辻ノ瀬学園中等部3年4組 七瀬詩仁(2)
「せっかく明日から夏休みだっていうのに、テンション下がっちゃうぜー」
これ見よがし、俺は傘を片手に大袈裟に溜息を吐く。前を行く三橋は、ほんのちょっぴり、首を後ろに捻った。目が合うと、三橋は再び前を向いた。意外と歩くのが速い。俺はちょっと遅れがちについていく。
「聞こえてるならなんか言えよ。会話が成立しないだろ」
「別に成立しなくてもいいじゃない」
「相変わらず冷めてるな、お前は。夏休みだぜ、夏休み」
サマーバケーション。小走りに三橋の前に出ると、顔の前で右の人差し指を2、3度振った。三橋は足を止めて、何度か瞬きを繰り返した。
第1学期の記念すべき終業式なのに、真夏らしからぬ大雨のせいで酷い湿気が充満している。これ程まで爽やかじゃない長期休暇前日があってたまるか。俺は三橋の前で身体を乗り出す。三橋はその分、ちょっと仰け反った。
「夏休みに入るんだから、いろんな楽しいことを想像して浮かれるもんだろ。中学生なんだから」
「で、キミは楽しいことを想像してたわけだけど、この土砂降りじゃさすがに気が滅入るってわけだね」
「そういう返答するとこかよ」
「楽しいことってなに」
涼しい顔で三橋に訊かれて、俺は少し考えた。夏休みの楽しいこと。指をひとつずつ折って大雑把に空想する。
「嘉兄と夏祭りに行ったり、嘉兄とかき氷食べたり、嘉兄と宿題やったり」
「嘉兄ばっかりじゃないか」
キミのブラコン度って病的だよね。改めて知ったと言わんばかりの調子で三橋は言い捨て、俺を押しのけて前へ出た。降りしきる大粒の雨が傘に当たって、鈍い音を響かせている。そんな音が邪魔をして、澄んでいるくせにトーンの低い三橋の声は、かなり聞き取りにくい状況だった。前方をさっさと歩いて行ってしまう三橋を懸命に追いかけながら、俺は少しだけ声を張る。
「そういうお前は、夏休みはどうやって過ごす予定なわけ」
「僕?」
会話しているのは三橋しかいないというのに、わざとらしく訊き返してきた。歩きながら、三橋はやっぱり聞き取りにくい声で答える。もっとでかい声で喋れ。
「僕は、そうだね。自由に昼寝したり、自由にゲームしたり、自由に漫画読んだり」
「別に夏休みじゃなくてもできるだろ、そんなの」
「わかってない。自由っていうのがミソ」
「授業中でもお構いなしにゲームやってるじゃないか」
三橋は誰がどう評価しても美少年としか言いようのない顔をしているくせに、結構アウトローな奴だった。自分の席が教卓から見えにくい角度にあるのをいいことに、英語の時間や数学の時間に携帯ゲーム機を操作している。その態度はかなり露骨だけど、フリーダムな三橋を中心に描き出される光景には、最早なんの違和感もなかった。授業をただ淡々と進める先生は少なくないし、クラス委員だっていい子を演じているだけで面倒ごとには首を突っ込まない。授業中にゲームするなよ、なんて言うのはクラスにひとりしかいない。そんなレアなひとりさえも、なぜか指定の制服を着用せずにいつも部活のジャージ姿だ。
名門辻ノ瀬、堕落も甚だしい。別にどうでもいいことだけど。なにも言わなくなった三橋の横に並び、傘越しに空を仰いだ。酷い雨は一日中続きそうだった。
「それにしてもさ、三橋。方程式くらいは解けなきゃいけないと思うなぁ。なんなら俺が専属コーチになってやるよ。うん、それがいいな」
お前は夏期講習でめきめき実力アップするわけだし、俺は俺で遊び場に困らないし。俺は勝手にそういうことにして、ははは、とひとりで笑った。ひとりで笑ったことにはなんの疑問も覚えなかった。三橋の無反応には慣れていた。不思議だったのは、まあそう黙るなよと三橋の背中を叩こうとしたところになにもなく、見事に空振りしたことだった。
横を見てみると、そこに三橋の姿はなかった。今の間の短時間でどこかに消えたらしい。立ち止まり、ぐるっと辺りを見回した。三橋らしき姿は見当たらなかった。なにも言わずに姿を消し、更には気配すらも霧散させてしまうとは。恐るべし、三橋優輝。
