用語集
※ 本作の用語集です。本編の進行に合わせて追加されていきます。
※ これは付録ですので、目を通さなくとも本編の進行に影響はありません。
※ 本編は「プロローグ1 西暦2576年」から始まります。
【更新情報】2016年3月23日 八八艦隊計画を追加
あ
アメリカ極東陸軍(U.S. Army Forces Far East/USAFFE):東アジアに駐留していたアメリカ陸軍及び親米国であった大韓共和国軍・フィリピン軍の合同部隊。一九三八年からは中華民国自治政府軍も加わっている。一九三六年にアメリカは植民地であったフィリピンの将来的な独立を決定し、それに備えフィリピン軍を創設した。またアメリカの強い影響下にある大韓共和国軍に対し軍事顧問団の派遣や武器の供与を行っていた。しかしながら、本格的な内戦へ突入していた朝鮮半島にアメリカが直接介入した一九三七年において大韓共和国軍では親北派であった高級将校による師団規模での寝返りや指揮系統の腐敗を原因とする兵員の脱走が相次いだ結果として兵力が絶対的に不足していた。そこで大韓共和国軍に残存している部隊をアメリカ軍の指揮下として運用し、兵力の不足をフィリピン軍の派遣によって補おうとアメリカは考え、これらを統括運用する司令部の設置が決定された。この司令部の指揮下にある部隊がアメリカ極東陸軍と呼ばれる多国籍軍である。指揮官にはアメリカ陸軍を退役した後にフィリピン軍元帥となっていたダグラス・マッカーサーを少将として(後に大将に昇進)任命した。これと合わせてフィリピン軍の大幅な増強が始まり、フィリピン軍は十一個師団体制に強化された。これによりアメリカ極東陸軍は大韓共和国軍部隊及び中国に展開していたアメリカ陸軍部隊を合わせて三十八個師団を有する大勢力となった。また一九三八年には日本が南京に設立した中華民国維新政府への対抗処置として上海で中華民国自治政府が発足されたことからアメリカは自治政府軍を創設し、これもアメリカ極東陸軍の指揮下に置いたことから最盛期には最大四十五個師団を有した。しかし一九三九年に大韓共和国内で反米愛国運動の激化とそれに伴うアメリカの朝鮮放棄の過程において大韓共和国軍四個師団に相当する兵力が消滅あるいは謀反の後にアメリカ軍によって討伐されたこともあり、第二次世界大戦が太平洋戦域まで広がった一九四一年には総兵力は三十八個師団となっていた。なお謀反しなかった、あるいは謀反に失敗した大韓共和国軍部隊は米軍部隊に吸収されている。日米開戦時においてもアメリカ極東陸軍は依然として大兵力であったが、その実像は小銃を始めとするあらゆる兵器が不足し、訓練もままならない状況であった。
う
ヴィルヘルム二世の遺産:第一次世界大戦前、もしくはその戦中に建造され、第一次世界大戦が終結した後も残存していたドイツ海軍の戦艦、または巡洋戦艦を示す言葉。艦隊拡張を推し進めたドイツ皇帝ヴィルヘルム二世に因む。ヴェルサイユ条約によって基準排水量一万トン以上の艦艇の新造が禁止されたドイツにとって、第一次世界大戦を生き残った大型艦は貴重な存在であり、断続的に改装が行われている。一九三三年にヴェルサイユ条約を破棄し、大型新造艦がドイツ海軍に編入され始めた後もこれらの戦艦はドイツ海軍にとって重要な戦力の一翼を成している。
ヴィルヘルム二世の遺産と呼ばれる艦艇は以下の通りである。
ガイザー級 カイザー/フリードリヒ・デア・グローセ/プリンツ・レゲント・ルイポルト/ケーニヒ・アルベルト
ケーニヒ級戦艦 ケーニヒ/マルクグラーフ
バイエルン級戦艦 バイエルン/バーデン/ザクセン/ヴュルテンベルク
マッケンゼン級巡洋戦艦 マッケンゼン/プリンツ・アイテル・フリードリッヒ
