第三節 戦略なき洋上(仮更新)
以前、活動報告でお知らせしたように更新が遅れてしまって申し訳ありません。また、更新を送れさせておいて傲慢にも思えますが、また本部分が自分で納得できる作品になっていないのが現状です。おそらく後に加筆・訂正されることになることを予めご了承ください。
十二月九日 午後四時三十分
横浜某所
海が見える小高い丘の上に建てられた煉瓦造りの洋館の一室からは日暮れを迎えていた横浜港が遠くに見えていた。暖炉で程よく暖められていたその部屋には穏やかな音楽が流れていた。
「静かでいいですな。しかし聞いたことのない曲だ。何と言うのです?」
屋敷に招かれた客人の一人である堀悌吉が屋敷の主人に尋ねた。
「光指す庭というそうです。私が陸軍大学で教鞭を執っていた頃の教え子が作曲したそうで、レコードを陸軍省から貰ってきたのです。」
屋敷の主であった永田鉄山は温かな膝の上で惰眠を貪る猫を撫でながらそう答えた。名目上は静養として陸軍省から去った彼は一九三六年に起こってしまった二・二六事件とその根源である派閥抗争激化を引責して現役を退いていたのだ。海軍陸戦隊に対する戦車提供拒否事件という新たな問題があったものの不祥事件の全てが収束した一九三七年に自ら予備役を希望した彼は海が見える丘の上でのんびりとした余生を送っていた。
彼は『欧州総力戦争』と題した先の大戦を回顧する著作の執筆に力を入れる傍らで有り余る時間を使って知り合いを増やしていたが、その一人が堀だった。一九三五年早春に発覚した海軍青年将校数名が国家社会主義者と同調したクーデター未遂――海軍不穏分子事件にあたって当時の海軍次官であった堀は永田と同様の理由で予備役へ編入されていたのである。似た境遇であり軍事と政治のあるべき理想像が共通していた二人の秀才の仲が深まるにはそう長い時間は掛からなかった。
温かな雰囲気を持つ木組みのテーブルの上に帝國軍が米太平洋艦隊を撃滅し、ハワイの米軍に撤退を同意させたと国民の心を扇動するような号外と付された新聞記事を横目で苦々しく思っていた堀は「おっと」と、何の前触れもなく永田が素っ頓狂な声を出すと眉をひそめたが、その疑問は永田の膝の上から飛び降りた毛むくじゃらの生き物の姿が目に入ると氷解した。白黒で八割れ模様の彼の愛猫はつかつかと暖炉の近くに歩いていくと座り込んだ。
「ヒデキは僕の膝の上より暖炉の方が好きみたいで。」
愛おしそうに同居人を見つめる永田に堀は思わず「え……」と声を出して大きな疑問符を浮かべた。堀の脳内では陸軍における彼の後継者であり現内閣総理大臣の顔が浮かび上がる。そんな様子を見た永田は立ち上がると暖を取るヒデキを抱きかかえた。
「どうです? この鼻にあるぶち模様、東條首相の口髭みたいでしょう?」
強制的に些細な楽しみを中断されたヒデキは飼い主の腕の中で不満げながらも抵抗する様子を見せずに堀を見ていた。確かに言われてみれば似ていないこともないが、果たして愛猫に部下の名前を付けるのはどうなのであろうか。堀は部屋が明るいからか瞳孔が細いヒデキの瞳に尋ねたが彼が何を思っているのかは猫を飼った経験がない堀にはわからなかった。
また意味もなく撫で回していた永田の束縛からようやく解放されたヒデキが暖炉の近くへ舞い戻った頃、遅れて二人の客人が温かな部屋へ姿を現していた。
「申し訳ありません。お待たせしました。」
扉を開けてから一番にそう口にしたのは東條英機であった。内閣総理大臣と陸軍大臣を兼任する彼は約束した時間より少々遅れての到着であったが、ついに対米開戦を迎えた多忙であるはずの内閣の首班であることを考えれば定刻通りの到着と言って差し控えはない。とはいえ、そんなことを気にも留めずに永田は東條をニヤニヤと見つめていた。東條の眼鏡は温かな空気に触れて真っ白に曇っていたのだ。
「真っ白な眼鏡の東條君もかわいいよ。」
「すみません。すぐに拭くであります。」
「眼鏡を外した東條君もかわいいよ。」
――なんだこれ。世にも奇妙な光景を目にした堀は二人の陸軍閥から目を逸らした。暖炉の脇で寛ぐヒデキが呆れたように欠伸をする。
「あの……、すみません総理。これはいったい?」
眼鏡の眼鏡の曇りを拭き取る東條の背後で申し訳なさそうな声がした。この部屋の中で一番の常識人となるであろう彼の登場に堀は腰を浮かして歓迎の意を示す。
「お久しぶりです。永野軍令部総長。」
永田のいじりに真面目に対応する東條の代わりに堀は軍令部総長に声をかけた。海兵三十二期の堀に対して二十八期だった永野は後輩の顔を見ても不安げな顔つきが和らぐことはなかった。
