞき込むように結衣子の方を見た。結衣子の手が一瞬止まった。茶杯を静かに座卓へと置き、金平糖に手を伸ばして、その小さい粒を摘んだ。「私のこと?」と、抑揚の欠けた言葉が出た。
「結衣ちゃんは、好きな人おらんの?」
視線を結衣子から外さずに、綾は続けた。結衣子は目を合わさずに、金平糖を口に運んで、歯でかみ砕いた。上品な甘さが口の中に広がった。そのまま何度か噛み続けた。それから、綾に顔を向けた。結衣子は肩をすくめて苦笑してみせた。
「私には、縁のない話ね」
「何言うてんの、結衣ちゃん美人やのに」
結衣子の応えに、綾は少し怒ったように頬を膨らませた。
「美人?」
少し高い声が出た。結衣子は、思わず綾の顔をまじまじと見てしまった。その様子に、綾はじれたように身を乗り出した。
「だって、色白で綺麗な黒髪やし、細面で切れ長の目で、背も高くてスタイルもええやんか」
綾にしてはやや早口で畳み込んだ。言ってから、やや意外そうに、「もしかして、全くそう思ってへんの?」と小首を傾げた。
全く思ってなかった。肌が弱いので日焼けしないようにしていただけで、特に色白だとは思っていなかったし、太い髪は言うことを聞かないので毎朝手こずる相手だった。自分のきつい目元は好きになれなかったし、体型も少し背丈があるだけで、かえってボディラインの貧相さが際だっているようにしか思えない。
「綾、美人っていうのは、みゆきみたいなのを言うのよ」
あまりにも想定外のことを言われたためか、結衣子の口調はやや諭すようなものになってしまった。
「いや、確かに、みゆちゃんは美人や。それはその通りやけどね、」
なお反論をしようとしていた綾は、そこで言葉を切った。そのまま難しそうな顔を少ししていたが、結局頬杖をついて大きなため息を吐いた。
「その感じやと、本当に思ってないんやねぇ」
綾は呆れたように言った。
結衣子にしてみれば、綾が何のことを言っているのかさっぱり分からなかった。まるで子供に横断歩道の渡り方を話すかのような調子で、「だって、そうでしょ?」と結衣子が続けると、綾はくすくすと笑いだした。
「うんうん、分かった分かった。そん通りやねぇ」
後ろに手をつけて体を傾けながら、今度は綾があやすように応えた。それから改めて結衣子へ顔を向けて、
「でもね、結衣ちゃんも素敵なんよ。もっと積極的に行ったら、きっと応えてもらえるんよ」
と、にっこりと微笑んだ。
結衣子は茶杯を手に取った。が、先ほど飲み干したので空である。結衣子は空の器に目線を落としながら、それを揺らしていた。綾は無言だったが、結衣子の方を向いたままの
ようだ。彼女からの視線が感じられる。どうにも、旗色が悪い。
「そっちはどうなの?」
手を止めて、結衣子は綾に目を向けた。「そう言う綾はどうなのかな」と言って、結衣子は首を少し傾けて口の端を上げてみせた。
「あたしの話はええんよ」
綾は、ふいっと顔を逸らした。
「何言ってんの」
茶杯を置いて、結衣子は少しだけ身を乗り出した。
十一月二十六日の土曜日、結衣子が塾講師のバイトを終えて塾を後にしたところで時計を見ると、時間は四時を過ぎていた。塾の控え室で化粧直しをしているところを、塾の生徒に見つかって捕まったのだ。思春期の女の子は目ざといものだ。荷物を肩に掛け直して、結衣子は駅へと足を速めた。
ゼミ合宿の集合は、昼の一時に阪急嵐山駅ということになっていた。集まったらまず嵐山の観光をして、三時に宿にチェックインする段取りだった。ゼミは三時半からの予定になっていたので、多少押したとしても、もう始まっているはずだった。
合宿は二十六日、二十七日の土日開催と決まったのだが、あいにく土曜日は午後から夜まで、結衣子は塾講師と家庭教師のバイトで埋まっていた。結衣子にとっては土曜日は稼ぎどころで、そうそう空けることは出来ない。特に塾講師の方は受験生も受け持っていたので、尚更だった。そこで、夕方からの家庭教師の方を何とか調整し、合宿には遅れて参加する形にしたのだ。嵐山の旅館に安く泊まれるとはいえ、場所が場所だけに一万円は超えた。朝食夕食込みなのだから格安には違いないが、家庭教師での賃金を手放すとなると、差し引きで割安感が大幅に減少してしまう。家庭教師先に臨時の日程変更を相談して、快く応じてもらえたとき、結衣子はほっと胸をなで下ろしたものだった。日頃きっちりとしていたことが幸いしたのだろう。