ヴェルサイユ条約:史実より一年遅い、一九二〇年に調印された連合国とドイツの講和条約。この条約内容を交渉していた最中にドイツ皇帝ヴィルヘルム二世が亡命し、ドイツ帝国が崩壊したことから締結者はドイツ共和政権となった。第一次世界大戦が連合国優位の停戦で終結したことから条約内容はドイツに課す制限の列挙が主な内容となった。この条約によりドイツは本国周辺の領土の一部と海外植民地の全てを放棄し、また二十年間の大型艦建造禁止と軍用航空機の開発禁止が命じられたが、陸軍兵力の制限等はなかった。戦争責任についても条約中の文言は追求していない。本条約は史実よりも二年早い一九三三年、ドイツの軍備制限の撤廃宣言により死文化。一九三九年にドイツ軍がポーランドに侵攻し、条約の効力は完全に消滅した。
お
乙巡(おつじゅん):乙巡洋艦とも。史実における軽巡洋艦に類する艦艇を指す。ワシントン海軍軍縮条約が決裂した本作においては国際的に定められた巡洋艦の類別はなく、乙巡は大日本帝國海軍が独自に定めた二等巡洋艦を示す通称であり、正式名称ではない。一等巡洋艦の通称が甲巡と定着したことから、二等巡洋艦の通称が乙巡となった。水雷戦隊の旗艦任務を主とし、自らも水雷戦を行うため魚雷を主兵装とする。
オラン戦争:一九三七年、フランス領アルジェリアのメルセルケビール軍港に停泊していたフランス艦隊をイギリス艦隊が攻撃したことにより発生した英仏間の紛争のこと。メルセルケビール軍港がアルジェリア、オラン県にあることからオラン戦争と名付けられた。将軍達の反乱によりフランスが全体主義国家へ転換することを予期したイギリスは本国と植民地を結ぶシーレーンがフランスによって封鎖されることを危惧し、先制的にフランスの海上兵力に打撃を与えようとした。また、インドとの連絡線を寸断できる位置にあるマダガスカル及びオーストラリアとの連絡線を寸断できる位置にあるニューカレドニアの占領を目標とした。マダガスカル及びニューカレドニアに駐留していたフランス軍は無血開城したが、メルセルケビール軍港に停泊していたフランス艦隊は激しく抵抗。イギリス艦隊の旗艦であった巡洋戦艦フッドを中破させている。両国とも新たな軍事行動を控えたためオラン戦争は早期に収束したが、フランスは仇敵イギリスの認識を改めて強め、ドイツとの相互防衛条約の締結へと至る。
こ
甲巡(こうじゅん):甲巡洋艦とも。史実における重巡洋艦に類する艦艇のこと。ワシントン海軍軍縮条約が決裂した本作においては国際的に定められた巡洋艦の類別はなく、各国が独自の基準をもって呼称している。甲巡は大日本帝國海軍が定めた一等巡洋艦を示す通称であり、正式名称ではない。大日本帝國海軍にとって初の甲巡となった妙高型巡洋艦が就役した際に「既存巡洋艦以上、巡洋戦艦以下」という評価から装甲巡洋艦に近い艦艇であるとされ、それが転じて甲巡という通称が定着した。砲撃を主とし、自艦の主砲に対応する装甲を有するが雷装は持たない。夜戦における火力支援を主任務として建造された。なお、一等巡洋艦の通称として甲巡が定着した結果、二等巡洋艦の通称として乙巡も定着した。(決して、飲むヒアルロン酸ではない)
国共内戦(こっきょうないせん):中国国民党と中国共産党との間で行われた内戦のこと。それまで両者は北京政府及び軍閥に対抗するために共同戦線を持っていたが、一九二七年に蔣介石が上海クーデターを決行したことから共産党が武力蜂起し、内戦が始まった。当初、蔣介石率いる国民党軍はドイツからの支援もあり、内戦を有利に進めていたが満州事変などを契機として抗日より赤化根絶を優先させる姿勢に疑問を唱える声が次第に国民党軍内で大きくなっていった。しかし蔣介石の赤化根絶姿勢は変わらず一九三四年には共産党本拠地である瑞金の占領に成功、翌年には退却していた共産紅軍を貴州省遵義にて包囲した。蔣介石は国民党軍の兵力をほとんど投入し、遵義に籠城する共産紅軍に対し攻撃を開始したが、共産党の指導者であった毛沢東はソ連より秘密裏に入手した化学兵器を使用し、国民党軍に大打撃を与えることに成功。蔣介石は戦力のほとんどを失い、遵義から撤退した。この遵義戦役の大敗に国民党内部では一気に和平論が噴出したが、蔣介石は頑としてこれを拒否したため、国民党の有力者である汪兆銘が南京にて新政府を樹立。蔣介石は武漢を本拠地とし、南京新政府と完全に決別し、また、沈黙していた各地方の軍閥が再び活発化する等混乱は広がった。加えて共産党との停戦を主張する張学良が蔣介石を監禁の後、共産党へ引き渡し、毛沢東が独断で蔣介石を処刑した西安事件を受け、更に混乱は激しさを増した。この混乱に乗じて共産党は農村部を中心に急速に勢力を広げ、一九三六年には北京を首都とする中華人民共和国が成立するに至った。
