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高望王流平氏における「嫡流」の変遷と平将門の乱の再考  作者: えいの
第2章:高望王流平氏の初期力学と平良将の圧倒的優位性

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第三節:「鎮守府将軍」の特権性:公的武力保持権と中央直結の信用

前節において、平良兼が帯びた受領という官職と、平良将が補任された鎮守府将軍という職掌の間に存在する決定的な性質の差異を論じた。本節では、この鎮守府将軍という役職がいかなる具体的な特権性を有し、それが高望王流平氏の内部秩序において良将をいかなる超越的な地位に押し上げていたのかを、軍事権能と政治的信用の両面から更に深く検証する。

第一に、鎮守府将軍という役職の最大の特徴は、国家から公式に大規模な武力保持を認められた、東国における最高位の軍事司令官であるという点に集約される。律令国家の軍事体制が崩壊の一途を辿っていた十世紀前半において、陸奥国の鎮守府は蝦夷の教化と辺境の軍事的防衛を担う極めて特殊な機関として存続していた。この鎮守府の長である将軍は、外敵の脅威に対抗するという大義名分のもと、日常的に精強な武士団を組織し、彼らを私的な従者、すなわち郎党として多大に養うことが正当化されていたのである。

これは、兄である良兼らの受領が、徴税や地方行政の円滑な遂行のために、臨時に武力を動員するのとは根本的に次元を異にする。良兼の武力保持は、あくまで国司としての行政権の一部として行使される限定的なものであり、任期が満了すればその公的な根拠を失う。しかし、良将の帯びた鎮守府将軍という地位は、彼自身を一族の枠を超えた「国家の軍事代表者」へと昇華させるものであった。良将は、下総国の豊田や岡田といった自らの強固な在地基盤において、公然と軍事訓練を施し、弓馬の道に秀でた者たちを糾合することができたのである。

この「国家公認の武力」という名目は、坂東各地の武士たちに対して絶大な求心力を発揮した。当時の武士たちにとって、何ら公的な軍事権限を持たない地方豪族に仕えることと、国家から委託された軍事司令官である将軍の傘下に入ることは、その名誉においても実利においても天譲の差があった。良将の周囲には、単なる親族のみならず、広域から武略を誇る者たちが集い、良将を武門の棟梁として仰ぐ強固な軍事共同体が形成されていたと考えられる。同時代史料である「将門記」において、後に将門が繰り広げた圧倒的な合戦の巧みさや、坂東の兵たちが彼に寄せた尋常ならざる忠誠心は、父である良将が鎮守府将軍として長年培ってきたこの公的な軍事組織としての基盤が、遺産として機能していた証左に他ならない。

第二に、鎮守府将軍という地位は、中央政界、とりわけ当時の政治的頂点であった摂関家との間に、極めて濃密で直接的な政治的紐帯をもたらした。十世紀の朝廷において、地方の有力な武士を自らの私的な武力装置、すなわち「侍」として直結させることは、摂関政治を支える軍事的な裏付けとして定着しつつあった。良将が鎮守府将軍という東国における武門の最高位に就いていた事実は、彼が中央の最高権力者である藤原忠平、すなわち貞信公から、東国の治安を委ねるに足る「武門の権門」として格別の信用を得ていたことを物語っている。

この中央直結の信用は、良将の個人的な栄誉に留まらず、一族の将来をも規定する決定的な要素であった。息子の将門が若くして上京し、太政大臣であった藤原忠平の私的な従者として出仕することが叶ったのは、他ならぬ良将が鎮守府将軍として築き上げた中央との強力なパイプがあったからである。受領として地方行政に埋没していた良兼や、一地方の在庁官人に過ぎなかった国香には、自らの子弟を摂関家の直臣として送り込むほどの政治力は備わっていなかった。

将門が都において忠平に仕えた経験は、彼に「自分は中央の権力者に直接連なる、一族の中でも選ばれた特別な存在である」という強烈な自負を植え付けた。この自負は、後に将門が伯父たちと対立した際、自らの正当性を主張する最大の拠り所となった。後の「将門記」には、将門が忠平に対して、自らの窮状と戦いの正当性を訴える書状を送ったことが記されているが、そこには「父以来の知遇」という深い信頼関係が前提として存在している。良将は、単に武勇に秀でた地方武士であったのではなく、中央の権力構造の中に「武門の代表者」として組み込まれた、高望王流平氏における唯一の政治的特権階級であったと言えるのである。

第三に、このような公的な軍事権能と中央の信用が合致することで、良将は一族内において「精神的な嫡流」としての地位を確立するに至った。武士団の形成期においては、単なる出生の順序による相続よりも、いかに国家から認められた「格」を有しているかが、一族の長としての資格を決定づけた。良将が鎮守府将軍として東国に君臨していた期間、高望王流平氏の他の構成員は、その圧倒的な権威の前に沈黙せざるを得なかった。良兼が受領として蓄えた富も、国香が在地で築いた姻戚関係も、良将が体現する「国家と直結した武門の誉れ」の前には、あくまで一地方の利権という次元に留まるものであった。

当時の記録によれば、鎮守府将軍という官職は、陸奥国という特定の地域に限定された職掌でありながら、その実質的な影響力は東国全域に及ぶものであった。将軍の称号を持つ者は、坂東の武士たちから「武士の長」として尊崇され、その一挙手一投足が一族の興亡を左右する重みを持っていた。良将が保持していたのは、単なる土地の所有権や行政権ではなく、一族を一つの軍事集団としてまとめ上げるための「公的な正当性」そのものであったのである。

結論として、平良将が有していた鎮守府将軍という役職の特権性は、高望王流平氏における「嫡流」の概念を、単なる血縁の順序から、国家公認の武門の筆頭へと昇華させる役割を果たした。公的な武力保持権、そして中央の最高権力者との間に築かれた強固な信用。この二つの柱によって支えられた良将の権威こそが、一族を盤石の体制で統率する根源的な力であった。良将が存命であった時期、平氏一族の中に彼の地位を脅かす者は存在せず、将門はその栄光に満ちた嫡流の正当な継承者として、何ら疑うことなく育てられたのである。

しかし、この公的権威と政治的信用という精緻に積み上げられた秩序は、良将の死という予期せぬ事態によって、急速に瓦解へと向かうことになる。国家的な軍事権門としての良将の地位が余りにも巨大であったがゆえに、その喪失がもたらした空白は、残された親族たちの野心と焦燥を際立たせる結果となった。次節では、良将が支配した豊田、岡田という在地基盤がいかに豊かなものであったか、そしてその物理的な力が良将の威光をいかに補強していたかを詳述し、第二章の締め括りとする。


【引用元・参考文献】

一、「将門記」

二、「尊卑分脈」

三、「貞信公記」

四、「日本三代実録」

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