梅田行き特急から京都河原町行き特急へと乗り継いだが、両方とも座席は埋まっていて座ることは出来なかった。塾講師は立ち仕事なので座って一休みしたかったが、特急列車で座れることはあまり無い。列車に揺られながら、結衣子は車窓に映る景色で気を紛らわせていた。春には線路沿いの桜並木が車窓を彩る場面もあるのだが、窓の外を次々と横切っていくのは、葉を落とした木々が多かった。その代わり、遠くの山々へ目を向けると、所々で赤や黄色に色づいている。日が傾きつつある夕暮れ近くの空には雲も少なく、華やかではないにしても落ち着いた彩りをみせていた。日が沈むにつれて移り変わっていくその遠景を、結衣子は見ていた。
阪急嵐山駅に着いたときには、日もかなり暮れていた。駅のホームに降りて時間を確認すると、六時近くだった。遅れて参加することになったときに大体六時ぐらいになるとは言ってあったので、ほぼ予想通りだ。改札を出たところで、綾が迎えにきてくれているはずだった。人を待たせることにはならずに済んだはずだ。一安心した結衣子は荷物を掛け直して、改札へと向かった。
が、改札機の手前でその向こうへ目を向けたとき、結衣子の足が固まった。手も、財布から切符を取り出そうとしたままで止まっている。息も止まった。結衣子の横を通り過ぎ
た人が、改札機を通っていく。
向こうに立っていたのは、遼一だった。
心臓の動きがいきなり速くなった。ここで遼一に会うつもりはなかった。心構えが出来ていない。自分の鼓動が耳につくばかりで、まるで手も足も動き方を忘れたようだ。
と、改札の向こうで遼一が手を挙げた。向こうも結衣子の姿に気付いている。結衣子は、とっさに背を向けて、財布から切符を探すフリをした。目を閉じて、静かに、深く息を吸った。細く息を吐いて、目を開けた。そして、ゆっくりと切符を取り出して、振り返って改札機へと踏み出した。
「よ。お疲れさん」
「ありがと」
改札機を通り抜けて来た結衣子に遼一が声をかけ、結衣子が短く応えた。結衣子は辺りを軽く見渡しながら、「綾は?」と遼一に問いかけた。
「ああ、大野は旅館の手伝いをするとか言ってたな。迎えにいく約束だったから、代わりに行ってくれってさ」
応えながら、遼一は肩をすくめた。
「そう」
遼一から顔をそらしたまま、結衣子は相づちを打った。多分、綾は始めからそうするつもりだったのだろう。それにしても、唐突にこんなシチュエーションを作られても、どうしようもない。というか、むしろ何も出来ない。目も見られない。表情に出ないようにするだけで精一杯だった。相手に聞こえるはずもないのに、早鐘のような自分の心臓の音ばかりが気になった。
「うら若き美女に、夜道を一人歩きさせるわけにいかんし」
耳に飛び込んできた言葉に、結衣子の心臓が真っ先に反応した。不意打ちの連続に、まるでパニックを起こしているかのようだ。顔をそらしたままで、また動けなくなってしまった。
「と、大野が言っとった」
遼一の言葉がそう続いた。結衣子の肩から力が抜けた。思わず、鼻で息を吐いた。遼一の方に顔を向けて、「行こっか」と結衣子は口の端を上げた。「おう、こっちや」と、遼一は応えて歩き始めた。
あの子、人のことをダシにして楽しんでるわね。
少し踵を鳴らしながら、結衣子は遼一の後に続いた。
少し歩いて宿に着くと、玄関先で綾が二人を迎えた。
「結衣ちゃんお疲れさま。各務くんご苦労さまやったねぇ」
綾はゆっくりとそう言って、にっこりと笑った。
「おう。皆は? もう飯始まったんか?」
「うん、ちょっと前に始めたよ。はよ行き」
遼一の問いかけに応えて、綾は遼一を促した。そして、「結衣ちゃんは、まず荷物を置きに行こか」と、結衣子に顔を向けた。結衣子は頷きつつ、一瞬眉を寄せて綾に目を合わせた。綾は、涼しい顔で受け流した。
「じゃあ、先に行ってるで」
