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日鐘第二高等学校3年A組 大宝寺泰雅(3)

 暑すぎて、そろそろ干乾びる。全身から汗が噴き出すのを感じながら、俺は足を引きずるようにして歩いていた。廊下の窓からトイレの窓に至るまで、外に通じる場所はほとんどすべて開放しているというのに、申しわけ程度の風が少し入ってくるだけだった。こんなんじゃ風鈴も揺れないっての。湿気を含んだ蒸し暑さと、夏休みだというのに補習で学校に狩り出される気だるさで、俺の苛々は既に最高潮だった。

 だいたいこんなレベルの低い高校で、四年生大学進学に向けて張り切る時点で間違っているのだ。それも名前が書けたら誰でも入れるような三流大学ではなく、卒業すればなかなかの高学歴と評される、割と知名度の高い学校を狙っている。この高校はレベルがレベルだし、基盤のしっかりとした企業に就職できたら上々だろう。だから俺は就職希望でいいのに、社会人になって柔道をやめるのはもったいないとか、学生として柔道に専念したほうがいいとか、そもそも不景気で就職先がないとか、周囲が勝手なことばかり言う。

 そんなに俺に柔道続けて欲しいかよ。周りが思うほど、俺は柔道好きじゃないんだよ。俺の人生は俺が決めるんだよ。頭の中でそんな思いを張り巡らせながら、鞄を肩に担いでさっさと歩く。でも俺は、こうして大人が言うように補習に来ているわけで、行く気のない大学に進む準備をしている。夏休みが始まる前の三者面談では、俺がなにか言う前に母さんが喋った。勝手に先生が対応した。俺の話なのに、俺が入り込む余地がなかった。はっきりと自己主張しないから、俺はずっと流された生き方をしている。柔道で日本一の座を守り続けてきたことが、誇りじゃないわけじゃない。でも、結局のところ、それも俺の惰性が導いた結果だった。俺は柔道をやめたかった。みんなが期待する柔道を放り捨てれば、初めて自分として生きられるかもしれないと思っていた。でも、思っていただけで行動しなかった。だからなにも変わらなかった。

「そんなのってありかよ」

 ぼそりと呟いた。ありだよ、と心の中で答えた。実際あるんだからありだ。一人会話。とりあえず学校には出てきたものの、教室で机に向かうのがかったるくて、鞄を持ったままなんとなく理科室前まで来て、ひとり会話。虚しかった。

 さぼるなら、どうせなら冷房の効いた部屋がいいな。そんなことを思いながらも、気の利いた部屋は職員室と校長室とパソコン室くらいしかないことはわかっていた。職員室と校長室は論外だし、パソコン室は別のクラスの連中が使っているので、到底さぼりなんてできない。今のこのご時世、学校の限られた空間にしか冷房がついてないってどういうことだ。所詮は公立、貧乏ってか。そういう問題じゃないだろうが。脳内ひとり会話。またしてもちょっと虚しくなりながら、理科室の扉を勢いよく開けた。開けた瞬間、かしゃんと物が床に落ちるような音がした。先客がいたことにちょっとびっくりして、その先客が一体誰なのかということに対して、俺はもう一度びっくりした。

「七瀬、かよ」

 七瀬もすぐに俺だとわかったらしく、頼りなく笑って見せた。七瀬は理科室のグループ机の上に座っていて、その隣には、なにひとつとして飾りがついていない通学鞄が置かれていた。少し前、七瀬の鞄には可愛らしいクマのマスコットがぶら下がっていたのだが、いつからかそれはなくなっていた。理由を訊くと「ほかのにつけた」なんて言っていたけど、実際のところどうなったのかは知らない。

 七瀬は机から降りて、身を屈める。さっきの音は、七瀬が手から携帯電話を滑らせた音だったらしい。そんなにびびるか。まあ、びびるか。補習にしろ部活にしろ、理科室が夏休みに生徒に利用されることはないし、そこに生徒がいるのなら、そいつはさぼり以外の何者でもない。それにこの高校では、携帯電話の持ち込みは禁止だ。無論、持ち込んでいない生徒なんて誰ひとりとしていない。でも、少なくとも先生の前で取り出すことはない。七瀬はさぼりの上に、堂々と携帯電話をいじっていた。いきなり誰かがやってくれば、飛び上がるのも納得できる話だった。