し
シェーア・ショック:ヴェルサイユ条約によって二十年間の大型艦建造禁止を課せられていたドイツが一九三三年、軍備制限を放棄、リュッツォウ級装甲艦を就役させたことをきっかけとして列強海軍に大型巡洋艦、また中型高速戦艦の多数建造を引き起こしたことを指す。ドイツ海軍はバルト海の制海権を獲得するために仮想敵となる北欧諸国の海防戦艦及びソ連の弩級戦艦を圧倒しうる艦艇を求めたが、英仏等への刺激を可能な限り少なくするために第一次世界大戦に活躍した旧来の巡洋戦艦に準じる性能に留め、また巡洋戦艦という言葉を避け、新たに装甲艦なる類別を設定した。しかし、実体以上に注目が集まった結果、英仏がこれら装甲艦を圧倒しうる中型高速戦艦、また装甲艦に類似する性能を持つ大型巡洋艦の新造を決断したことにより、米ソ伊日海軍がこれに追随、中型高速戦艦及び大型巡洋艦が競いあうように建造される事態となった。なお、一番艦であるリュッツォウではなく、二番艦であるアドミラル・シェーアの名が取られた理由は、二隻の竣工が同日であったためシェーアが一番艦であると誤認されたとも、「リュッツォウ・ショック」より「シェーア・ショック」の方が言いやすいからとも言われている。
将軍達の反乱(しょうぐんたちのはんらん):スペイン内戦の最中である一九三七年にフランスで発生した国粋派によるクーデターを指す。史実でも同じ名称のクーデター事件が発生しているが、発生年及び内容が全く異なる。独伊の支援を受けたフランコ率いるスペイン国粋派が優位に戦線を進める中、一度は拒絶したものの、フランス共産党の強烈な圧力に義勇軍の派遣を決定したブルム首相率いる人民戦線内閣に反感を抱いたフランス軍部の国粋派がクーデターを決行。パリはクーデター軍に占拠され、人民戦線内閣は崩壊した。このクーデター事件によりフランス第三共和政は終焉を向かえ、ペタン将軍を首相としたフランス統制政府が発足した。このクーデター自体はごく短時間に行われ、大きな被害も出ないまま終了したが、大きな警戒感を抱いたイギリスが仏領アルジェリア、メルセルケビール軍港を襲撃したことからオラン戦争に発展する。なお、クーデターによって危機を感じたフランス左派政党はイギリスの支援を受け、フランス領インドシナに脱出、フランス=インドシナ共和国の独立を宣言した。
す
スプラトリー諸島沖海戦:大日本帝國海軍の支那方面艦隊とイギリス東洋艦隊の間で発生した海戦。一九四〇年、インドシナ・ソビエト軍によりタイが侵略を受けたと情報を得た大日本帝國は南シナ海にあった支那方面艦隊をタイへ向かわせていた。その途上、タイ外相代行が侵略行為はインドシナ・ソビエトのみならずイギリスも関与していると声明を発表したこと(後に外相代行の誤認であったと判明)、また大日本帝國と密接な関係にあった中華民国連邦海軍に属する巡洋艦「寧海」が英国東洋艦隊から攻撃されたことが判明した。大日本帝國は英国がタイに対して侵略行為に及んだことを断定し、「寧海」が攻撃を受けたことから中華民国連邦に対して既に攻撃が加えられたこと、そして中華民国連邦の防衛は大日本帝國の黙示的義務であることを確認した近衛首相は帝國海軍に報復を命令した。この命令に基づき、帝國海軍の空母艦載機が「寧海」を攻撃する英軍駆逐艦を撃沈し、さらには夜戦においてイギリス巡洋戦艦「レジスタンス」を撃沈した。前哨戦に勝利した帝國海軍であったが、両艦隊の主力であった戦艦同士の交戦で敗北し、海戦は終わりを迎えた。海戦終結後にイギリスが侵略行為を行っていないとが判明したこと、そして支那派遣艦隊が惨敗したことから近衛内閣は総辞職。後任の東條首相は海軍に問題があることを確認し、融和を望んだ。また、ドイツと開戦し、本土防衛に必死なイギリスも穏便に事件を終結させたいとの意向から両者の意見が一致。東京条約によって両者は互いの損害に対して補償を行うことを約束した。なおその後、大日本帝國はフランス統制政府の承諾を得て仏印進駐を敢行。インドシナ・ソビエト共和国の全土を占領した。