名前を呼んでみた。が、この雨の中では響かなかった。傘の柄を握りしめて、さして一生懸命でもなく、俺は三橋を探す。すれ違う人々が、わざとらしく俺と目を合わせないようにしている。人が自然と俺を避ける。赤の他人がすれ違うんだから、避けるのは当然のことだ。傘を差していることにこじつけているのか、少し広めの間隔ができあがっている。蔑むような視線、嘲るような視線、恐れすら伝える視線。恍惚とした視線もある。たくさんの視線が俺の身体を貫いていた。歩きながら自分の髪に触れてみた。金髪。早起きでセットしたのに、湿気で台無しだった。耳にも触れた。蒸し暑いこの天気の中でも、銀のピアスは冷たかった。
「その頭と耳をなんとかしろ。高校に行きたくないのか!」。本日採りたて、生徒課のジジイ先生の声が俺の鼓膜を刺激する。朝、校門をくぐったところでジジイに捕まって、結局終業式には出席できなかった。それどころか教室にも入れなかった。生徒指導室で正座を強要され、ひたすら説教の嵐だった。高校に行ったってバカはバカだろうが、クソジジイ。俺は思ったけど、さすがに口には出さなかった。
「黒染めなんかしてみろよ。昔の俺に逆戻りだっての」
誰に言うでもなく呟く。こんな自分の主張が幼稚だということは、俺自身、重々承知している。相当の覚悟をした上で金色に染めたと主張しても、それは俺というガキの我儘でしかない。ピアスだってそうだ。でも、こうしてなるべくあからさまに、俺自身に俺自身の変わった姿が見えてないとダメなのだ。いつまでもとは言わない。でも最低限、今だけは必要だった。明らかに異彩を放つ、現在の自分という像。今の俺にはどうしてもないといけない。
「七瀬」
三橋の声だった。雨に紛れがちな三橋の声を、我ながらよく聞き分けたと思う。声が聞こえた方向を振り向くと、三橋はいた。細い路地から、三橋はひょっこりと顔を出していた。ついさっき、ふたりで通過した地点だった。。
「七瀬、傘」
路地に入るなり、三橋は俺に命令する。三橋は傘を折り畳んでいた。雨粒に濡れながらタオルを両手に広げている。その手は、なにか小さなものを拭いていた。
俺が呆然とその光景を眺めていると、三橋は真っ黒な瞳で俺を見据える。なにしてるの、とでも言いたげなその視線に、お前こそなにしてんのと言い返してやりたくなった。現実には俺がそんな言葉を発する余地もなく、三橋が喋る。
「傘だよ、七瀬。タオルがびしょ濡れになっちゃう」
咄嗟に俺は三橋に歩み寄った。別に咄嗟になる必要なんてなかったけど、反射的に咄嗟になってしまった。三橋の身体が俺の傘の下に入る。相合傘。なんで男と。
タオルの下から、綺麗なエメラルドグリーンの瞳をした、真っ白な毛並みの猫が顔を出した。ものすごく小さかった。みゃあと鳴くその声は高くか細く、弱々しくて頼りなかった。タオルを鞄にしまった三橋の許で、白い子猫は小さく鳴きながら尻尾を動かしている。三橋が子猫に手を伸ばすと、子猫は少し三橋の指先に鼻をくっつけた。そして、またしても弱く鳴いた。
「お腹空いてるのかも」
「その鳴き方ってそうなの?」
「知らない」
三橋はごそごそと鞄の中を漁っている。そのうちに、いつも給食に出てきている牛乳の紙パックを取り出された。今日は給食なかっただろうが。突っ込みたい俺などツユ知らず、三橋は紙パックを地面に横向きに安置すると、パックの中心を器用に指でこじ開けた。子猫がパックの穴に顔を突っ込んだ。余程腹が減っていたのか、相当の勢いで牛乳を舐めている。三橋と俺は、そんな子猫の様子を、ふたりして観察していた。
あっという間に紙パックは空になった。三橋は紙パックを潰すと、適当に目についたらしい水色のポリバケツにそれを放り込んだ。
「この猫、連れて帰る」
人間の言葉が理解できるのかと思うほどの絶妙なタイミングで、子猫は鳴き声を発する。
「お前のとこってマンションだろ」
「うん」
「ペット禁止じゃねえの」
「たぶん」