「大宝寺がさぼるなんて珍しいじゃん」

 携帯電話を片手に、再び机の上に座りながら七瀬が言う。俺は後ろ手で入り口の扉を閉めて、七瀬の鞄の横に腰かけた。普通に椅子に座るよりも、この机のほうが高さがあってちょうどよかった。

「学校にいるってことは、補習に来てるんだよな。大学、行きたいんだ」

「行きたい奴がさぼるかよ」

 ぶっきらぼうに俺が答えると、七瀬はきょとんと瞳を開く。当然の反応だと思う。

「じゃ、なんで補習に来てんの」

「俺が訊きたい。俺、なんで大学希望ってことになってんだよ」

「いいと思うぜ、大学。授業は自分で選べるし、高校生よりも時間が増えるし、でかいし、サークルって楽しそうだし、学食美味そうだし」

「七瀬は大学に行くのかよ。V系メイクの専門学校に行って、デビューした弟のメイクをしてやりたいって言ってなかったっけ」

 確か七瀬は、そんなことを言っていた。そんなに遠い過去の話でもない。訊ねると七瀬は、携帯電話を手に持ったまま、誤魔化すようにして笑った。そのまま困ったような口調で答える。

「成績最悪な上に欠課が多すぎて、進学どころか卒業もできないって担任に言われちゃってさ。夏休みに大学希望者用の補習があるから、それに出て単位稼げ、だって。今まで普通に進級してきたのも奇跡に近いって言われちゃったぜ」

「それって、かなりまずいんじゃないかと思うけど」

「うん、まずい。でも、なんか居心地よくなくて」

 七瀬の一言は、なんとなく重かった。この話題を続けたくなかった。話を逸らそうと頭の中でキーワードを探る。無趣味な俺に、振れる話題なんてあるはずもなかった。

「実際のところ、大宝寺は卒業した後どうしたいわけ」

「実際のところ?」

「大学に行きたいわけじゃないんだろ。なんとなく進学しときますってタイプでもないと思うし」

 俺が話を変える前に、七瀬が同じ話を続けてくる。俺はちょっと憂鬱な気分になった。特に夢があるわけでもないのに俺は大学に行って、自分にとって全然意味のない、その場凌ぎの勉強を重ねていくのだ。柔道も結局はやり続けることになるだろう。そのうち、オリンピックにでも出ることになるかもしれない。そしたら、学校を含めた周囲は、間違いなく俺に期待する。メダルを持って帰ってくることを夢想する。成り行きで日本一位になった俺は、もしかしたら、もしかしたらの話だけど、世界を舞台にしても優秀な成績を残せるかもしれない。まさしく柔道のためにある、俺の人生。真っ平御免被りたい。考えるだけで吐き気がしてきた。

「とりあえず、柔道から離れたい」

「そうなの?」

 邪気なく七瀬は訊ねてきた。ここで七瀬が偉いのは、「なんで?」ではなく「そうなの?」と言うところだ。大抵の人間は、俺が柔道をやめたいと言うと、まず「なんで?」と言った。そして、俺が持って生まれた才能が如何に素晴らしく、柔道をやめることが今後の人生に如何にマイナスに影響するかを滔々と説くのだった。

「大宝寺、柔道やりたくないんだ。俺、知らなかったぜ」

「学校なんて好きじゃないし、柔道から離れるきっかけにもなるだろうから就職したい」

「まあ、大宝寺くらいのレベルになれば、自己主張してどうこうなるもんでもないよな。大学に行ったら、なんだかんだで間違いなく柔道やり続けることになるだろうし。それくらい俺にもわかるぜ」

 就職したくらいでちょうどいいのかもしんないよな。七瀬は、そんなことを言ってくれた。やっぱり七瀬はその辺の人間とは違う。俺のことをわかってくれる。俺を見るとき「全国柔道を制覇している」という色眼鏡を使わないのだ。だから、ガードの固い俺でも七瀬には気を許せた。初めて会ったときから、あまり警戒した記憶もなかった。

 そっか、大宝寺は柔道嫌いだったのか。七瀬が呟いた。それからちょっと沈黙が続き、七瀬はいきなり「あ」と両手を打った。なにを思いついたのかと七瀬を見ていたら、急に笑顔になった。妙に嬉しそうに笑いながら、まじまじと俺の顔を眺める。なんだよ、顔になにかついてるのかよ。七瀬があまりに面白そうに俺を見るので、俺も目を逸らすことができなかった。