そ
外南洋事変(そとなんようじへん):一九三六年に大日本帝國とオーストラリアの間で発生した外南洋群島領有を巡る武力衝突。広義の外南洋はミクロネシア・メラネシア・東南アジアの島嶼部を指す言葉だが、この場合は旧ドイツ領ニューギニアを構成する外南洋群島(ニューブリテン島・ニューアイルランド島・アドミラルティ諸島)を指す。外南洋群島は第一次世界大戦においてオーストラリア軍により占領されたが、ヴェルサイユ条約により大日本帝國の委任統治領となった。これにオーストラリアが反発していたが、イギリスが日本へ委任することを支持したため、これを不本意ながら受け入れていた。(イギリスは欧州戦線に少なくない戦力を派遣した日本を高く評価していた)しかしながら、一九三〇年代に満洲問題を通し日英関係が悪化するに従ってオーストラリアの失地回復運動が激化、加えて冀東防共自治政府の処遇を巡って一九三五年に大日本帝國が国際連盟を脱退したことにより、オーストラリアは大日本帝國が不法に委任統治領を占拠している状態であるとして、大日本帝國に対し外南洋群島の明け渡しを要求した。これに対し、大日本帝國は委任統治が国連創設に先立つベルサイユ条約で決定されたものであり、大日本帝國がベルサイユ条約批准国である限り委任統治する権利を有すると主張した。これら論争の最中である一九三六年、ニューブリテン島の二つの火山が噴火し、ラバウルは死者五百名を超える大きな被害を受けた。この災害に対し、オーストラリアは統治主権に基づきオーストラリア軍を災害派遣すると宣言。陸軍部隊が乗船する輸送船に加え、これを護衛する戦艦オーストラリア及び三隻の駆逐艦からなる艦隊をラバウルに向けて進発させた。大日本帝國は一連の行動を災害を名目とした軍事行動であるとしてオーストラリアに中止を求めると共に、帝國陸海軍に阻止を命令した。しかしながら、ラバウルに駐留していた帝國陸軍守備隊は極小数であり、また海上兵力は偶然にも習熟航海のためマヌス島ゼーアドラー湾に寄港していた甲巡足柄のみであった。足柄艦長であった北海海軍大佐(当時)はオーストラリア軍進発の報を受け、阻止が下令される以前に独断で行動を開始していたためニューブリテン島沖合にてオーストラリア艦隊の捕捉に成功、オーストラリア艦隊に対し直ちに帰還するように求めた。しかし、オーストラリア艦隊は足柄の呼びかけに一切応じず、ニューブリテン島近くまで迫っていたため、足柄は牽制行動をとる駆逐艦に接近し、進路を遮ることにより進路を変更させようとしたが、至近距離に接近した足柄に畏怖した駆逐艦砲員が独断で足柄に対し射撃を行ったことから戦闘に発展した。足柄は攻撃した駆逐艦、また共同して攻撃を開始してきた戦艦オーストラリア及び駆逐艦一隻を撃沈すると共に駆逐艦一隻を退避せしめた。事変後、緊急招集された国際連盟会議においてオーストラリアは足柄による先制攻撃を強く主張したが、帝國海軍が足柄から事変の一部始終を撮影していた映像フィルムを提出、また大日本帝國はイギリスとレディバード号戦争を戦っていた中華人民共和国に加担する兆候を見せたため、大日本帝國はレディバード号戦争で中華人民共和国に対して一切の援助をしないことを約束し、イギリスは統治委任はヴェルサイユ条約によるものであるとする大日本帝國を支持する取り決めを行い、領土紛争は終結に向かった。なお、オーストラリアは海軍戦力の増強を痛感し、イギリスに対して戦艦三隻の建造を発注した。
た