顔を向けた遼一に、綾は「そうしぃ」と応えて、結衣子は頷いた。遼一の姿が通路の向こうへ消えたところで、結衣子は「綾」と、改めて横目で視線を投げつけた。「お手伝いしててんもん」と、綾はあくまで涼しい顔をしていた。
荷物を置いた結衣子は、宴会場となっている広間に向かった。入る前に、一度息を整えた。ふすまを開けると、中は既に打ち解けた雰囲気になっていた。
「おおぉ、来おったなぁ」
「結衣、こっちこっち」
梶が手を挙げて、みゆきが手招きした。結衣子は、みゆきの横に空けてあった席に向かった。
「遅れてごめん」
「何言うてんの、長旅お疲れさま」
腰を下ろしながら結衣子がかけた言葉に、みゆきは笑いながら応えた。
「バイトの方は大丈夫やったんか?」
中谷がビールを飲む手を止めて、結衣子に声をかけた。「大丈夫」と応えた結衣子は、遼一に顔を向けて、「さっきはありがと」と微笑んでみせた。遼一は、「おう」と、刺身を食べながら応えた。
結衣子が席に着くのを待っていたかのように、ふすまの向こうから綾がお盆を持って現れた。
「遠いところお疲れさま。とりあえず一息入れ」
そう言いながら、綾は結衣子の膳に烏龍茶のグラスを置いた。どうやら、本当に手伝いをしているらしかった。
「何ぁんや、そらぁ。駆けつけ一杯とちゃあうんかい」
烏龍茶のグラスを見て、梶が口を尖らせた。口調が少し怪しい。既に酔いが回り始めている気配だが、そこそこ酒に強い梶にしては珍しい。
「やかまし。あんたやないんやから。あんたはこれでも飲んどき」
梶の絡みをさばきながら、綾は梶の膳にあった空のグラスを引き上げ、ビールのグラスを代わりに置いた。他のグラスよりも一回り大きめだ。「おお、ここのビールは旨いのぉ。何や、こう、カッとくるわ」と、梶は上機嫌にグラスを取った。結衣子はみゆきをちらりと見た。目の問いかけを受けたみゆきも、「まだ二杯目よ」と怪訝な顔をしていた。結衣子は小首を傾げたが、取りあえず烏龍茶で喉を潤して、箸を手に取った。
食事を進めているうちに、結衣子は本格的に首を傾げていった。珍しい光景だった。あの梶が、大きめのグラスとはいえビール三杯で完全に酔っぱらったのだ。普段ならジョッキ三杯でもまだまだ序の口だ。そのうち、梶は船を漕ぎ始めてしまった。
「どうしたの、これ?」
梶の様子に、市村は不思議そうに首を捻った。遼一も、「空きっ腹で回りが早かったのか?」と首を傾げていた。デザートのフルーツを配り終えた綾が、その様子を目に留めた。
「こんなところで潰れられても困るわぁ。中谷くん、これ部屋に連れてってくれん?」
梶の様子を確認した綾は、中谷に向かって声をかけた。
「そやな。ほれ、梶、部屋に行くぞ」
中谷に頬を軽く叩かれた梶は、「ぉお、そんな時間かぁあ」とふらふらと立ち上がった。そして、綾に先導され、中谷に肩を借りながら、ふすまの向こうへと姿を消した。
少し気になった結衣子は、続いて広間を出た。中谷は大柄な方では無かったが、さすがにスポーツ系に所属するだけあって、梶を支える姿に不安は無かった。結衣子は軽く息を吐いて、綾と一緒に二人を見送った。
そのとき、小柄な男性が綾の側に近寄って、「あの人、大丈夫?」と小さな声で訊いた。服装からして宿の人に違いないが、親しげだった。綾は「大丈夫大丈夫」と、のんびりと応えたが、男性は「あれで良かったん?」と心配そうだった。
その一言が引っかかった結衣子は、二人の方に向き直った。結衣子に少し怯んだ様子の男性を、綾が「これ、うちの幼なじみなんよ」と紹介した。
「あ」
思わず口から一言漏れてしまったが、すぐさま結衣子は「はじめまして。秋月結衣子です」と挨拶した。男性は、「小暮正樹といいます」と慌てて頭を下げた。
先日、綾が部屋に遊びに来たときに言っていた幼なじみという男性が、彼だ。お互いの実家が長い付き合いとのことだった。少し気弱そうではあるが、とても素直そうだ。綾が主導権を握る姿が目に浮かぶようで、結衣子の心が弾んだ。
「で、あれで良かった、って何?」
気持ちを少し引き締めるようにして、改めて結衣子は綾に尋ねた。綾は、いたずらをした子供のように、少し恥じらった。