 耐え切れなくて急かす前に、七瀬が口を開いた。声を高くして、滅茶苦茶楽しそうに切り出す。

「あの可愛い女の人、誰?」

「女の人?」

 意味がわからずに訊き返すと、七瀬は「またまたあ」と大袈裟に肩を竦める。俺には、本当に意味がわからなかった。

「この前の土曜日、ハイスペースランドでデートしてるの発見しちゃったんだぜ。向日葵のサンダルがよく似合ってた、可愛い女の人。大宝寺、彼女がいるんだな」

「え」

 ハイスペースランド。その名を聞いた途端に、脳内で情報が駆け巡り始めた。咲華の姉ちゃんに誘われてハイスペースランドに出かけて、意味不明な絶叫マシーンに乗りまくって、疲れたところでファミレスに入って、昼飯とパフェを奢ってもらった。次はお化け屋敷に入るとか入らないとかで議論していたら、そこで俺は、遠くのテーブルに七瀬の姿を見た。七瀬と七瀬弟と、誰だか知らないたぶん七瀬弟の友達と思われる黒髪の男の子と、テレビによく出ているらしいモデルの立川景疑惑の男。疑惑は疑惑のままだったけど、咲華の姉ちゃんが言うには、おそらく立川景本人。七瀬はそいつと親しげに喋っていた。

「最初に大宝寺を見かけたときは、話しかけに行こうと思ったんだ。でもすぐに女の人が現れたから、デートなんだなって思って。邪魔しちゃ悪いから素通りしてたんだけどさ。観覧車の中で、いい雰囲気になったりとかした?」

 七瀬は嬉しそうに喋り続けている。その嬉しそうな顔で、立川景とも話していたのだろうか。そう思うと呼吸を制限される気分だった。

 七瀬のお喋りは止まらない。立て板に水。

「本当に可愛い人だったなー。詩仁もちょっと見惚れてたぜ。惚気話とか教えてくれよ。友達じゃん」

「友達?」

「友達だろ」

 友達。友達、らしい。そうだ、友達だ。俺は、七瀬のたったひとりの友達のはずだった。少なくとも、俺の友達は七瀬だけだった。でも、裏切られた。七瀬の屈託のない無邪気な笑顔に裏切られた。それは許されない行為だった。

「友達なら、お前こそ教えろよ」

 七瀬は呆けた顔をした。本日二回目の反応。そして七瀬は、すぐに笑った。

「教えるってなにを」

「とぼけるな。誰なんだよ、あいつは」

 七瀬の喉が動いた。さすがに俺の様子がおかしいと思ったらしく、今度は困ったような笑顔になった。飽くまで笑顔を絶やさない七瀬が少し憎かった。

「なに怒ってんだよ、大宝寺。意味わかんないぜ。疲れてんのか?」

「誰だって訊いてんだよ。まじで立川景かよ。立川景と友達だったのかよ。俺がお前の唯一の友達じゃなかったのかよ!」

「唯一?」

 七瀬から笑顔が引っ込んだ。声を荒げられたことが予想外のようだった。七瀬は暫く俺を見つめていた。俺がなにを言っているのかわからない、と表明しているようにも見えた。そして七瀬は、力なく口元を綻ばせた。

「大宝寺がなにをそんなに怒ってるのか、わかんないけどさ」

 七瀬は立ち上がり、座った状態の俺の横に立つ。どうして立ったのか、俺にはわからなかった。

「別に隠してたつもりじゃなかったんだ。ただ、景もあんまりそういうことは喋らないみたいだから、俺も黙ってたほうがいいのかなって思ってて」

「七瀬が誘ったのかよ」

「俺と景がずっと友達なの知ってたから、詩仁が言い出したんだ。景も仕事ばっかりでストレス溜まってるし、ハイスペースランドのフリーパスがあったし、そしたら優輝君もついてきて」