「すまないが、これはいったい何なのかね。」
永野の質問に堀はいちゃつく陸軍を横目で見ながら苦笑いを浮かべて答えた。
「陸軍なりのコミュニケーションじゃないですかね……。」
「聞き方が悪かった。これは何の集まりなのかね。」
部屋にいる面子を見て不気味そうな色を強めていた永野の言葉に堀は唖然とした。
「聞いてないんですか。」
「東條首相からは少し雑談があるとしか聞いていない。」
雑談がしたいと行き先を告げぬまま永田町から横浜まで海軍の最上級将官を拉致してきた東條に堀は驚くと共に今回の会合がいかに政治的に角が立つものか改めて感じた。彼が出席者や会合の中身を永野に伝えなかったのは政治的な闘争から永野を守るための東條なりの策だったのだろう。彼は細かい気配りができる長所を持っていた。引責辞職した二人の将官との密談は政治的に非常にリスキーだった。
「首相からお聞きしたように造作もない大事な雑談です。」
堀がそう答えると永野は部屋に面した一同をもう一度見回すと、やれやれ諦めたようにソファーに腰を下ろした。
東條が全員のティーカップに紅茶を注ぎ、各人がそれを一通り味わった後、首相が口火を切った。
「一国の首相がこんなことを言ってはならないとは思います。そして、我が国は対米開戦回避のため考えられる手を打ち、あらゆる手段をとった結果として対米開戦という馬鹿げた選択肢しか残されていなかったのも理解しております。」
東條は拳を震わせながら悔やむに悔やみきれない心情を吐露した。陸相時代、アメリカ人と同一の敵であるはずの共産主義者に支配されたインドシナ半島を解放した仏印進駐を明確なる侵略行為と断じ石油禁輸を始めとする経済制裁を行った合衆国の非礼に対して対米開戦やむなしを唱えたこともあった東條だったが、近衛首相の辞任に伴い次期内閣総理大臣に補された彼は宮城における任命の際に陛下から直接対米和平の模索を命じられた以降、態度を直ちに改め全身全霊をもって対米開戦回避に心血を注いでいた。抜きん出た忠君であった彼は陛下の御心を実現するために仏印において自由主義政権が成立し治安が回復した後に撤退するという大きく譲歩する提案を米国に対して行っていたが、大陸からの全面撤兵を頑なに主張する姿勢を貫いた彼の国によって全ては徒労に終わっていた。日米融和時代に築き上げた共和党を中心とする知日派議員達も近衛政権が行った最大の挑発行為である米国債五億ドル相当の売却によるアメリカ経済の大混乱を経た今ではこぞって対日批判を繰り広げている。
東條は涙混じりの声で告白を続けた。その姿は対米開戦の決意を忽然とした口調で読み上げた「大詔を拝し奉りて」と世間で呼ばれ始めた演説をラジオ経由で全日本に届けた同一人物とは思えなかった。
「日本には独力で米国と長期戦を戦う国力がありません。」
大本営では誰もがわかっていても絶対に口に出せない言葉を言ってのけた東條に永野は頷き同意を示す。東條は涙を堪えながら肺腑に懸命に息を吸い込むと続けた。
「日本が米国をもう一度、交渉のテーブルに着けさせるには開戦早々に強打を与えるしか考えられませんでした。皇軍は私の期待以上の働きを見せ、そして勝ちました。しかし、私にはアメリカ人を見誤ったようにしか思えません。私は取り返しの付かない間違いを犯してしまった……。他に選択肢がなかったとしても。」
「――対米交渉がうまく行っていないのか?」
さっきとは打って変わって神妙な面持ちの永田がそう尋ねたが、東條は俯いたままでわなわなと腕を震えさせるだけだった。見かねた永野が「中央でも上級将官しかまだ知らされていない」と口禁令を言い加えながら総理大臣に代わって口を開いた。
「ハワイで停戦した守備隊と投降した太平洋艦隊の将兵、それと太平洋各離島の守備兵力の引き渡し、それに伴う赤道以北かつ東経百三十五度から西経七十五度における三週間に渡るいかなる戦闘の停止。これが現状で我が国がアメリカと合意した協議内容です。」
それは野村吉三郎という人間だけが為せる技であった。古くからルーズベルト大統領と親交があった駐米日本大使の彼は決して流暢ではない英語しか話せなかったが、それでも大統領と大統領府のメンバーの信頼を勝ち取っていた。――日米は残念ながら開戦を迎えた。しかし、かつての友人達がクリスマスまでに家に帰れることを私は切に願っている。戦争開始直後にも拘らずホワイトハウスで開かれた異例の日米会談においてルーズベルトに直接そう言った野村は一時間も掛からずに永野が口にした事項についてルーズベルトから合意を引き出していた。それは日米停戦に繋がる大いなる一歩にも思えた。
