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夕陽と公園、大宝寺泰雅

 待ち合わせ場所に待ち合わせの時間、咲華の姉ちゃんは現れなかった。現れる気配もなかった。どういうことだ。自分から言い出したくせに時間に遅れるなんて、なんという事態なんだ。俺はベンチに座り、意味もなく携帯電話の液晶を眺めていた。誰からのメールがあるわけでもないし、咲華の姉ちゃんから電話がかかってくるわけでもない。

「10分経過」

 時間計測。10時10分。約束の時間は、10時ジャストだった。俺は律儀に、10分前にはこの公園に到着していた。咲華の姉ちゃんは大雑把だけど、約束を20分過ぎた頃には落ち合えると俺は思っていた。甘かった。

「15分経過」

 いつだったか、母さんが言っていた。女の子は身支度が大変だから、デートの時間に遅れてきても、絶対に責めてはいけない。そこは男の寛大な心で受け入れてあげるべきところで、まさに愛すべきところでもあるのよ。いいわね、泰雅。前触れなくいきなり諭された俺は、なに言ってんだよこの人、大変だろうとなんだろうと時間に間に合わせるのが先決だろ、という感じでしかなかった。でも、それは今現在のこういう状況のことを指していたらしい。だるい。

「20分経過」

 傍目からすれば、これって所謂デートだよな。ていうか、これがデートじゃないとしたら、逆になんだと言うんだろう。却ってそれはいかがわしいような気がする。

「25分経過」

「泰ちゃん!」

 聞き慣れた声がして、携帯電話の画面から顔を上げた。少し辺りを見渡してから、ベンチに張りついていた尻を上げた。膝下までのスカートに、大きな向日葵のモチーフをあしらったサンダルを履いて、咲華の姉ちゃんが走りにくそうにこっちに駆けてくるのが見えた。

 遅刻した咲華の姉ちゃんが息切れしているのは、お決まりのパターンだ。家からこの公園まで、全力疾走してきたらしい。あの運動音痴な咲華の姉ちゃんがやってのけるとは。

「ごめんね。待ったよね」

 咲華の姉ちゃんの唇には、淡いピンクの口紅が引かれていた。昨日はそんなのしてなかったのに。目の前にいる咲華の姉ちゃんは、仕事帰りの咲華の姉ちゃんとは少し雰囲気が違っていた。昔からよく知っているとは言え、やっぱり姉ちゃんは年上だ。4歳離れていて、俺は高校生で、咲華の姉ちゃんは社会人。小さい頃は大した差にならなかったけど、現在では明らかに住んでいる世界が違う。なんだかちょっと寂しくなった。

「泰ちゃん、怒ってる?」

「え」

「なにも言わないから。私が遅刻したこと、怒ってるのかなって」

「あ、いや」

 女の子の身支度は大変だから――。母さんの言葉が、性懲りもなく脳裏に湧き上がる。服選びにアクセサリー選び、化粧その他諸々、確かに女の身支度は楽じゃないと思う。昔はわからなかったことだけれど、今はそれなりに想像がついた。まさか25分間待ちぼうけをくらうとは思っていなかったものの、憤慨するつもりは毛頭なかった。それなのに、咲華の姉ちゃんは俯いてしまっている。

 もしかして泣いちゃうのか。心なしか、周囲の人間が俺に注目しているような気がする。土曜日の午前、女を泣かせる最低男。たとえ周りの勝手な思い込みだとしても、そんなレッテルは回避したかった。人生で初めてそんなピンチに陥った俺は、咄嗟に咲華の姉ちゃんの肩を叩いた。

「まあ、しょげるなよ。泣いたらせっかくの化粧が台無しだぜ」

 一瞬、咲華の姉ちゃんの呼吸が止まった。ん、と俺が声を漏らした。姉ちゃんは、嘘みたいな表情で俺を睨んだ。

「大きなお世話よ!」

 ぱんっ。弾きのいい音が耳元で炸裂した。夏休み目前、土曜日の午前は、今日もすこぶる平和なようだ。



 女ってきっと複雑な生き物なんだな。公園でお見舞いされた平手打ちについて、俺は淡々と考察していた。俺の一言が、咲華の姉ちゃんのカンに触れてしまったのだ。瞬間的に激昂した咲華の姉ちゃんは、突然俺にビンタを食らわせてしまった。そうでなければ、いきなり正気に返ったように「ごめん」を連発する理由がつかない。でも、それにしたって、そこまで変なこと言ったっけ。俺にはわからなかった。