「ずっと友達? いつから?」

 質問すると、七瀬の体はフリーズした。そして、如何にも無理矢理というふうに笑ってみせた。

「なあ大宝寺、ちょっと疲れてるんだと思うぜ」

 七瀬はひとりで喋る。

「どうせ補習はさぼるんだろ。それならさ、帰ってゆっくりしろよ。アイスでも食ってさ」

「いつから友達なんだよ」

「冷房の効いた部屋で、昼寝でもしたらいいぜ。すっきりするからさ」

「いつから友達なんだって訊いてるんだ」

「なんなら、俺、送ってもいいし」

「いつからだって訊いてんだよ!」

 空気が変わったのがわかった。蒸し暑いのに、空間はまさに凍りついていた。七瀬は背中から氷をぶっかけられたかのような顔をしている。いつも雰囲気よく笑っている七瀬の面影は、一切なかった。七瀬は唖然として俺を見ていた。二重の目を大きく開いて、呆然と俺を見つめていた。

 途切れがちに、大宝寺、と言いかけた七瀬の声をかき消す。俺が立ち上がった。それだけで七瀬はたじろいだ。どうしようもなく俺を見ているだけだった。

「これが最後」

 俺は視線を下にやり、大きく息を吐き出す。七瀬のスニーカーが、一歩二歩と後ろにさがった。静かな夏の理科室には、微かな足音さえもよく響いた。

「もう一度訊くけど」

 逃げるように後へ引く七瀬のスニーカーを追いかけて、俺は二歩前へ出る。七瀬はまた後ろへ動いた。俺もその分踏み込んだ。

「立川景は、いつから友達なんだ」

 七瀬は、ごくりと息を呑んだ。後ずさりを続けながら答える。

「俺が十二歳のとき。景は、もう十三歳だったと思う。年上だし」

 俺と七瀬が出会うよりも早い。気が狂いそうだった。立川景は、俺よりも七瀬とずっと付き合いの長い親友なのだ。親友とは友達以上の存在のことだ。自分の胸が灰になっていくような気がした。

「どこで」

 七瀬が後退する分だけ、俺は前へと足を出す。七瀬の背中が壁にぶつかった。俺はそんなに怖い顔をしているのだろうか。確かにしているかもしれなかった。

「どこで出会ったんだよ」

「景のプライバシーに関わることだから言わない」

「言えないような場所なのかよ」

「言いたくない場所なんだよ」 

 七瀬は、はっきりと言い切った。即座に俺は、気に入らないと思った。仮面のように貼りついている七瀬の笑顔を打ち消すような、七瀬にそんな表情をさせる存在が許せないと思った。俺以外の人間のことで、七瀬がそんな顔をするのが許せなかった。立川景という存在が、どうしようもなく憎い。いっそ殺してしまいたい。立川景、死ねばいい。脳を物騒な言葉が埋め尽くしていく。

 一歩前へ出た。既に逃げ場を失くしている七瀬は、どうすることもできなかった。俺が七瀬を追い詰めたわけじゃない。七瀬が勝手に後ろへさがっていって、それを追いかけただけだ。俺は悪くない。俺と七瀬の間の空間がもう二十センチにも満たないとしても、飽くまで俺は悪くない。俺にはその認識があった。すべては俺以外に仲のいい人間がいることを隠していて、更にその人間のことで堂々たる表情をして、しかもその人間と知り合った場所すらも教えてくれない七瀬が原因なのだ。俺は悪くない。そう思うと、自然ともう一歩進んだ。

「七瀬」 

 びくり。七瀬は、大袈裟なんじゃないかと思うくらい、大きく肩を震わせた。可愛いかも。今は間違いなく、立川景じゃなくて俺が七瀬の表情を変えさせている。ちょっと嬉しくなった。俺は今、間違いなく七瀬を支配している。

 七瀬の手を取り、指の隙間に携帯電話越しに自分の手を重ね合わせる。そのまま七瀬の顔の横側に押さえつけた。もう片方の手も同じようにしてやる。七瀬の指は長くて柔らかい。どことなく色っぽくて艶やかだ。七瀬は、驚愕したような目をして俺を見ているだけだった。顔を近くすれば近くするほど、何故か七瀬が綺麗に見えた。形の整った二重、長い睫毛が愛くるしくて仕方なかった。

「なあ、七瀬。立川景は、お前の友達以上の存在なんだよな」

 七瀬は答えなかった。別によかった。七瀬は意図してなにも喋らないんじゃなくて、俺を相手になにを言うこともできないのだ。七瀬を支配している俺と、俺に支配されている七瀬。支配下にある人間が、支配している側にある人間と対等であるわけがなかった。

