第一節:長男平国香の限界と在地豪族化の実態
桓武天皇の曾孫に当たる高望王が臣籍降下し、平朝臣の氏姓を賜って上総介として東国へ下向したのは、寛平年間のこととされている。これがいわゆる高望王流平氏、ひいては後の武家平氏の歴史的幕開けである。高望王は任期満了後も帰京することなく東国に土着し、その子息たちも坂東各地に勢力を扶植していった。その中で、長男として一族の筆頭に立つべき血次上の立場にあったのが平国香である。後世の歴史観、とりわけ平清盛へと連なる伊勢平氏が武家の棟梁として権勢を極めた結果から逆算すれば、国香こそが高望王流平氏の正統なる氏長者であり、東国に根を張った一族全体を統率する絶対的な権威を有していたかのように錯覚されがちである。しかし、当時の東国情勢と彼自身の政治的軌跡を精緻に検証すれば、国香の実態は一族を牽引する特権的な軍事貴族の長というよりも、特定の地域社会に深く埋没した一介の在地豪族に過ぎなかったという限界が浮き彫りとなる。本節では、長男である国香がなぜ事実上の「嫡流」たる地位から実質的に脱落していったのか、その過程を在地社会への土着化と官職の性質から明らかにする。
十世紀前半の東国社会において、中央から下向した貴族の子弟が自立した勢力を築くための最も一般的な手段は、現地の有力な在地豪族の娘を妻に迎え、その経済的基盤や私兵集団を継承あるいは吸収することであった。当時の婚姻形態は妻問婚ないしは婿入り婚が主流であり、夫は妻の実家の所領や財産を背景として自らの権力基盤を構築したのである。国香もまた、この当時の通例に従い、常陸国を拠点とする有力な勢力と結びついた。特筆すべきは、国香が前常陸大掾であった源護の娘を妻の一人として迎えていたことである。源護は嵯峨源氏の出自とされ、常陸国西部において広大な私営田を開発し、多大な富と武力を蓄えていた大豪族であった。源護の娘たちは国香のみならず、彼の弟である良兼や良正にも嫁いでおり、高望王流平氏の兄弟たちは源護という巨大な在地権力と複雑な婚姻関係によって結びついていた。国香はこの源護との強力な縁戚関係を足がかりとして、常陸国の筑波郡から真壁郡周辺にかけて自らの所領を形成し、その地に深く根を下ろしていくことになる。
このような常陸国への土着化は、国香が東国という未知の辺境において一族の生き残りを図り、確固たる経済基盤を獲得するための現実的な生存戦略としては極めて有効であった。しかしながら、それは同時に、彼が「王臣子孫」という中央政界に連なる超越的な立場から離れ、現地の泥臭い利害関係や婚姻のしがらみの中に完全に絡め取られていく過程でもあった。彼が築いた権力基盤は、あくまで妻の実家や現地の開発領主たちとの相互依存関係の上に成り立つ局所的なものであり、東国全体に散らばる高望王流平氏の全一族を高い次元から統率し、圧倒するような性質のものではなかったのである。
国香の在地豪族化をさらに決定づけているのが、彼が帯びていた「常陸大掾」という官職の性質である。律令制下の地方行政組織において、国司は守、介、掾、目という四等官によって構成されていた。常陸国は親王が名目上の守を務める親王任国であったため、実質的な最高長官は次官である介が担っていた。国香が就いた大掾は、そのさらに下位に位置する第三等官である。重要なのは、十世紀の地方行政において、大掾や目といった下級の国司職は、中央から派遣される受領とは異なり、現地の有力な土豪や開発領主が任命される「在庁官人」としての色彩を極めて強く帯びていたという事実である。
常陸大掾に任官するということは、国香が常陸国の国衙における実務責任者として地方行政の枠組みに完全に組み込まれたことを意味する。それは在地社会における一定の権威と既得権益を国家から保障されるものではあったが、決して中央貴族としての高い格付けや、広域の軍事指揮権を伴うものではなかった。『尊卑分脈』などの系図類においても、国香の官位に関する記述は常陸大掾などに留まっており、彼が中央の公卿衆と直接的な主従関係を結び、国家的な軍事権門としての特権的な地位を享受していた痕跡は見出せない。弟の良兼が下総守や上総介といった一国の最高権力者として君臨し、さらにもう一人の弟である良将が鎮守府将軍という東国最高の軍事司令官として特権的な武力を有していたことと比較すれば、国香の常陸大掾という地位はあまりにも実務的であり、かつ局地的であったと言わざるを得ない。この官職の格差こそが、一族内における発言力や権威の決定的な差となって表れるのである。
この国香の「一在地豪族への転落」と、一族全体を統率する絶対的権威の喪失を如実に示しているのが、後に勃発する平将門の乱の初期段階における彼の振る舞いである。同時代史料である『将門記』によれば、事の発端は将門と源護の息子たち(扶、隆、繁)との間に起きた私的な所領紛争であった。
「そもそも此の闘乱の起りは、源護等と将門と、各野営の所領を論ずるに依りてなり。然る間、良兼・国香等、源護に同意して将門を伐たむと為す」
もし国香が高望王流平氏の正統な氏長者であり、絶対的な筆頭者として君臨していたのであれば、同族の甥である将門と、自らの舅あるいは縁戚である源護との間に生じた紛争に対し、一族の長として超越的な立場から調停を下すか、あるいは独自の強力な武力をもって双方を威圧し鎮静化するような行動をとったはずである。しかし、実際の国香はそうした超越的かつ指導的な振る舞いを見せることは一切なかった。彼はあくまで源護の娘婿という在地の個人的な縁戚関係に縛られ、源護の陣営の協力者として、甥である将門との局地的な抗争に巻き込まれていったのである。この姿は、武家平氏の棟梁という後世の美化された姿からは程遠く、姻戚関係と局地的な利権に翻弄される一介の土豪の姿そのものである。
以上の考察から明らかなように、平国香は長男という血次上の優位性を持ちながらも、常陸国の在地社会への深い土着化と、常陸大掾という局地的な在庁官人としての職位に安住した結果、高望王流平氏という巨大な軍事氏族全体を牽引する「嫡流」あるいは「筆頭者」としての実質的な資格を完全に喪失していったのである。中央政界との強力な政治的紐帯を持たず、国家から承認された圧倒的な軍事基盤も持ち得なかった国香は、東国に割拠する多数の豪族の中の一人に過ぎなくなっていた。このように長男が在地社会に埋没し、事実上の一族の統率者としての地位から脱落したという構造的背景が存在したからこそ、次男の良兼や三男の良将に強大な権力と名誉を獲得する余地が生まれ、やがて彼らの間で生じる凄惨な権力闘争と一族分裂の遠因が形成されたのである。
【引用元・参考文献】
一、『将門記』(新編日本古典文学全集、小学館)
二、『尊卑分脈』(新訂増補国史大系、吉川弘文館)