 目の前の咲華の姉ちゃんは、俺の思考回路になどまったく目をくれるはずもなく、これ以上はないくらいの笑顔でチョコレートパフェを突いていた。

「噂に聞いてた通り、『タイタニー』はただのジェットコースターじゃなかったわねー。何回転したと思う?!」

「回ればいいってもんじゃないだろ」

「5回よ、ご・か・い!」

 咲華の姉ちゃんは、右手をパーにして突き出してきた。薬指に嵌められたシルバーのリングが、無駄に奇を衒った照明に反射して不意に煌く。眩しい。咲華の姉ちゃんから、少しだけ目線をずらした。

「この数字がどれだけすごいことなのか、泰ちゃんにはわからないの?」

「まあ、すごいんだろうなってことはわかるよ。絶叫マシーンマニアの咲華の姉ちゃんが興奮するくらいなんだから」

「それにしても、泰ちゃんってば意外と臆病なのね。そんなので道日本一だなんて、なんか笑っちゃう」

 くすくす、と咲華の姉ちゃんは笑う。さすがに俺も男なので、女の人にそんな笑われ方をすると傷つく。いや、それよりも俺に言わせれば、あんな無駄にハイスピードで無駄に回転して無駄に振動の激しい乗り物に乗って、無駄に嬉しそうに甲高い声を上げる咲華の姉ちゃんの神経のほうが異常というものだった。せっかくふたりで遊びに来たわけだし、絶叫マシーンなんて小学生のときの遠足以来だし、ということで搭乗してみたけれど、年月が経っても、俺に絶叫マシーンは向いていないという事実に変動はなかったようだ。『バイキング』でも『バルカン』でも何度も意識が飛びそうになった。でも、特にあの『タイタニー』では回りすぎた。俺は何度も念じた。いっそ殺してくれよ、と。

「絶叫マシーンだって鍛錬のひとつよ。武道のひとつと思えばやれるでしょ」

 なにいい加減なこと言ってんだ。これ以上咲華の姉ちゃんの中で絶叫マシーンが正当化され、またとんでもないものに乗せられても困るので、俺はそろそろ反論に出かかっていた。咲華の姉ちゃんは、俺がびびっている様子を明らかに楽しんでいた。夏休み目前の土曜日、ハイスペースランドには、家族連れや友達連れ、はたまた恋人連れなんかが溢れている。数多くの絶叫マシーンが目玉となっているだけに、当然、どれに乗るにも結構な待ち時間があった。最初に『バルカン』に並んでいたときこそ平気だったけど、それ以降の行列では、一歩足が進むごとに心臓が止まりそうだった。俺はたぶん、死刑執行の時間を待つ死刑囚さながらの顔をしていたと思う。自覚できるくらいだからよっぽどだ。そんな可哀想な俺を、咲華の姉ちゃんは、いちいちからかっては喜んでいた。

 冷房の効いた店内はすごく涼しくて、冷たいパフェを食べていたら肌寒くなってくる。俺は少し身震いした。

「あら、泰ちゃん。思い出し身震い?」

「そんなわけないだろ。ちょっと冷房効きすぎて寒かったんだよ」

 あら、そう。咲華の姉ちゃんは、そう言って残念そうな顔をした。なんで残念そうなんだよ。弱い者いじめって言うんだぞ、それって。咲華の姉ちゃんに対して言いたいことが募る。後が怖いから言わないけど。