「俺も友達以上の存在になりたいんだ。できれば、いや、絶対に」

 七瀬の手を押さえつけるのをやめた。やめてみた。七瀬の両手は自由になった。それでも七瀬は、俺を突き飛ばそうとはしなかった。七瀬は自分の手首を一瞬見つめた。その後、すぐに俺を目を戻した。こともあろうか、ここで七瀬は笑った。明らかに作っている、不安定な笑顔だった。

「冗談きついぜ。これってさ、どこからどう見ても怪し」

「俺を友達以上にしてくれよ。いや、友達以上というよりも、立川景以上がいい」

 おそらく「怪しい光景だぜ」とでもと言いたかったのだろう。七瀬の言葉を区切るのは、さも俺は七瀬より上だと主張しているようで気分がいい。

 身体全身が痺れた。本当に一瞬のことだった。でもその一瞬で、俺の中でなにかが変わった。七瀬のどこに目をやっても、心臓がまるで壊れたように動悸を繰り返す。体の芯で、乾燥した木片でも燃やされているみたいだった。じわりじわりと、焼けつくような感覚が指先にまで行き届いていく。怯えたような七瀬の瞳が、更に俺を魅了する。耐え切れずに七瀬の胸元に触れた。白いシャツの上から、幾度となく肌を撫でる。中肉中背の七瀬の肌は思っていた以上に硬くはなくて、夏場の気温で上昇している熱も心地良かった。こんな服なんてなしにして、直接触れてみたい。七瀬のシャツの隙間から、指を潜り込ませた。

 咄嗟に七瀬は手首を弾き、俺の肩を掴んだ。突き飛ばされるな、と思った。同時に、直感的に「やばい」と思った。なにがどうやばいなどと説明する余地はなくて、ただ反射的に「やばい」と感じた。

「抵抗すんなよ」

 俺が言うと、肩を掴んだままで七瀬の動きは止まった。やばいやばいやばい。やばい。俺は一体、なにをしようとしているんだ。俺は七瀬にとんでもないことをしようとしている。とんでもないことをさせようとしている。俺の頭はどうかしている。そう思うと、声は頼りなく掠れた。

「抵抗しないでくれよ、お願いだから」

 なんだか泣きそうだ。自分でもびっくりするくらい、俺の声は震えていた。

「抵抗されたら、俺」

 自分がなにをするかわからない。今七瀬が嫌だと言ったら、無理矢理にでもそれをする気がする。逆に七瀬が嫌だと言わなかったら、それはそれでやりたいことをする。したいことをしたいだけ、気が済むまで。どっちにしても結果は同じだし、最悪だ。自分で自分がわからなかった。だからやばいのだ。俺は俺自身が理解できない。

「抵抗なんてされたら、本当にやっちゃうかも」

「だ、大宝寺……」

 優しい七瀬は、たぶん、俺の心境を汲んだ。だから俺をそのままに、行き詰まったように名前を呼ぶことに留めている。でもその瞬間、脳内でなにかが割れた。なにかが壊れる音がした。衝動をどうすることもできず、俺は七瀬の首筋に触れた。汗ばんだ肌。秒増しに欲情するがわかる。自然体の七瀬を、なにをどうしたとしても、完全に支配したかった。俺にしか見せないその姿を、この場で作り上げたかった。

 更に身体を密着させて、ほとんど七瀬の耳元で囁く。

「名字じゃなくて名前で呼んでくれよ。なあ、嘉仁」

 七瀬の呼吸が止まった。口元にある耳に、浅く息を吹き込んだ。七瀬の身体が跳ねて、肩に置かれた手がずり落ちた。

 七瀬の息が首筋にかかる。心地よい生温さだった。もっと近くで感じてみたい。ぐっと七瀬に身体を押しつける。

「俺のこと……そんなふうに呼んでなかっただろ」

「立川景はそう呼んでるんだろ。俺にもそう呼ばせてくれよ。お前を嘉仁って呼んで、その上でこういうことをやれば、俺は間違いなく立川景以上の存在になれるよな」

 一緒に気分よくなりたいんだよ、嘉仁。そう言って、俺は七瀬の顔に目を向けた。七瀬は、見たことがないくらい驚いたような、真っ青な顔をしていた。頬を引き攣らせて、まるでこの世のものではない存在を見るように俺を捉えている。間違いなく恐怖を捉える瞳だった。その感情も俺が作用していると思えば、これ以上ない至福のように感じられた。七瀬の形のよい桃色の唇に、ゆっくりと顔を近付けた。