「交渉が始まったすぐに、それを合意できたことは幸先良いことではないのか。いったい、何が問題なのでしょうか。」
かつて決裂したワシントン海軍軍縮会議で随行員を務め、それ以後も幾つかの国際会議に足を運んだこともある堀は俯いたままの総理大臣に疑念の視線を送った。
「全面講和……日本の軍国主義の根源であるテンノーの国際裁判……。」
足元を見つめたままの東條はまるで歯の隙間から漏れ出たような弱々しい声で言った。ルーズベルトは聞いてもいないにも拘らず野村に大陸からの全面撤兵という元来からの要求と共に日本人が絶対に受け入れられない要求を全面講和条約の条件として突き付けたのだ。なお、ルーズベルトを良き知人と思っていた野村は憤慨を隠すこともせずに交渉を一旦打ち切っている。
しばらく沈黙が続いた。東條の言葉は所々が嗚咽に飲まれていたため全ては聞こえなかったが、その場に居合わせた誰もが突き付けられた刃を推し量った。堀は気休めに今まで誰も手を付けていなかった紅茶が入ったティーポットに手を伸ばしたが、彼は陶器製の小奇麗なティーポットを震えた手でカタカタと雑音を鳴らすことしかできなかった。誰もの顔が強ばっていた。
「私は陛下の一臣民として。大日本帝國の首相として断固、このような無礼な要求を呑むことは絶対にできません。」
ようやく顔を上げた東條は頬に大粒の涙が流れた跡を残したまま静かに、されど強くそう語った。
落ち着きを取り戻した東條は野村から送られてきたホワイトハウスの主の言葉の意を説明した。
アメリカ人はかつての友人の裏切りに怒髪天を衝く勢いで世論を沸騰させていた。まず、宣戦布告からたった三十分後という開戦法規の趣旨を違えた騙し討ち――予定では一時間前であったが外務省から送られてきた暗号解読に時間を取られ遅れていた――に彼らは怒りを覚えていた。一九〇七年にハーグで締結された開戦法規の一つは開戦において明瞭かつ事前の通告を義務付けていたが、帝國軍の真珠湾奇襲攻撃は明らかにそれに違反していた。三十分の通告は明瞭かつ事前でもなんでもない。日本もこの条約に署名していたことを思い出した国際法学者は辞典をめくりながら新聞社に対してそう語っていた。もちろん遅延なく宣戦布告が一時間前に行われていたとしても同じ追及が行われていただろうが。
とはいえ、アメリカ人の良心を刺激したのは小難しい条文でも大統領のラジオ演説でもなかった。ハワイ及びサンディエゴの戦闘の結果として少なからずの民間人に死者が出ていた。そればかりはいつの時代も戦争の影に付き纏う悲劇だった。しかし自国を戦場にした時代をとうの昔に忘れていたアメリカ人は過敏に反応した。焼野原となったエルウッド製油所近くで焼死した幼女の遺体が報復心を煽る文章と共に著名新聞の一面を飾ると黄禍論は瞬く間に全米へ拡散した。
これらの事情を踏まえて合衆国民によって選ばれた最高行政指導者は復讐に震えるアメリカ人を宥めるためには相応の儀式が必要であると野村に伝えていた。あまり東洋の小国に知識も興味もない一般的なアメリカ人でも容易に理解できるエンペラーという分かりやすい最高指導者が正義と自由の名の下に裁かれるならば怒りは静まるだろうということだった。
「もし……。もしも、だ。」
東條の説明を一通り聞いた永田が切り出した。その顔は仮定の話をするには深刻すぎる気がしたが、彼が言おうとしていることはそれ以上に重大であった。
「絶対に皇軍が滅しない限り、そんなことは許さないが。もし、陛下を国際裁判とかいう正体の知れない裁判にお送りし、アメリカとの平和を手に入れたとして……。」
永田はそこで一旦言葉を切ると少し深めの息継ぎをした。
「その国は日本なのだろうか。」
温かなはずの洋室はアナログレコードプレーヤーによって奏でられる音楽だけが満ちていた。
「ドイツの動きは、何かありましたか。」
空気を入れ替えるために堀は近衛政権の努力によって同盟国となった欧州最大の覇権国家の名を挙げた。北はノルウェー、西はジブラルタル、東はポーランドの西半分、そして南はスエズの一歩手前まで勢力圏を広げた彼の国は英国を窮地に追い込んでいた。
「何も。ヒトラー総統はもとよりドイツ外務省はこちらの接触を全て拒絶した。」