 俺よりも早くパフェを食べ終えた咲華の姉ちゃんは、バッグから携帯電話を取り出した。二つ折りのそれをぱかっと開き、すぐに閉じてバッグに戻しながら呟く。

「もう1時半だ」

 能天気にパフェを食べていた俺は、とりあえず「ふーん」と相槌を打った。すると咲華の姉ちゃんは、いきなりテーブルの上に身を乗り出してきた。

「ねえねえ、お店を出たら、お化け屋敷にでも入ってみない?」

「無理。これ以上無理。咲華の姉ちゃんがひとりで入って。俺、外でアイスでも食べて待ってるから」

「それじゃ面白くないでしょ。泰ちゃんがびびってる顔を見たいの」

「なんて悪趣味な……」

 それから俺と咲華の姉ちゃんは、暫くどうでもいい話をしていた。昨日のテレビはなにが面白かったとか、最近見た夕陽がすごく綺麗だったとか、有名な芸能人を遠目に見かけたとか、本当に、果てしなくどうでもいい話だった。と言っても、俺に面白い話はできないので、ほとんど咲華の姉ちゃんがひとりで喋っていた。咲華の姉ちゃんは楽しそうにしてくれる。俺は頷いているだけなのに、笑ってひとりで話を続けてくれるところあたり、この人は七瀬と同じタイプだ。特に漫画も読まないし、ゲームも自分で買うことはないし、テレビもあまり観ない俺にとっては、七瀬の話はよくわからないものがほとんどだった。そこをなんとかわかるようにと、七瀬は一生懸命説明してくれる。最終的には気に入っている漫画を貸してくれたり、ゲーム機ごと俺の家に持って来てくれたりする。

 七瀬のような友人は、たぶんもう、俺には一生できないと思う。俺は漠然とそう理解していた。

 咲華の姉ちゃんが喋っているのを横目に、店内に視線を泳がせてみた。小さな子供を連れた親やカップルたちが視界に入る中、一瞬、俺の息が止まった。俺と咲華の姉ちゃんが着いているテーブルから少し離れたところに、見覚えのある金髪の男の子が、なにか機嫌よさそうにはしゃぎながら座っていた。心臓が飛び跳ねた。そんなはずないよな、と思い込む俺に追い討ちをかけるように、金髪の男の子の隣に、その子よりも背の高い奴が腰かける。左胸が大袈裟なくらい音をたて始めていた。金髪の男の子が横を向いた。男の子の隣の奴と向き合った。楽しそうに笑っている。小さく見えたその横顔は、真新しく記憶に残っていた。痛む体を懸命に動かそうとしながら、息絶え絶えで、兄貴の名前を呼んでいた弟の姿が浮かび上がった。そんな弟を抱き抱えて、泣き出しそうな目で「そういうことじゃない」と必死に俺に訴えていた、兄貴の姿が蘇った。

「七瀬と、七瀬弟」

 咲華の姉ちゃんが「え?」と訊き返してくる。俺は答えず、じっと七瀬と七瀬弟が陣取るテーブルを観察していた。七瀬が誰と遊びに来ているのか、そこが気になる。七瀬と七瀬弟がテーブルを挟んで座らない以上、ほかにも連れがいることは明らかだった。

 いくらもしないうちに、ジュースが入ったグラスをひとつずつ片手に持った、小柄で真っ黒な髪の男の子がやってきた。男の子は、グラスをそれぞれ、七瀬の前と七瀬弟の前に置く。七瀬弟が、なにか嬉しそうに黒髪の子に言っている。黒髪の子は反応せず、七瀬弟の前に席に腰を下ろしている。七瀬弟のクラスメートだろうか。七瀬弟は、まだ兄貴に依存したままなのだろうか。無意識にそんな思想を廻らせてしまう。

 次の瞬間には、息が止まりそうになった。黒髪の子と同じように、ジュースが入ったグラスを両手に持って、七瀬兄弟のもうひとりの連れが現れた。その男は鳥打帽のような帽子を目深に被って、縁取りの眼鏡をかけている。

 そいつは七瀬や俺と同年代のように見えた。グラスを自分と黒髪の子の前に置いて、やれやれとでも言いたげに腰を落ち着かせる。黒髪の子の隣、七瀬の真正面の席だった。

 誰だよ、あいつ。俺が小さく呟くと、咲華の姉ちゃんが疑るようにそこを覗き込む。

「あの帽子被った人、立川景じゃない?」

「どれ?」

「ほら、あの人。金髪の子がいるところ。黒い髪の男の子の隣の」

 咲華の姉ちゃんは、食べ終わったパフェのスプーンで立川景疑惑の男を指し示した。その矛先は、咲華の姉ちゃんが言う通り、七瀬がいる席の黒髪の子の隣の人物に向いていた。立川景疑惑の人物は、七瀬と会話している。疑惑の人物は普通に応じていたけれど、たぶん、七瀬のテンションは高いと思う。立川景疑惑の人物は、七瀬の知り合いなのか。同世代に見えるということは、知り合いではなく友人なんだろうか。いや、七瀬の友人は俺ひとりだけじゃなかったのか。そんなこと、俺は知らない。俺の中で上手く表現できないなにかがさざめく。