いい加減な奴。全然関係ないのに、俺はちょっと気分が沈む。
「勝手に連れて帰っていいのかよ。主はお前じゃなくて景兄じゃん」
「景君なら部屋に知らない猫がいても気にしないよ」
「俺、思うよ。三橋も景兄も、今どき珍しい人間だなって」
ていうか、部屋に知らない猫がいても気にしないって、それはそれでどうなんだ。まあ、でも、景兄なら確かにそんな気がしないこともなかった。景兄は変に尖った部分もあるけど、基本的には自分のペースを持った人だ。家の庭にどこかの猫が紛れ込んでいて、明らかにその猫が悪さをした形跡があっても、家に上げてマタタビでも振舞いそうだ。景兄は寛大である。あの性格で、しかも雑誌のモデルなんかやっているわけだから、彼女がいないわけがない。と俺は思っている。
ささっとタオルでくるんだ子猫を、三橋は鞄の中に詰め込んだ。いや、普通に抱いて帰ればいいじゃん。鞄のファスナーの隙間から、タオルを頭巾のように被った子猫が顔を出した。かなり可愛いかった。猫バッグ、俺も欲しい。
「捨て猫、だよね」
三橋は折り畳んだ傘を開いた。鞄を肩に提げて歩き始めた三橋に、俺はついて歩き出す。
「ひとりぼっちで、どれくらい過ごしたのかな」
「そんな小さい子猫だし、別にそこまで長い間ってわけじゃないだろ」
「ひとりは長いよ。親がいないのなんて可哀想だし」
親、と口の中で繰り返してみた。一番最後に親を見たのは、どれくらい前だっただろうか。たぶん二ヶ月は経った。たまに家に帰ってきてもすぐにまた出かけてしまう、俺の親はそんな人間だった。親らしいことをしてもらった覚えがない、と言えばさすがに反感を買うかもしれない。記憶にないような小さい頃は、俺もきっと、抱っこされたりおんぶされたりして、毎日が楽しくて、ふたりの親が大好きだった。と、思う。そうだったらいい。それは幻想だと自分でもよくわかっていた。
「三橋はさ」
同年代の仲間と遊ぶことはあっても、基本的には群れないタイプの俺が三橋と一緒に帰るのは、帰り道が同じだったことだけが理由ではなかった。真っ黒な髪の三橋と金髪の俺とでは目に映る差は激しいものの、親のことに関しては共通していた。自分が帰る家に親はいない。俺と三橋の通ずる点は、シンプルにその一点だった。三橋は親が家に戻るどころか、自分が実家を離れて暮らしている。どうして三橋は自分の家ではなく、景兄の家に居ついているのだろうか。景兄から聞くその理由の割りには、景兄は三橋を名字で呼んでいる。ミステリアスな三橋のことの分、気にはならない。
「三橋は、親がいなくて寂しいと思ったことある?」
「七瀬はあるの?」
「あ、いや、別に」
当たり前のように切り返してくる三橋に、俺はちょっと戸惑った。雨の中でも飄々とした三橋に少しだけ気圧されながらも、首を振って更に切り返した。
「今は俺が訊いてるんだよ。三橋は自分が可哀想だなんて思うのかよ」
「僕はキミと違って、兄弟もいなかったから」
酷い雨音に消されそうな聞き取りにくい声で、三橋はしれっと言いのけた。兄弟もいなかったから、と口にした三橋は、「頼れる人なんていなかったから」と暗示したようにも思えた。そんなことは一言も言っていないのに思い当たってしまうということは、俺はやっぱり嘉兄に頼りすぎているのだろうか。いつまでも子供のままの自分を不意に自覚して、少し惨めになった。
「まあ、自分が可哀想だなんて思わないけどさ。子供には親か、親に当たるような誰かが必要なんだと思う。学校で問題児扱いされても、中学生のくせに髪を金色に染めても、ピアスしても、無条件に包容してくれる誰かが」
「俺のこと言ってるのかよ」
三橋はなにも答えなかった。わざわざ答えを聞かなくても、回答ははっきりしていた。横目で、三橋はちらりと俺を見やる。なんだよと俺が言うと、三橋はこともなげに「別に」と言い放った。
雨は酷くなる一方だった。こんな爽やかじゃない長期休暇前日があってたまるか。ついさっきも頭をよぎったそれが、再度俺の脳裏を掠める。雨止まないかな、と俺が呟きかけた矢先、三橋が口を開いた。