東條は疲れ切った表情を浮かべながら現実を口にした。それは欧州において枢軸国の主導権を握るドイツが、そして彼の国に追従するフランスを始めとする枢軸構成国のほぼ全てが対米開戦を現時点において拒否したという事実に他ならない。もっとも日本としては織り込み済みであった。第三次近衛政権が最末期に残した遺産である日本枢軸加盟条約は厳つい外観と反して実質は骨抜きにされていた。交渉に当たった近衛政権の外相である松岡洋右はドイツ特使ハインリヒ・スターマーが主張する自動参戦条項を拒絶し、一見すると自動参戦条項に見える条約第三条を無効化する交換公文――第三条の対象となる攻撃か否かは協議の上決定されるという一文を認めさせていたが、それが効力を発した結果だった。
ドイツ主導の対米戦争が開始されることを危惧した松岡の努力はスプラトリー諸島海戦の事故処理として結ばれた日英間の東京条約や日ソ不可侵条約の遵守と共に声高にシンガポールの攻略やインド洋への艦隊派遣を求めるドイツの要求を跳ね除ける大きな切り札として機能していたが、それをドイツも利用したのだ。当たり前だった。自分から不利な戦争に頭を突っ込む馬鹿はそうそういない。
「しかし、それではアメリカ人はヒトラーを殴れない。」
永田は呆れ笑いを見せながらホワイトハウスから眺めた世界観で口にした。ルーズベルトはドイツが枢軸条約を理由に対米開戦することを見込んでいたようだが、それは目論見倒れに終わっていた。すなわち、合衆国政府が腹中で願う対独戦争への参加が一歩遠のいたということだった。これはルーズベルトにとって深刻な問題だった。このままではイギリスに貸し付けた債権を回収できないまま旧宗主国が消滅しかねない。
「当事者でなければ、ざまあみろと言ってのけるのですが。」
金貸しが最も恐れる結果の予感に堀はそう言ったが、それを制するように彼の四期上の先輩は薄い苦笑いを作りながら諌めた。
「一番割を食うのはアメリカの全戦力が向かってくる我々ですがね。」
真っ先に米軍の正面戦力とぶつかる海軍の責任者である永野はそう言うと短い溜息をついた。
「ともあれ、我々は独力で対米英戦争を長期持久しなければならない。」
雑談を仕切り直すために永田はそう言うと東條を始めとする出席者の全員が頷いた。
「永野軍令部総長、南方の敵艦隊はいつまでに撃滅できるとお考えか? 貴方の素直な感想が聞きたい。もちろん、雑談として。」
東條が永野にそう問いかけた。
「本当はGFの山本君や北海君に聞いて欲しいものですがね。」
そう付け加えながら永野は彼が考えられる範囲で常識的な数字を答えた。
「来年の秋までには。」
「それでは遅い。」
永野の答えに永田は即答した。彼は戦争遂行に伴いあらゆるものが不足する未来を的確に予言していた。それを解決する術は南方にしかない。
「主力艦隊はハワイで派手に戦果を上げましたが、それ相応に傷ついています。私も南方方面の重要性を存じておりますが、戦力が揃わなければなんともし難い。」
場の空気が詰まったその時、足元で毛むくじゃらの生き物が蠢いた。その生き物は飼い主に向かって雑談の最中など知ったことではないらしく、盛んに鳴き声を上げた。永田は何かを察したように席を立った。
「すみません、腹が減ったみたいで。」
ヒデキを抱きかかえた永田は同居人に夕食を用意してくると客人に伝えると部屋を去っていった。
「羨ましいでありますな。」
そう誰に言うわけでもなく東條は永田とヒデキが消えていった閉められた扉を見つめた。彼は遠い未来を想像しながら続けた。
「いつか平和になって、永田閣下の猫のように閣下と一緒に気楽に余生を過ごしてみたいであります。」
堀は誰よりも忠に厚い彼の小さな幸せを願わずにはいられなかった。
活動報告において「年内に更新する」と書いたものの、結局不完全なものですら年内に更新できなかったことをお詫び申し上げます。お待ちして頂いた皆様、申し訳ありませんでした。本当は少し遅れても納得のいくものを投稿したいと思っていたのですが、正月明けから12月以上に時間が取れなくなることが明白なため一旦、仮投稿として暫定状態ですが本文を更新しようと考えた次第です。
また、予告していたように今回の更新を持って、しばらくお休みとさせて頂きます。いつ再開するとは現時点ではわかりませんが、半年から1年後の再開になるのではないかと考えております。
加えて、本部分を始めとして幾つかの部分を加筆・訂正する必要があると考えております。そこで休止期間中に微々たる時間をやりくりして少しずつでも加筆していきたいと考えております。もし、非常に暇でどうしようもない時は本シリーズを思い出して頂いて読み直して頂けると幸いです。
では、再開する時まで少しの間お暇させて頂きます。




