1章―9 溶ける、解ける世界【中編】
「まだいたのね」
アンコの放り投げたブロッコエイ、獣の気配に気を取られ無残にも地面に落下し、ラグビーボールのように、跳ねどこかへ転げていく。アクア以外は異様な空気に、木材で建築された階段に視線をやり、ブロッコエイの行方は、予測のつかない跳ね方をしアクアだけがその行方を目で追う。
1階から地下室のある部屋まで侵入し、獣の体からあふれ出る瘴気は、地下へ続く階段を波打つように下り、獣の気配をとほのかな腐敗臭をすぐそばに感じる。
「出てもいいかしらアンコちゃん?」
ユリの声に獣は1段目の階段に前足を置き、歩みをやめる。
全身はまだ地下室の天井と階段で見えはしないが、一回り大きく、前足を階段にかけたまま動こうとしない。
瞬間、獣の前足はぐっと力が入る、木材でできた階段は、いともたやすく片足をかけた1段だけ崩落する。
獣の軌道は、結界の外に出ていたユリの目の前を、左右に反復し、うっすらと火の灯った蝋燭の明かりを、渦列に巻き込み蝋燭としての用途を果たさない。
獣はユリの1メートルほど前で立ち止まり、結界と天井の隙間を抜け、ブロッコエイを手にしたアクアの目の前で立ち止まる。
子供は母親の真似をしてしまうもので、アクアも、アンコにブロッコエイを食べさせたくてたまらなかったのだろう。
いつの間にかユリと一緒に結界の外に出ている。
子供故、今の状況など判断できるはずもなく、罪はない、〈自分の欲望>危険〉この思考はどんな子供でも同じ、結界の外にでているアクアの目の前で、獣は冷静なまなざしでこちらを見つめ、様子をうかがっている。
「動いてみろ、すぐさま屠る」といわんばかりに。
階段から漏れる光で、目を凝らし改めて全身を見ると、今までの個体とは違い、一回り大きく体毛は少し多い。
アカツキの思考が停止した時、鈍い音が響く、重みのあるその音は、獣の体を岩盤へと叩き付け、獣の胸部から赤い血が滴り落ちる。
今まで獣の居た、アクアの目の前には、ユリの姿、獣より早く、時が秒を刻むより何十倍もはやく獣を吹き飛ばしている。
しかし、獣はゆらりと立ち上がり、ユリは眉間にしわを寄せる。
そのユリの両手は手首から下は力なく、今にもちぎれ落ちそうなほどフラフラと痛々しく揺れている。
「一度、結界を解くよアカツキ、僕も応戦しないと手ごわそうだよ結界を張りながらじゃ……」
アンコの言葉を遮るように、鋭い音が辺に反響する。
ライドウの左手には、身の丈ほどある錆びた肉切り包丁、その大きさは斬るというよりは、骨ごと叩き潰すような重量のある、もはや鈍器。その錆びた鉄塊は、決して鋭利ではないが、獣の堅い体毛を2センチほどこそぎ落とし、柔らかく、しなった筋肉がちらりと見える。
「しかし参りましたね、あのユリの拳を破壊するほどの体毛を、こそぎ落したはいいんですが、ここまで錆びてると決定打にかけますね、どうしましょう?」
アンコを目の前に、ここまで凛々しく頼りになるライドウの姿はまさに獅子の雄。
「ユリ、アクアを連れてアンコの方へゆっくりと来なさい」
ユリはアクアを腕ではさみ、ゆっくりとアンコのもとへ向かう。
「とりあえず削れるだけこそぎ落としましょうか、皮膚の部分が大きくなれば、アンコがなんとかしてくれるでしょう」
獣はまだ、地下室に来たときと変わらず、少し薄くなった瘴気を纏いそれでもなお冷静なまま―――
どれぐらいの時間が過ぎたのだろう、ライドウと獣の攻防は続いたが、最初にこそぎ落とした獣の体毛は、先ほどと大きさは変わらない。
「ライドウー全然、的が大きくならないよー、あれじゃ完全に停止してても、ヘレがいなきゃ掠ることも難しいよ」
「わかりました、では逃げましょう、幸い獣は部屋の奥、私たちは階段側、惹き付けておきますから、ユリを連れて家から出てください、策はあります、アンコに懸かっているのはかわりませんが」
ユリの下で涙を堪えるアクアと目を合わせ、階段を駆け上がり屋外に出るアカツキ、森閑とした屋外はまだ腐敗臭がう。
ライドウの姿を外から確認しアンコが結界を張る。
「これで時間は稼げそうだよ先生」
「そうですねなんとか一息つけそうですね」
「僕を中心に張ってる訳じゃないから、あの結界もそんなに長くはないよ、それでどうするのさ先生、時間がたてばさっきと状況は変わらないよ、まさか逃げ続けるとか言わないよねぇ?」
「そうです、私たちは逃げ続けましょう、あちらはおそらく獣のリーダーでしょう、私の鉄塊ももう使い物になりませんし」
アカツキは、先生の言葉の一部に不安を感じるが、アンコは察しがついたといった顔で。
「なるほどねぇ、はさみうちってことか、アカツキィ不安になるには早いよーまだまだこれからだよー」
「ユリとアクアは私が連れて逃げます。それとアカツキはアンコと共に行動してください。どちらを追いかけてくるかは、獣の気分しだいですけど、できればアカツキの方にいってくれると助かりますね」
「ヒドイ……俺には何もできませんよ! アンコを生贄にするぐらいしか僕にはできませんよ!!」
「ヒドイ……こんな可愛いアンコちゃんを生贄にするなんて……アホツキ……ヒドイッ!!」
「そのやり取りは再度合流した後に聞きますから、アカツキ、説明しておきます。私は妻と娘をつれて城下町付近まで逃げます、そこまでいけば衛兵に助けを求めます。ちょうど遠征から帰ってきて、まだ士気は高いはずですから、頼りになるでしょう。こちら側に獣の追撃を想定した、欺瞞作戦です、アカツキはアンコとヘレさんがいそうな付近まで逃げてください。獣のリーダーを探すヘレさんと、獣から逃げるアカツキ達で、はさみうちの形です、獣が私を追いかけて来たら、非常に困難ですが……気にしないでください」
「それとこれを……」
柄、それは全く意味不明で、刀身はなく柄だけ、手首からひじぐらいまでの長さの柄。
「それは、柄だけですが1度だけ、先ほどの鉄塊を真打に戻してくれます、念のため護身用に渡しておきます。間違ってもそれで獣と真っ向から戦おうとしないで下さね、あくまで護身用です」
「はぁ……ありがとうございます。できれば使う状況には陥りたくないです、そもそも扱ったことすらないですよ」
「大丈夫です、身を守ることぐらいはできるでしょう」
ライドウの家は崩れ落ち、今にも獣が飛び出してきそうだ。
「行きましょう、逃げることが最優先です、それだけは忘れないでください、今回ばかりは寄り道はダメです」
崩壊した家屋のがれきの隙間から、瘴気が漏れ出す、もう結界は意味をなさない。
「んじゃ!先生気を付けて!」
「ええ、期待しています」
ライドウも城下町に向け、妻子を背負い走り出すが、アカツキの姿が見えなくなると聖杯堂を眺め、力なく腰を下ろす。
その背後には獣が2体、1体には2センチ程はげた獣が。