タイ動乱:タイに侵攻したインドシナ・ソビエト軍とタイ軍との戦闘、またタイに進駐しようとしたイギリス軍とタイ王国軍の間で発生した紛争。一九四〇年、インドシナ・ソビエト共和国がタイに対して侵攻を計画していることを察知したイギリスはタイに警告と同時にイギリス軍の進駐を求めたが、タイはこの申し出を拒否していた。同年、インドシナ・ソビエト軍がタイ国境を越境したため、イギリス軍は救援のためマレー方面軍と東洋艦隊をタイへ派遣した。しかしながら、混乱したタイ政府は機能不全を起こし、前線ではイギリス軍がインドシナ・ソビエト軍と共謀して侵攻を図ったという情報が蔓延し、タイ王国軍はインドシナ・ソビエト軍のみならずイギリス軍に対しても攻撃を行った。この混乱はイギリス東洋艦隊がカムラン湾沖合にて中華民国連邦海軍に所属する巡洋艦「寧海」をソ連艦船と誤認し、これを攻撃した事件、またタイ政府外相代行がインドシナ・ソビエトとイギリスによる侵攻を受けたと宣言したことから事態は更に混乱し、寧海を救援するために派遣された大日本帝國海軍とイギリス東洋艦隊の戦闘(スプラトリー諸島沖海戦)に発展する。なお、タイ王国軍の攻撃を受けイギリス陸上部隊は撤退し、タイは一時的にほとんどの領土をインドシナ・ソビエト軍に占領されたが、その後本格介入した大日本帝國軍により国土の回復に成功した。なおその後、インドシナ・ソビエト軍は大日本帝國の仏印進駐により壊滅している。
大韓共和国(だいかんきょうわこく):一九三二年に大日本帝國から分離独立した朝鮮半島全域を領有する国家。満洲事変により国際的に孤立が予想された大日本帝國は欧州列強各国に対し、満洲国の存続は国際連盟が標榜する民族自決の原則そのものであり、また帝國にとって国防及び権益の観点から満洲国は必要不可欠であると表明する一方、赤字経営であった朝鮮を分離独立させ、その市場を解放する用意があることを伝えた。これに大恐慌を受け、新たなるアジア市場を求めていたアメリカは賛同。アメリカの外交努力により国際連盟は参加国の賛成多数により民族自決の原則に従い満洲国及び朝鮮における新国家の独立を承認し、これにより大韓共和国政府が設立された。朝鮮独立に伴い当時のアメリカ国務長官スティムソンは朝鮮における実質的主導権と市場をアメリカが独占することに日本が協力し、その代価としてアメリカは日本に対し関税の譲歩及び工業技術援助を約束した幣原・スティムソン協定を結んだことにより、アメリカは朝鮮における主導権を手にした。強烈な反日を国是として国民の団結を図った大韓共和国はアメリカの強大な資本を得て急速に発展。これは後に「漢江の奇跡」と呼ばれる高度経済成長として知られている。しかしながら中華人民共和国の成立に影響を受け、共産ゲリラの活動が一九三六年頃から活発化。共産ゲリラの活動により北部には朝鮮人民共和国を名乗る社会主義政権が翌一九三七年には大韓共和国からの独立と宣戦を布告している。アメリカによる莫大な支援にも関わらず戦意不足による敗走を続ける大韓共和国軍に業を煮やしたアメリカは大韓共和国軍の統帥権を現地アメリカ軍司令官に移譲すると同時に、大日本帝國の承諾もあり朝鮮に対して直接介入を開始、韓国戦争と呼ばれる戦役が始まった。また共産ゲリラの後ろ盾となる中華人民共和国に対してもイギリスが戦うレディバード号戦争に加わり、これを攻撃している。程なくして盧溝橋事件により北京周辺が大日本帝國軍によって占領されたことから朝鮮半島内の共産ゲリラは補給線を失い一気に衰退。アメリカは一九三八年には朝鮮人民共和国への勝利宣言を行った。しかし、この内戦による被害は大きく、主要工業地帯の大半が焼失した大韓共和国の国力は著しく低下。国内では程なくして共産ゲリラ残党の扇動もあり「反米愛国運動」と呼ばれる市民運動が拡大し、ソウル(旧名、京城)にてアメリカ民間人数百人が無差別に集団殺害されるソウル虐殺事件(大韓共和国側名称、反米愛国発起事件)が発生するに至った。加えて大韓共和国政府は「加害者の特定は無意味かつ愛国無罪」とする宣言を行い、朝鮮では同様の事件が規模を問わず頻発した。これに対し、アメリカ国民は憤慨。遂にアメリカ議会はルーズベルト大統領の反対を押し切って在韓米軍の全てを撤退させる決議を行った。在韓米軍及び在留した米国民の帰国を支援するために大韓共和国に派遣された米軍部隊と大韓共和国軍の間で断続的に交戦があったが、アメリカ軍は都市攻撃を含む手段を用いて、多くのアメリカ国民の脱出を成功させた。