 咲華の姉ちゃんは呑気に言う。

「遠くだし帽子だし、なんだかよくわかんないわね。でも、景君っぽい」

「誰なの、立川景って」

「タレントもやってるモデル。泰ちゃん、テレビも雑誌も無関心すぎ。泰ちゃんと同い年くらいよ」

「モデル?」

 と言うことはこうだ。七瀬には俺ではない別の友人がいて、しかもその友人はただの学生じゃなくて、芸能人。七瀬には、一般人の友達じゃなくて、芸能人の立川景という友達がいる。

「ドラマにもよく出てるよ。中卒らしいけど、クイズ番組ではそんなに変な解答しないの」

「そんなの知らない」

「テレビ観ればわかるわよ」

「俺、あいつからそんな話、聞いてない」

 一瞬、咲華の姉ちゃんは、はて、と言いたげな顔をした。それから少し考えて、閃いたような明るい口調で言い放った。

「もしかして、景君と同じテーブルにいる子が泰ちゃんのお友達? すごい偶然じゃない。話しかけに行ってみたら?」

 咲華の姉ちゃんの声には答えず、俺は黙って七瀬がいるテーブルを見続けていた。目を逸らすことができなかった。立川景と思われる人物を、俺は見つめ続けていた。

 頭の中で、これでもかと言うほど言葉が廻る。誰なんだよ、なんなんだよ、立川景って誰なんだよ。七瀬と親しげに話している、その構図をぶち壊してやりたかった。七瀬からそんな話は聞いたことがなかった。芸能人に知り合いがいるなんて、一言だって七瀬は口にしていない。俺は知らない。俺は立川景なんて知らない。七瀬はそんなこと喋っていない。七瀬に俺以外の友達がいるなんて知らないし、知りたくもなかった。

 下唇を強く噛んだ。うっすら血の味がした。なんだ、この感覚は。不意に俺は、我に返った。七瀬に俺以外の友達がいるのはいいことのはずじゃないか。七瀬が弟と俺以外の誰かと会話したり、遊んだりしているのを見たことがない。それなら、七瀬にもうひとり友達がいたことは、まさに喜ぶべきことなのだ。立川景がいつから七瀬と知り合いなのかわからないけれど、七瀬にも同じ年代の友達がいる。それはいいことのはずだ。俺は七瀬の友人として喜ばなくてはならない。それなのに、俺の中では何故か安寧の「あ」の字もない。嵐の日の海のような、猛々しく荒れ狂っているなにかが轟音を轟かせている。

「そんなこと、知らなかったのに」

 小さく、低い声が口をついた。自分の声にたくさん穴が開いているような気がする。自分で意識したくらいだから、そのことは咲華の姉ちゃんにもあっさりと伝わった。景君と知り合いのお友達がいるなんて羨ましいなー、などとぼやいていた咲華の姉ちゃんが、急に「そろそろ出ましょ」と俺の腕を引っ張ったことが証拠だった。お化け屋敷に行きたいと言っていたくせに、お土産屋さんに入りたいと言い出したことも、証拠のひとつだと俺は思う。

 なかなか腰を上げない俺を、咲華の姉ちゃんは、ほぼ強引に引きずっていた。店の出口に近付くにつれて、七瀬たちが囲むテーブルは遠くなっていった。俺は、まだその一点を見つめていた。食べ残したパフェのことなんて、頭からすっかり消え失せていた。


 

