第一章 建国王の道
激務明けの冷めたおにぎりと、理不尽な女神の小豆ジャージ
東吾妻の人生の幕引きは、あまりにも唐突で、そしてひどく安っぽかった。
郊外の大型ホームセンターにおける「副店長兼・現場出張便利屋サービス主任」という肩書は、要するに「クレーム処理からセメント袋の荷下ろしまで全てをこなす奴隷」の同義語である。人手不足の店舗をワンオペに近い状態で回し、クレーマーに頭を下げ続け、深夜の棚卸しを終えてボロアパートに帰り着いたのは午前三時のことだった。
疲れ果てた彼の目の前には、深夜のコンビニで買った冷え切った豚骨ラーメンと、半額シールの貼られた焼きおにぎりがある。
電子レンジで温める気力すらない。泥のように重い身体を引きずり、せめてこのジャンクな塩分と炭水化物で胃袋を満たして眠りたい。
(明日は早番……シフト、回るのか……?)
そんなことを考えながら、割り箸をパキッと割った瞬間だった。
ドクン、と。
心臓がかつてないほどの巨大な警鐘を鳴らし、そのまま吾妻の意識は、冷たい暗闇の底へとブラックアウトしたのだった。
❖❖❖
「あー、はいはい。過労による心不全ね。最近のニホンジン、マジで働きすぎじゃない? もっと有給とか使えばいいのにさー」
気がつくと、吾妻は四畳半ほどの和室に敷かれた、毛玉だらけのコタツの前に正座させられていた。
目の前には、息を呑むほど美しい銀髪と、神秘的な紫の瞳を持つ絶世の美女が座っている。
ただし、彼女は絶望的にダサい小豆色のジャージ(上下)を着込み、足元には健康サンダルを引っかけ、片手で缶ビールをあおりながら器用にみかんの皮を剥いていた。
「……えっと、どちら様でしょうか。ここは病院の待合室か何かで?」
染み付いた接客モードの愛想笑いを浮かべながら尋ねる吾妻に、ジャージの美女はみかんを口に放り込みながら鼻をほじった。
「病院っていうか、魂のハローワーク? 私、大宇宙管理局の第3種惑星創造神格公務員、女神ルチアナ。あんた死んだのよ。で、今から私の管理してる『アナステシア』って世界に転生させてあげるわけ」
(……なんだこのだらしない上層部は。クレーム対応の窓口に絶対立たせちゃいけないタイプだぞ)
吾妻の内心のツッコミをよそに、女神ルチアナは手元のタブレット端末(裏面に『推し命』のステッカーが貼られている)をスワイプした。
「普通ならここでチートな聖剣とか、最強の魔法とかあげるんだけどね。ごめん、今月ウチの『奇跡予算』が完全に底を突いちゃっててさ。ちょっと月人君のドームツアーのVIP席に神素突っ込みすぎちゃって……あ、こっちの話ね」
「あの、つまり?」
「あんたに回せる予算、ゼロなのよ。だから、これあげる」
ルチアナが指を鳴らすと、吾妻の脳内に『生活改善カタログ(デイリー・ストック)』という文字列が浮かび上がった。
「生活改善……カタログ?」
「あんたの記憶から引っ張ってきた、身近な日用品とか消耗品を取り出せるだけの、まあ控えめに言ってハズレ能力ね。でもさ、使い方次第で英雄にもなれるから! たぶん! じゃ、あとの人生は自己責任でよろしくー!」
「は? ちょっと待って、俺まだ焼きおにぎりを――」
「はいドナドナー!」
ルチアナがコタツの上からぺしっと手を振った瞬間、吾妻の足元の畳が消失し、彼は真っ逆さまに虚空へと放り出された。
❖❖❖
生ぬるい風と、むせ返るような土と緑の匂い。
ドサッ、と湿った腐葉土の上に落下した吾妻は、全身の痛みでむせ返った。周囲は完全に日が落ちた深い森の中。街灯一つなく、木々の隙間から見たこともない巨大な月が二つ、不気味な光を放っている。
『ピンポンパンポーン♪』
突如、脳内にスーパーの特売を知らせるような、底抜けに明るい電子音声が響き渡った。
『初期設定が完了しました。現在のカタログ・ポイント(CP)は50です。なお、ルチアナ様の今月の推し活決済額が上限に達したため、現在リボ払いへの移行を激推し中でーす♪』
(なんで神様の金融危機を俺に通知してくるんだよ!?)
