第十九章:祝杯と、初めて見る上司の素顔
トムが涙ながらに予約してくれたのは、オフィスからほど近い、賑やかなガストロパブだった。
木のぬくもりが感じられる店内に、仕事終わりのロンドンっ子たちの陽気な笑い声が響いている。
ほんの数時間前まで、地獄のような静寂と緊張感の中にいた私たちにとって、その喧騒は天国のように心地よかった。
「じゃあ、改めて……この一週間、お疲れ様でした! 乾杯!」
私がそう言ってグラスを掲げると、チーム全員が
「「乾杯!」」と、これまで聞いたこともないほど大きな声でグラスを打ち鳴らした。
冷たいビールの黄金色の液体が、喉を駆け下りていく。
最初の一口は、地獄を生き抜いた体に、あまりにも深く、そして強烈に染み渡った。
普段なら、こういう場で私が飲むのはせいぜい一杯。
会話には加わらず、部下たちの様子を冷静に観察し、適当な時間で切り上げるのが常だった。
でも、今夜は違った。
疲れ切った体に、アルコールは驚くほどの速さで巡っていく。
一杯、また一杯とグラスを空けるうちに、私が十重二十重に身にまとっていた鉄の鎧が、ガラガラと音を立てて崩れていくのが、自分でもわかった。
「いやー、でも、本当によくやったわよね、私たち!」
気づけば、私はすっかり上機嫌な酔っ払いへと変貌していた。
頬は火照り、口調は普段の私からは信じられないほど、フランクになっている。
「ジェシカなんて、女神かと思ったわよ! あの膨大な資料から、的確なインサイトを抜き出してくるんだもの! 天才!」
「え、ええ!? そんな…」と照れるジェシカ。
「デザイナーの二人も! 私が『なんか違う』っていう、悪魔みたいなフィードバックしかしないのに、最後には完璧なデザインを出してくるんだから! 神!」
そして、私は隣に座るトムの方へ、ぐいっと身を乗り出した。
「そして、トム! あなたよ、あなた!」
「は、はい!」
名指しされたトムは、背筋を伸ばして固まっている。
「あなた、この一週間、何回泣きそうになってたか知ってる? 私、全部見てたわよ!」
「えええ!?」
「でも、絶対に逃げなかった! 投げ出さなかった! あの膨大なデータと格闘して、最後には、あのフィリップ・スターリングを黙らせるだけの根拠を、ちゃんと提示した! あなたのあのデータがなかったら、昨日のプレゼンは、ただの絵空事だったのよ! 本当に、よく頑張ったわね!」
私はそう言うと、トムの肩をバンバンと、力強く叩いた。
「ありがとうございます……」
トムは、戸惑いと、喜びと、そして安堵が入り混じった、くしゃくしゃの顔で笑っていた。
【トムの回想】
(ああ、酔ってるな、エマさん……) 肩を叩かれながら、トムはぼんやりと思った。
でも、不思議と嫌な気はしなかった。むしろ、胸の奥がじんわりと温かくなる。
ほんの二週間前まで、僕にとってエマ・ウォーカーは、恐怖の対象でしかなかった。
初めて企画書を突き返された時の、あの冷たい瞳。
「あなたの感想じゃなくて、ロジックで説明して」。
あの言葉は、悪夢にまで出てきた。
彼女は、血も涙もない、完璧なだけの仕事マシーンなのだと、本気で思っていた。
この一週間は、地獄だった。
彼女の要求は常に高く、常に的確で、一切の妥協を許してくれなかった。何度も心が折れそうになったし、トイレでこっそり泣いたことだってある。
でも、気づいてしまったのだ。 彼女の指摘は、いつだって正しかった。
僕が見逃していたデータの矛盾点、ロジックの脆弱性。彼女は、それらを瞬時に見抜き、最短距離で正解へと導いてくれた。それは、意地悪なんかじゃない。
ただ、圧倒的に「本物」なだけだった。
この一週間で、僕は、大学の四年間よりも多くのことを学んだかもしれない。
そして今、目の前にいる彼女は、どうだ。
少しだけ潤んだ瞳で、呂律が怪しくなりながらも、僕たち一人一人を、ちゃんと見て、心からの言葉で褒めてくれている。
こんなに嬉しそうに笑う人だったなんて、知らなかった。
こんなに、頑張った部下を、自分のことのように喜んでくれる人だったなんて。
鉄の仮面の下にある本当の素顔は、孤高なエリートなんかじゃない。
不器用で、厳しくて、でも、誰よりも仕事に誠実で、仲間を信じてくれる、素敵な女性だ。
(……なんか、可愛いな)
酔った勢いで、そんな不敬なことまで考えてしまう。
慌てて、トムはビールを呷って、その考えをかき消した。
でも、もう彼女に対する恐怖心は、なかった。 あるのは、尊敬と、そして、ほんの少しの親しみだけ。
地獄のような一週間は、チームの関係性を、全く新しいものへと変えてくれたのだ。