 お土産屋さんに入っていても、頭から立川景のことが離れなかった。七瀬と向かい合っていた立川景。俺は知らない七瀬の友達、立川景。七瀬が教えてくれなかった七瀬の友達。その存在は強烈だった。七瀬と会話していた立川景の構図が、目蓋に焼きついている。瞬きすれば瞬きするだけ、その光景は鮮明に脳に再生された。本当にそれしかなかった。これ可愛いとか、美味しそうとか、咲華の姉ちゃんがいろいろ話しかけてきても、生返事しかできなかった。楽しそうな七瀬と立川景が、完全に俺の頭を完全に支配してしまっていた。

「ねえ」

 一通りのショッピングを終えると、咲華の姉ちゃんは、おもむろに切り出した。あり得ないくらいの紙袋やらラッピング袋やらを持たされた俺は、荷物に顔を埋もれさせながら返事をする。

「なに」

「これで最後。最後にするから」

 時間は、あっと言う間に過ぎていた。ハイスペースランド全体に、ありがちな鐘の音が響く。午後四時を伝える鐘らしい。鐘で時間を伝えるなんて、シンデレラみたいだ。

 咲華の姉ちゃんは俯いていて、俺の顔を見ようとはしなかった。いつものちょっと強引な咲華の姉ちゃんとは違い、遠慮がちでか細い声だった。

「観覧車、乗らない?」

「観覧車?」

 反射的に訊き返した。絶叫マシーン大好きの咲華の姉ちゃんが、観覧車。意外だった。そうか、観覧車か。変に心臓に悪いアトラクションよりはいいか。高いところ嫌いじゃないし。そんなことを考えていると、このタイミングで、いつかの母さんの台詞が脳内再生される。「デートの締めは観覧車だからね。タイミングを逃して、女の子をがっかりさせちゃダメだからね」。なんのタイミングだ。ときどき唐突に幕を開ける母さんの講義には、俺も扱いに困っている。

 俺が承諾すると、咲華の姉ちゃんは、込み上げてくる嬉しさを抑えきれないといったふうに顔を綻ばせた。こっちこっちと俺の手を腕を引っ張って、ひとりで意気揚々と歩く。観覧車に乗れることがそんなに嬉しいのだろうか。咲華の姉ちゃんって、スピードと迫力重視と見せかけた雰囲気派なのかもしれない。

 本当に俺なんかじゃなくて、彼氏と来たらよかったのに。内心でちょっと拗ねた悪態をつきながら、俺は咲華の姉ちゃんの正面の席に腰を下ろした。

 景色が高くなっていく。人も数あるアトラクションも、どんどん小さくなっていく。観覧車に乗るのも例に倣って久しぶりだった俺は、窓に手をつけて「すげえ」と呟いた。咲華の姉ちゃんが「すごいね」と応じてくれた。俺は、うん、すごいと返す。そして沈黙が流れた。その間にも、俺たちを乗せた観覧車は、休むことなく空へと距離を縮めていた。

「泰ちゃんは」

 ずっと外を見下ろしていた俺は、前触れもなく現実に引き戻された。咲華の姉ちゃんに向き直った。咲華の姉ちゃんは俺の顔を見ようとはしなかった。膝の上で拳を握って視線を俯けたまま言葉を続ける。

「泰ちゃんって、恋とかする?」

「俺が?」

 咲華の姉ちゃんは黙って頷く。俺はほんの少しだけ考えた。

「この調子だと縁がないかも」

「でも、泰ちゃんって女の子によく告白されるんでしょ。好きです、なんて言われたらどう? 気持ちが揺れるとか、少し付き合ってみようとか、そう思うことってない? そこから恋に発展するかな、なんて考えない?」

 俯けていた顔を、咲華の姉ちゃんはいきなり上げた。焦っているような、落ち着かない口調だった。そんな反応にちょっと驚きつつも、俺は素直に答えることにする。

「思わないし、考えない。それに、俺、上手じゃないし。人と関わるのって」

「でも、可愛い女の子は好きでしょ?」

「そりゃ男だし、女は好きだけど」

「だけど?」

「だけど……別に、それだけ」

 先急ぐかの如く、俺を見つめていた咲華の姉ちゃんが、塩をふられたように目を伏せた。咲華の姉ちゃんは、さっきから意表を突く反応ばかりする。そんなふうに元気をなくされたら、どうしたらいいのかわからない。