アメリカ軍全面撤退の後、しばらく大韓共和国内では「排米万歳」をスローガンに国内は団結していたが、変わらず厳しい生活や相次ぐ増税により再び国内の治安は悪化。折しも大韓共和国政府内部に浸透していた親ソ連派と愛国派の内紛が拡大し、国内の警察能力がほぼ停止したことから国内は無法地帯と化し、多数の難民が発生した。また治安崩壊に伴い比較的安定していた南部が一九三九年に南朝鮮国を名乗り独立を宣言。翌、一九四〇年には対馬及び九州に押し寄せる難民の対処に手を焼いていた大日本帝國が南朝鮮国政府の合意を得た併合を宣言し、南部は通称任那日本府と呼ばれる日本の自治領となった。一方、南部を除く朝鮮では、主な海外からの密輸ルートであった南部港湾に帝國陸海軍が駐屯し、密輸が満洲もしくはソ連からの陸路のみとなったことからあらゆる物品が不足、深刻な飢餓が発生していた。また日ソ不可侵条約締結以後は見返りとしてソ連が朝鮮に対する密輸の取り締まりを強化したことから食糧不足は深刻化。かつてアジア最先進国と言われた国家の面影はどこにもなかった。一九四一年において、深刻な飢餓とソ連からの支援の途絶により大韓共和国内部の愛国派・親ソ連派は双方とも疲弊し、その政府実権は親ソ連派ながらも主流派とは距離を置いていた金日成に徐々に移りつつあった。
ち
中華民国連邦政府:一九三九年に日本占領下にあった南京にて成立した政権。一九三七年に北京で成立した中華民国臨時政府、一九三八年に南京で成立した中華民国維新政府が結集して誕生した。一九三六年に中華人民共和国が誕生して以来、国民党は名実ともに消滅していたが、その名は中国大陸における正統政府を主張するには十分であった。日本が朝鮮における米国の利益に協力することを約した幣原=スティムソン協定が結ばれた一九三二年以降日米は貿易・移民問題等を抱えながら概ね友好関係にあったが、一九三七年に就任した近衛首相はアジアにおける指導者は大日本帝國でなければならないと確信。盧溝橋事件からなし崩し的に発生した支那事変の収束に失敗した近衛首相はこれを契機に中国大陸における日本の影響力を強靭なものにすべく親日地方政権の樹立を命じ、一九三七年に北京で中華民国臨時政府を発足させた。この政策は英米に大きな対日脅威論を引き起こし、一九三八年に親英米政権である中華民国自治政府の樹立に繋がるが、近衛首相は中国大陸における日本の指導権確立と英米との友好関係の維持は両立できると考えていた。同年、南京を中心とする中華民国維新政府を設立させると英米はさらに態度を硬直させ、両国は強く日本の大陸政策を批判。翌一九三九年には英米が中華民国南京政府首班であった汪兆銘を中華民国自治政府主席とし、正統性を強く主張した。これに対して近衛首相は強い危機を覚え、中華民国自治政府を上回る正統性を有する中央統一国家を建設しなければならないと考え、中国大陸全域を統治すべき存在として地方政権を発展させた中華民国連邦政府の成立を指示した。国家主席は西安事件で処刑された蒋介石を父とし、中華人民共和国において軟禁状態にあった蒋経国とした。米英が中華民国自治政府に対し、大規模な経済的支援及び軍事支援を行ったため日本も同様の支援を行ったが、その規模は小さい。また、日本が行う中華人民解放軍の掃討作戦に対して連邦軍を派遣する等の協力を行っているが、蒋経国はあくまでも人民解放軍に対する作戦行動のみ日本を共同交戦国として扱うと明言し、日本と相互防衛条約を締結していない。一九四〇年には南シナ海で行動中だった巡洋艦「寧海」が英国東洋艦隊から誤射される事件があり日本も巻き込んだスプラトリー諸島海戦に発展したが、蒋経国は英国に対して損害賠償のみを求めるに留まった。