「七瀬は、上にお兄さんがひとりいるだけだよね」
「え?」
「妹も弟もいないよね」
俺と三橋が別れるいつもの角は、もうすぐのところまで差しかかっていた。俺本人にとってはもちろんのこと、三橋にとってもおそらくわかりきっているであろうことを言い出したと疑問を抱えながらも、俺は頷いた。
三橋はなにか考えているようだった。俺は黙って言葉の続きを待つしかなかった。
やがて三橋は、ずっと前に向けていた視線を俺に流した。ばっちり目が合った。三橋の親は、たぶん、両方すごく綺麗な顔をしているんだと思う。
「僕がもし、お兄さんだとしたら、どう?」
「は?」
三橋が言い出す内容を予想していたわけではなかった。予想していたわけではなかったが、三橋が口にしたことは、予想外としか表現できなかった。傘を振り落とす勢いで驚く俺を、三橋は無表情で見つめ続けている。三橋の猫バッグからは、場違いにも例の子猫が顔を出して、可愛らしく鳴き声を上げていた。
「それってどういう設定なわけ」
発するべき言葉がわからなかった俺は、とりあえずそう問いかけてみた。三橋はいつもの淡々とした口調で、抑揚なく答えてくる。
「設定もなにも、例え話じゃない」
「ああ、まあ、そうだよな」
「僕がお兄さんだったらそんなに嫌?」
そういう類のことではなく、三橋の言葉が単純に唐突すぎた。俺の偏見を含む兄貴のイメージは、料理上手で優しくてちょっと抜けている、まさに嘉兄そのものであり、授業中にゲームをしたり漫画を読んだりしている三橋が兄貴であることを連想しろと言われても、そんなことは不可能だった。それに、正直に述べてみるところ、三橋は兄貴気質ではなく弟気質だと思う。曖昧に口篭る俺から、三橋は目線を正面へずらした。いつの間にか、俺と三橋はいつもの曲がり角に到着していた。
三橋は息を軽く吐いた。今度は横目で俺を見ると、若干上向きがちに言う。
「言いたいことはよくわかったよ、七瀬」
まじでか。確認したい俺を無視して、三橋は緩く俺に手を振った。そのついでに、猫バッグのファスナーを少しだけオープンして、子猫の前足を掴んで、肉球を俺に向けて左右に動かした。可愛い。バッグごと、子猫を抱き寄せたい。
「ブラコンも程々にして、素敵な夏休みを過ごしてね。それじゃ、これから新学期まではキミに会わないことを祈って」
グッドタイム。棒読みはいつものことのながら、三橋が立てた親指に俺ははっと我に返った。背を向けてさっさと歩き始めた三橋を、俺は咄嗟に呼び止める。振り返った三橋は不機嫌そうに顔を顰めたが、気にせずに言ってやることにした。三橋の肩を軽く叩き、明るく笑顔を繕ってみせる。
「三橋ってさ、どっちかというと弟だと思うけどさ」
「言うと思ってた」
三橋は低く応じると、肩に乗った俺の手を払いのけた。そんな三橋の動作などお構いなしで、俺は勝手に喋った。
「お前、優しいと思うよ。妹か弟がいたら、その子にはすごく優しいと思う。野良猫を拾って帰るくらいなんだし」
「その子には、ね」
「嘉兄には敵わないと思うけど」
4秒間の沈黙が流れた。三橋はやがて、大きな溜息を吐き出した。完全に呆れきってついていけない、と言わんばかりの憂鬱さが滲み出た溜息だった。
「ブラコン」
鋭い台詞を三橋は飛ばし、俺は何故か照れて笑う。褒めてないと言った後に、三橋は再び長い息を吐き出した。三橋も現在15歳、多感な年頃のようだ。傘を握り直して、三橋は一歩前へ踏み出した。俺もそろそろ帰ろうかと方向転換をする。雨が傘を打つ音は、一向に弱まりそうもなかった。
「でも羨ましい。そういうの」。雨の音に紛れて、淡白な三橋の声が俺の耳に届いた気がした。振り返ってみても、既に三橋の姿はなかった。気のせいかと思いはしたけど、そうだとしてもそうではないとしても、今更確認するのも面倒だった。暑いし、早く帰ってシャワー浴びよう。だるいと嘆く身体に鞭打って、俺は歩くスピードを少し速めた。