「姉ちゃん、なんか変」

 咲華の姉ちゃんは、なにも答えなかった。下を向いて、一切俺を見ようとはしなかった。対照的に、俺たちの乗せた観覧車は頂上地点に到達しようとしていた。

「なあ、咲華の姉ちゃん」

 依然として答えはなかった。なんとなく重い空気になってきて、息が詰まりそうになった。空気が重いんじゃなくて、高い標高の地点に来たから、単に空気が薄くなっただけだろうか。それでこんなにも息苦しいんだろうか。だったらいいのに。

 やりきれなくて、もう一度「姉ちゃん」と声をかけようとした。実際に口を開いたのは、俺じゃなくて咲華の姉ちゃんだった。

「泰ちゃんって、本当にデリカシーがないわよね」

「は」

「普通は気付くでしょ。でも、貴方は気付かない。なんでよ。なんで気付かないの」

「なんでって」

 姉ちゃんの声は少し震えていて、沈んでいて、俺には怒っているようにも聞こえた。

 観覧車は、頂上地点を通過した。重苦しい空気に負けて、思わず外の景色に目をやった。少しずつ地面が近くなってきていた。

 なんでって、その質問がなんでだ。そう問い返してやりたいところだけど、咲華の姉ちゃんが放っているオーラはただごとじゃなかった。視線を戻すのも凄まじいことのような気がした。なにをどうする思い切りもつかず、俺はただ、地上に向かって帰還している観覧車に身を任せていた。

「泰ちゃん、こっちを見て」

 見れるか。俺は答えず、そのままの姿勢を保つ。

「ねえ、聞こえるでしょ」

 聞こえているとも。でも、なんだか振り返れない。俺はずっと外を見下ろしていた。

 咲華の姉ちゃんはいきなり立ち上がった。何故か俺は身構えてしまった。もしかしてまたビンタされちゃうかな、と怖くなった。ていうかデリカシーがないってなんだよ。考え始めると、もう頭の中は空白にはなってくれない。

 緊張したまま座っていると、咲華の姉ちゃんが隣にやってきた。そこで姉ちゃんは、さっきまでとは明らかに違う、場違いな程明るい口調で言った。

「高いところから見ると、人って本当に小さいのね。近くで見ると大柄な男の人だって、みんな同じサイズに見えちゃう」

 声の変化が如実すぎて、唖然としてしまった。そんな俺を敢えて無視しているのか、咲華の姉ちゃんは朗らかな声で続ける。

「今日は楽しかった。付き合ってくれてありがとう。本当に楽しかったよ、泰ちゃん」

 咲華の姉ちゃんは、そう言って俺に笑顔を見せた。すごく嬉しそうな笑顔なのに、楽しかったと言ってくれているのに、どういうわけなのか、その笑顔は満足げには見えなかった。これって所謂デートだよな。ってか、デートじゃなかったらなんだよ。朝、公園で咲華の姉ちゃんを待っているとき、確かにそんなことを考えていた。俺の中で、途端に罪悪感が発生した。その罪悪感の正体を、上手く汲み取ることができなかった。ただ、咲華の姉ちゃんが、いつからなのかはわからないけど、俺のことが好きなんだということは理解できた。



「今日は本当にありがとう。また遊ぼうね、ばいばい」

 咲華の姉ちゃんは俺に手を振った。午後5時頃、待ち合わせ場所にしていた公園まで帰って来るなり、俺はさっさと別れを言葉を告げられている。荷物も多いし家まで送ると言ったけど、頑なに拒まれた。まだ明るいし荷物は重くないから大丈夫、と笑顔で全力で拒否されると、引き下がるしかなかった。咲華の姉ちゃんの笑顔は、どことなく寂しそうだった。ちょっとひとりで考えさせて、と暗に言われているような気もした。噴水のあるただっ広い公園で、俺はひとりで取り残された。

 咲華の姉ちゃん、俺に恋してるんだ。全然知らなかった。どうしたらいいんだろう。突っ立っていくら考えても、回答なんて出てこなかった。代わりに、人間ってだるい、という結論に達した。俺はひとり踵を返した。早く家に帰りたい。そのとき頭にあったのは、その願望だけだった。








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