中華民国自治政府:一九三八年に英米占領下にあった上海で設立された政権。遵義戦役の大敗、また蒋介石率いる武漢政府と汪兆銘率いる南京政府の分裂により極めて弱体化した国民党は西安事件によって蒋介石を失い、また暗殺には失敗したものの狙撃により重傷を負った汪兆銘が治療のため欧州へ渡航したことにより指導者を失い、両政府は国共内戦に敗北した一九三六年の時点で実質的に崩壊していた。また中華人民共和国成立後に国民党は存在そのものが非合法化され、名実ともに国民党は消滅した。しかし、レディバード号事件を契機として中華人民共和国と交戦状態となった英米は国民党政権を復活させ、内外に自らの正当性を証明することを計画。盧溝橋事件を契機に中華人民共和国と紛争状態になった大日本帝國が北京周辺部を制圧、ここに中華民国臨時政府と呼称される地方政権の樹立を支援したため、対抗のため英米もこの計画の実行を急ぎ、現地実力者を中心とする新政権を英米の占領下にあった上海にて成立させ、これを中華民国自治政府と称した。同年、大日本帝國が南京を占領。同地を中心とする地方政権である中華民国維新政府を発足させたことから英米(特に米国)は日本政府に対し、地方政権の樹立が中国の分断に繋がると抗議する一方で、翌年には欧州に滞在していた汪兆銘を政府主席とし、中華民国自治政府こそが中華民国の正統後継者であると主張した。また米国は中華民国自治政府と米華相互防衛条約を締結し、米国による多額の経済援助及び武器のレンドリースの見返りとしてレディバード号戦争に英米陣営として参戦した。中国抗日戦争(中華民国自治政府側呼称・日本側呼称、大東亜戦争)を迎える一九四一年には中華民国自治政府軍は多数の歩兵師団と少数ながらも強力な英米製兵器を受領した機甲部隊と航空隊を持つ強力な陸上戦力を手に入れていたが、英米によって半ば首を強引に汪兆銘へすげ替えられた形となった現地実力者と汪兆銘一派の軋轢、また軍内に蔓延していた地縁・血縁を原因とする軍紀の乱れ等が深刻化していた。
は
八八艦隊計画:日本海軍が1920年代から30年代にかけて行った戦艦八隻及び巡洋戦艦八隻を中心とする一大海軍拡張計画である。第一次世界大戦期において日本海軍は当時世界最新鋭の【扶桑型戦艦】及び【伊勢型戦艦】を手に入れ、強力な高速打撃戦力である【金剛型巡洋戦艦】も有していた。しかしながら、度重なる欧州における作戦行動で【河内】を始めとする旧世代戦艦の多くを失った帝國海軍はその戦力を補填するのみならず、勢力の拡大が著しいアメリカ海軍に対抗可能な海軍力の構築を目指し、新たなに大規模な海軍拡張計画の実行を試みた。これが八八艦隊計画である。帝國海軍はこの計画に従って40センチ砲搭載型戦艦多数の建造に取り掛かったものの、ワシントン海軍軍縮会議に日本も出席したことから計画艦の建造が長期間停止となった。紆余曲折を経てワシントン海軍軍縮会議が決裂した後に計画は再始動されたが、今度は関東大震災の影響で海軍予算が大幅に減額され、再び長期計画停止を余儀なくされた。このように前途多難であったが、一九三〇年代前半には仮想敵であるはずのアメリカとの関係向上が日本のさらなる経済発展を推し進め、それまで計画段階で停止されていた艦艇の建造が相次いで行われた結果、一九三〇年代後半には最終計画艦である十三号級巡洋戦艦改め【筑波型巡洋戦艦】が竣工を迎え、ついに帝國海軍は長年の悲願であった艦隊拡張を成し遂げることができた。しかしながら、八八艦隊計画艦が完成を迎えた一九三〇年年代後半は各国が競って軍拡に努めていた時期でもあり、列強国との海軍力の差は縮まったとはいえ、その差は未だ大きかった。なお、計画の開始から終了までかなり長い期間がかかってしまったため、艦艇建造計画は開始時と終了時では大きく変化し、厳密に言えば同一の艦隊整備計画と言えないが、予算の関係から八八艦隊の名称が最後まで用いられている。同計画の中心は戦艦を始めとする水上戦力だが、これらは関東大震災前までに予算の配分及び建造が始まっていた艦艇とそれ以後の艦艇にわけられることが多く、前期計画艦と後期計画艦と呼称されることが多い。以下、八八艦隊計画で建造された主要艦艇である。
前期計画艦:長門型戦艦・加賀型戦艦・天城型巡洋戦艦(2隻のみ/3番艦は損傷大のため廃艦・4番艦は予算撤回のため建造停止)