「梶のビールには、ジンをちょっと混ぜとったんよ」
「ジン?」
蒸留酒だ。アルコール度数四十度はある。一体どれほど混ぜたのかは知らないが、ビールのつもりで飲んでいれば回るのは予想外に速いことだろう。空腹なら尚更だ。大体、酒を混ぜ合わせるのは体に良くないはずだ。
「ちゃんぽんしたのね?」
結衣子の目元がきつくなった。小暮は怯んだが、綾は平然としていた。
「量はちゃんと加減しといたし。知らん? ドッグズ・ノーズっていう、れっきとしたカクテルなんよ」
事も無げに言ってのけてから、綾は腕を組んだ。そして鼻を鳴らして、
「梶にいつもの調子で飲まれたら、割に合わんわ」
と続けた。堂に入った姿だった。飲み助の常連客をさばく小料理屋の女将などは、もしかしたらこんな感じなのだろうか。頼もしいことこの上ないのだが、正直なところ、その、ちょっと怖かった。
「怖い女」
呆れた口調にしながら、結衣子は本音を言葉にした。綾は恥じらいながら微笑んだ。誉め言葉と受け取ったらしい。ほんの少しだけ、小暮が気の毒に思えた。
綾と結衣子が戻ると、みゆきが「大丈夫そう?」と、二人に声をかけた。結衣子の視線を受けた綾が、「大丈夫や、心配いらんよ」と、手をひらひらと振った。そして広間の様子に目を走らせて、「それより、もうそろそろお開きやねぇ」と続けた。
確かに、そんな気配が漂っていた。四回生達の席に目を向けると、そちらも既に退場し
た人がいるらしく、四回生二人と指導教官の三人で話し込んでいた。市村が、「ほんとだね」と呟いた。
「みゆちゃんと市村くんは、部屋で飲み直したら?」
綾がみゆきに囁いた。
「部屋って、空いてるの?」
「うちらの部屋使うたらええやん。あたしはまだ手伝い残っとるし」
みゆきと綾の小さな声が飛び交った。ひそひそ話の風体だが、人混みの中でもなければ音楽がかかっているわけでもない。声は小さくても会話は筒抜けだ。市村は気恥ずかしそうに顔を逸らして苦笑していたし、遼一は笑いをかみ殺していた。
「って、じゃあ結衣はどうすんのよ」
全くだ。みゆきの一言に、結衣子は目をつむって頷いた。「そおねぇ」と結衣子を横目で見て、綾がにやりと笑った。
「なぁ、各務くん、渡月橋の辺りでも結衣ちゃんを案内してあげてくれへんかな? もう夜やし暗いけど、それはそれで風情があるし」
「綾?」
結衣子は思わず振り返った。
「だって、結衣ちゃん遅れてきたし、嵐山観光全くしてへんやん。明日してもええけど、せっかくやしねぇ」
唖然とする結衣子をよそに、綾はさらりと言ってのけた。そして、結衣子に向けてにっこりと笑った。
謀られた。
気がついたときには遅かった。誤魔化す言葉も、逃げる口実も、とっさには思い浮かばなかった。
駅から宿までの間は、ゼミの様子などを尋ねて何とか誤魔化せた。話を振って、遼一の応えを聞くフリをすることで、下手な沈黙を作らないで済ますことが出来たのだ。だが、次は自信が無かった。上手く話題をつなぐ自信が、いや、話題を失ったときの自分に自信が無かった。
「じゃあ、秋月、ちょっとその辺でも歩こか」
苦笑しながら、遼一が立ち上がった。みゆきは、無言で結衣子に手を合わせていた。遼一がふすまを開けて広間の外に出ても、結衣子は立ちすくんだままだった。そんな結衣子の側に、綾が身を寄せた。
「頑張り」
本当に小さく、結衣子の耳だけに届くように囁いて、綾は結衣子の背中をそっと押した。
宿の玄関を出ると、静かな夜の空気が二人を迎えた。既に冬の気配を含む夜風が、指すような冷気を運んできた。
「冷えるな」
ポケットに手を入れつつ、遼一は肩をすくめた。
「そうね」
そう応えて、結衣子はコートの襟元を合わせた。
「行こか」
遼一は顔を向けた。
「うん」
結衣子は頷いた。
遼一は歩き始めた。結衣子は、半歩だけ遅れて遼一の横に並んだ。真横に並ぶと、表情を読まれるような気がした。遼一は結衣子の方にほんの少しだけ顔を向け、歩調を若干落とした。結衣子も合わせて歩調を落とした。心臓はランニングでもしているかのようだったので、その方が助かった。二人は、ゆっくりと足を進めた。