 がらりと扉が開く音がしたのは、まさにその瞬間だった。七瀬は俺の肩を思い切り押した。意外と強い力だった。かしゃんと音がした。聞いたことのある音だった。よろめいた俺の横を、七瀬は風のように駆け抜けていく。自分の鞄を奪うように手に取って、信じられない速さで理科室を飛び出して行った。あいつ、あんなに足速かったっけ。

「いきなり出てくるかよ、普通」

 理科室の入り口には、危なかったと言わんばかりの表情の男子生徒が立っている。同じクラスの上野だった。上野は頭を掻きながら俺に歩み寄って来る。

「こんなところにいたのかよ、泰雅。先生からご指名いただいて、渋々連れ戻しに参上したぞ」

 うざい。俺は率直にそう感じた。

「最近、随分さぼるようになったじゃないか。あんな奴に関わってるから、毒されちゃったんじゃないの」

「あんな奴って」

「D組の七瀬。あいつ、成績悪いくせに授業さぼりまくるんだってさ。で、卒業もやばいから、補習に狩り出されてるらしいんだけど、今日もさぼりか?」

 見られた。別にいい、即座にそう結論した。上野はなにも顔に出さないし、たぶん誰にも言わないと思う。面倒見のいい兄貴的性格の上野は、冗談は言っても余計なことは言わない。

「ずっと前から気になってたんだけどさ。泰雅はどうしてあんなのに関わるんだよ」

「名前で呼ぶな」

「え」

 上野は呆けた顔をした。その相手をするのもだるいので、無理矢理話を続ける。

「あんなのってなに」

「だから、七瀬のこと。同じ中学だったわけでもないし、クラスが同じになったこともないだろ。なんでわざわざ七瀬に関わろうとするんだよ。あいつ、なんかいじめられてるみたいだし」

 横目で俺は上野を睨んだ。上野は気付いていないようだった。ある意味、無垢だ。上野は人差し指を立てて、俺に言う。

「まあ、とにかく教室に行こうじゃないか。お前、いろいろ期待されてるんだからな」

 俺なんか、なんとなく大学に行こうと考えてるだけだぞ。自分自身に呆れるように、上野はやれやれと息をつく。自分で呆れるくらいなら、進学なんて考えるな。俺は、沸き立つ苛立ちを腹の底に沈める。

「こんな高校で、いい大学に入れるわけあるかよ」

「俺もそれは思うね。辻ノ瀬学園大学くらいに行けるなら、将来は安寧だけどな」

 辻ノ瀬。嫌なワードだ。七瀬の弟を思い出してしまうし、あのときあいつを殺しきれなかったことが心に引っかかっている。あの失敗はよかったのか、それともよくなかったのか、いや、世間的には死人が出なくてよかったというべきところなんだろうが、俺には判別できなかった。七瀬弟の存在が、七瀬を縛りつけていることに今も間違いはなかった。

「あれ。このケータイって」

 上野が床に転がっていたそれを拾い上げる。深い青色の携帯電話だった。さっきの乾いた音か。道理で聞いたことのある響きだったわけだ。

「七瀬が落としていった」

「げ。どうすんだよ。先生に言ったら面倒だぞ」

「貸して」

 手を出すと、上野は素直に携帯電話を渡してくれた。

「俺、七瀬の家知ってるから」

「じゃ、届けてやってくれよ。ところで泰雅、そろそろ教室に行きたいんだけど」

「名前で呼ぶんじゃねえよ」

「え?」

 今度こそ、上野は真剣に呆けた顔をした。今のは聞き間違いじゃなかったのか、とバカそうな目が言っている。俺は一言「帰る」と告げた。自分の鞄を乱雑に掴み、七瀬の携帯電話をポケットに入れて無言で歩き出す。理科室を出て振り返ると、上野は相変わらず呆けているだけだった。一生そこでバカ面してろ。心の中で上野にそう吐き捨てた。





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