後期計画艦:葛城型巡洋戦艦(天城型3番艦代艦・4番艦予算で建造)・駿河型戦艦(9号艦級)・筑波型巡洋戦艦(13号艦級)
ふ
フランス・インドシナ共和国:一九三七年にインドシナで成立した共和制国家。本項ではクーデター後の体制であるインドシナ・ソビエト共和国についても扱う。将軍達の反乱によってフランス本国から脱出した左派政治家は逃亡先であるフランス領インドシナをイギリスの支援を受け占領、ハノイを首都とする共和制国家を設立した。フランス・インドシナ共和国の独立を受け、フランス本国において政権を獲得した統制政府はインドシナ奪還を画策したが、それを察知したイギリスが統制政府に外交圧力をかけ、またフランス・インドシナ共和国の許可を得てイギリス軍を駐屯させたことから、統制政府は奪還を断念した。当初、フランス・インドシナ共和国の主導権は社会党が握っていたが、共産党の影響が強くなり、社会党政権は急進共産主義者の排除を進めた。しかし、この排除は共産党の危機感を強く刺激し、ソ連及び中華人民共和国の支援を受けた共産党が一九四〇年にクーデターを決行。国号をインドシナ・ソビエト共和国へ変更し、社会主義国家となった。なお、駐留していたイギリス軍は長期消耗戦となったレディバード号戦争に大きく兵力を抽出していたため、クーデターを傍観するのみに終わり、その後ビルマへ後退している。クーデターに成功した共産党だったが、統制政府がフランスの主権をインドシナにおいて承認することを条件に大日本帝國がインドシナ全域に進駐することを許可したことから、帝國陸軍が上陸。インドシナ・ソビエト軍と戦闘になり、これを武力にて制圧。インドシナは大日本帝國の占領下に置かれたが、占領した帝國陸軍は共産ゲリラの断続的襲撃に悩まされた。
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レディバード号戦争:一九三六年に中華人民共和国とイギリス・アメリカの間で発生した戦争。国共内戦末期に大使館員避難を援助するため長江を上海から南京に向かっていたイギリス海軍砲艦レディバード及びアメリカ海軍砲艦パナイを中心とする数隻が中華共産紅軍から攻撃を受け、更には拿捕された。中華人民共和国は許可無く内水を行動する他国軍艦を懲罰することは当然の権利として英米に対し全面的な謝罪を要求し、イギリス・アメリカは中国における唯一の合法政府である中華民国の許可を得た行動であると反論。交渉は決裂し、チャーチル首相は艦隊を中国沿岸に派遣し、報復攻撃を行ったことから武力紛争が発生した。当初、英軍は空爆を中心とし、陸上戦力を投入しない方針であり、人質となった乗員と大使館員の解放を促すものであったが、紅軍が人質を処刑したこと、また英領ビルマ・チベットに紅軍が侵入したことを契機として英軍が華南の主要都市(昆明・成都・重慶・南寧等)を占領し、両国の戦闘は一九三七年頃から本格化した。当初攻撃はイギリスのみであったが、後に朝鮮問題によりアメリカも参戦している。また上海租界に対し無差別爆撃が行われたことから米英軍は上海及びその周辺都市を占領した。また盧溝橋事件を契機として同盟関係ではないが(米国は日本領旅順軍港の使用と引き換えに大量の軍需品を供与)大日本帝國が参戦し、中華人民共和国は中国沿岸部のほとんどを喪失、首都を延安に移した。しかしながら、米英日軍支配地域内ではゲリラ攻撃が頻発。大日本帝國は沿岸主要地域を制圧した後は特段目立った行動をしなかったが、ゲリラ攻撃断絶のため中華人民共和国の臨時首都である延安を繰り返し空爆し、また中国奥地で掃討作戦を繰り返した米英だったが、便衣戦術を駆使する見えない紅軍に対する戦闘は泥沼化していた。開戦から五年経った一九四一年、大日本帝國と米英が交戦状態となり、大日本帝國軍は大陸打通作戦を行ったことから米英は一九四二年中に上海・南寧を喪失。戦力も大きく損なわれたことから米英軍はビルマ及びチベットへ後退。レディバード号戦争は明確な終結がないまま終息していった。なお、英米日、そして中華人民共和国は宣戦布告を行っていないため厳密には国際法上の戦争ではない。