あまりの緊張感のなさに頭を抱えつつ、吾妻は『カタログ』と念じてみた。
すると視界の空中に、前世のホームセンターで使っていた発注用ハンディターミナルと全く同じ画面が浮かび上がった。そこには「ポケットティッシュ(1CP)」「ラップ(3CP)」など、見慣れた商品がずらりと並んでいる。
試しに吾妻は、画面の中から『徳用マッチ箱』を選択した。
ポスッ、と軽い音を立てて、1CPを消費した手のひらに、見慣れた紙箱のマッチが実体化した。
(……本当に日用品しか出ないのか。剣も魔法もなしで、どうやって生き延びろって言うんだ)
グルルルルル……。
絶望に浸る間もなく、背後の茂みが大きく揺れた。
振り返った吾妻の心臓が跳ね上がる。そこには、体長三メートルはあろうかという巨大な漆黒の狼が、よだれを垂らしながら剥き出しの牙を光らせていた。
異世界アナステシアにおける魔獣。その脚力は時速八十キロを超え、鋼の顎は人間の骨など小枝のように噛み砕く。
逃げられるわけがない。足がすくみ、ホームセンターの制服を着ただけの生身の吾妻は、ただその圧倒的な暴力の前に立ち尽くすことしかできなかった。
狼が、低い姿勢から後脚の筋肉を弾かせ、吾妻の喉笛に向かって跳躍する。
そのコンマ数秒の間に、吾妻は己の手札を見渡した。
(何か……何か、この状況をひっくり返せる現場の知恵はないか……!)
吾妻はカタログを開き、ある消耗品に目をつけた。消費ポイントは3CP。
――ガチッ、シュボッ。
左手で徳用マッチを擦り、火を灯す。そして右手に出現させた『携帯用ハッカ油スプレー』のノズルを、襲いかかってくる狼の顔面に向けて、燃えるマッチ越しに力強く押し込んだ。
ボウッッッ!!
強烈なミントの刺激臭とともに、気化したハッカ油が炎を巻き込み、吾妻の目の前で凄まじい火炎放射となって炸裂した。
「ギャンッ!? キャウウウウウウンッ!!」
人間ですらむせ返る強烈なハッカの原液成分は、人間の数千倍から数万倍とも言われる野生動物の嗅覚粘膜に、致死的な劇痛をもたらす。そこに引火した炎が加わったことで、巨大な狼は「上位の火炎竜の毒ブレスを浴びた」と錯覚し、目を白黒させながら悲鳴を上げて森の奥へと一目散に逃げ出していった。
「……たかだか四百円の虫除けスプレーだ。出直してこい、クソ野郎」
震える膝を必死に堪えながら、吾妻は燃え尽きたマッチを捨てた。
だが、安堵したのも束の間、極度の疲労と空腹が限界を超え、視界がぐらりと傾く。
ふらつく足で森の木々を抜けると、遠くに小さな村の明かりが見えた。
「あそこまで……行けば……」
吾妻はそのまま土の上に倒れ込み、二度目の意識を手放した。
後に『雷神の月兎』や『氷血公爵』すら恐れおののくことになる大陸の覇王の、これが記念すべき第一歩である。
もっとも、この時の彼は泥に顔を突っ伏したまま、「冷えたおにぎり……食いたかった……」と呟く、ただの哀れな遭難者でしかなかったのだが。
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