「大野も、あいつらに随分と気を利かすなぁ」
遼一が苦笑混じりに口にした。
「そうね」
結衣子は短く応えた。
「ま、秋月はそれでとばっちりを食らったけどな」
応えかけて、結衣子は口をつぐんだ。否定しそうになったのだ。迂闊に口を開けば、後に引けなくなってしまいそうだった。
「まぁ、大目に見ようや」
遼一の口調は、やや申し訳なさそうだった。結衣子が押し黙っているので、どうやら機嫌を損ねていると取られたらしい。とっさに口が開いたが、言葉は出なかった。結衣子は、目を閉じて息を吸った。冷たい空気が胸に落ちた。
「気にしてないよ」
ようやく、一言出た。無愛想過ぎた気がした。でも、言葉が思い浮かばない。遼一は、「そか」と応えた。
遼一と結衣子は同じ歩調で歩いた。時折、夜風が二人を撫でていった。草むらのどこからか、虫の鳴き声が聞こえた。一回、二回と、虫の音色だけが耳に届いた。
「写真、あれだけだったの?」
結衣子の口がようやく動いた。それから、「学祭のときの」と付け加えた。どうも、言葉が上手く紡げない。
「ああ、あれな。他にもあったんやけどな」
遼一の細い顎に、長い指が添われるのが見えた。結衣子は足下に目を落とした。
「俺は、あれが一番気に入ってたんや」
遼一はそう続けて、苦笑した。
「ま、ウケは良くなかったけどな」
「そんなことないよ」
遼一の自嘲に即座に応えたが、結衣子はそこでまた口をつぐんだ。「私は好き」と言いかけて、その単語に怯んだ。結衣子は、顎を引いて肩をすぼめた。
「ありがとよ」
押し黙る結衣子に、遼一が呟いた。結衣子は応えられなかった。
また、虫の音色だけが何度か耳に届いた。結衣子の頭の中で、散り散りの言葉が浮かんでは、泡のように消えていった。結衣子は、足下の歩道ばかり見ていた。
「見えてきたな」
遼一の声に、結衣子は顔を上げた。道の先、向こうに橋の姿が見えた。そのまま少し歩みを進めると、川沿いに出た。視界が広がり、山々を背景とした長い橋の姿がそこにあった。
「ん、これはこれで風情があるな、確かに」
遼一が感心したかのように口にした。確かに、その通りだった。夜の闇で見えないだろうと思っていたが、電灯で照らされて、むしろ煌びやかな光景が広がっていた。闇の中に広がる色彩の競演、華やぐ紅葉、煌めく水面。煌々と輝く月と相まって、絵画の中にいるかのようだった。
「きれい」
結衣子は呟いた。
「ん」
遼一は小さく応えた。
水のせせらぎの音に、虫の音が何度か織り重なった。夜風が数回、間を空けて吹き抜けていった。穏やかな世界だった。
「ねえ」
結衣子の口が自然と動いた。遼一が顔を向けた。綾の「頑張り」という言葉と、背中を押された感触が思い出された。結衣子は遼一に顔を向けた。逆光で、表情が少し分かりにくかった。どこかで、虫が音色を奏でた。夜風が二人を撫でていった。そして、虫の音も風も、止まった。
聞き慣れた電子音が鳴り響いた。結衣子が言葉を放つよりも早かった。「あ」と短く漏らして、遼一は携帯を取り出した。
「ん」
目で伺う遼一に、結衣子は出るように促した。遼一は片手で謝り、背を向けて携帯の呼び出しに応えた。
「うん。今? 友達といるとこ。そう、合宿で」
心が閉じた。結衣子は、目を逸らした。向きを変えて、川沿いへ足を進めた。目を落とした川面は、流れが遅いためか、月の姿が辛うじて崩れずに映っていた。今にも壊れそうなその姿だけを、ただ見つめ続けた。
「そんなこと無いって。俺は好きでやってるんやから」
遼一の声が耳に障った。川面の月は揺らめいたままだ。その姿が散ることを、結衣子は願った。
「うん、うん、じゃ、明日ね」
遼一の電話が終わった。結局、月は砕け散らなかった。遼一のため息が聞こえた。それから、遼一は結衣子に近付き、「悪い、秋月」と声をかけた。
「大丈夫?」
自分の口から出た言葉は、まるで他人の声のようだった。
「ん、まあ、な」
遼一が言葉を濁した。
結衣子は、顔だけ遼一の方に向けた。
「話を聞くぐらい、出来るよ」
他人の声で続けて、結衣子は微笑んで見せた。
夜の闇のおかげで、遼一には、結衣子の目の色までは伝わらなかった。




