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日鐘第二高等学校3年D組 七瀬嘉仁(2)

 一瞬、ドアを開けるのを躊躇った。ついこの前の出来事が脳内を駆け巡る。あのときの匂い、感覚、すべてがリアルに蘇る。開けないほうがいいと思った。でも、それじゃダメだ。俺のためにはなるかもしれないけど、相手のためにはたぶんならない。俺の家をこうして訪ねてくるのも、ものすごい勇気を必要とする行為だったと思う。どうしてもドアを開けないわけにはいかなかった。意を決してドアノブを回す。どことなく血の気がない、気分の悪そうな大宝寺の青い顔がそこにあった。

 理科室での出来事が、再度頭の中で再生された。どうしてああいうことになってしまったのか、今でもわからなかった。あれからもう一週間以上経過する。その間大宝寺は、今日の補習も含めて、一切学校に姿を見せていなかった。

「久しぶり」

 大宝寺は小さな声で言った。一応笑っていた。視線の先は、俺の顔にぶつかっていなかった。明らかに様子が変だ。ドアノブに手をかけたまま、俺はとりあえず同じを言葉を返す。

「久し、ぶり」

「なにどもってんだよ。変なの」

 何事もないかのように、大宝寺は笑う。こいつ、なんで俺の顔を見ないんだよ。俺の意図などまったく無視するかのように、大宝寺はズボンのポケットに手を突っ込んだ。取り出したのは、深い青色の携帯電話だった。あの日、理科室で落としたままだった俺の携帯電話だ。やっぱり大宝寺が持っていたのか。俺の考えを読み取ったのか、大宝寺はそれを差し出してきた。

「すぐ持ってくればよかったんだけど。本当にごめん」

 おもむろに携帯電話を受け取った。ふたつ折りのそれを開いてみる。久しぶりに見る猫の待ち受けに、着信履歴とメール受信の表示が残されていた。着信履歴は詩仁からのもので、メールはどうでもいい広告ばかりだった。お礼を言って、携帯電話をポケットの中に入れた。大宝寺はなにも言わず下を向いていた。少しの沈黙に針を突き刺すように、夏の暑さが身を照らす。そんなことはどうでもよかった。ちょっと悩んだ末に、俺は口を開いた。

「あのさ、大宝寺」

「ケータイ、返しに来ただけなんだ。じゃ」

 こっちが喋るのを察したかのようなタイミングで、大宝寺は踵を返す。俺は咄嗟に大宝寺を呼び止めた。数歩前に進んだところで、大宝寺は足を止めた。ここで「やっぱりなんでもない」とでも言って帰ってもらえば、絶対に安全だ。情けない俺は、ここでまた口を開くのを躊躇った。ダメだダメだ、そんなことじゃダメなんだ。俺は自分を奮い立たせる。

「暑かっただろ。今日は詩仁も遊びに行ってて家にいないし、寄っていけよ」

 何秒かした後に、大宝寺は振り返った。初めて顔を上げて、俺を見た。大宝寺の目はどこか虚ろで、寝不足っぽく薄くクマができていた。焦点はかろうじて俺に定まっている、といった具合だ。頼りなく揺れる視線からは、とても高校柔道日本一の称号などは見受けられなかった。


 

 どうせ家には自分ひとりしかいないということで、お客さんはリビングに通すことにした。真夏の蒸し暑い空間から涼しい部屋に踏み込んだというのに、大宝寺はまったくのノーリアクションだった。適当にソファーにでも座ってくれと言うと、大宝寺は言われるままにソファーに腰を下ろした。まるで人形みたいだった。顔色の悪い大宝寺を配慮して、クーラーの温度設定を少し上げた。

 グラスに麦茶を注ぎ込み、上から氷を落とす。客に出すには無難なチョイスだ。グラスをふたつ手に持って、大宝寺が座るソファーの傍のテーブルに置いた。

「ありがと」

 呟くように大宝寺は言う。俺は答える。

「アイスもあったらよかったんだけど、切らしてるんだ。悪いな」

「いや、これだけでいい」

それきり大宝寺は黙り込んだ。空調の音が変に耳に響いた。空気が重い。大宝寺はグラスに手をつけるどころか身動きひとつしないし、相変わらず俺を見ない。俺もソファーに腰を落ち着けた。大宝寺の向かい側の、横長のソファーだった。

 ポケットの中で携帯電話が震え始めた。学校に持って行ったっきりだったのでバイブモードだった。条件反射で携帯電話を取り出した。画面を確認すると、メール受信画面になっていた。どうせどうでもいいメールだろうし、気にせずにポケットに戻した。なんとなく顔を上げてみると、大宝寺が睨むような目をして俺の手元を見つめていた。俺は少し驚いて、その驚いているうちに、大宝寺は再び目を伏せた。明らかにいつもと様子が違う大宝寺に、俺はちょっと戸惑ってしまう。

 ――立川景以上がいい。

 ついこの前の、大宝寺のそんな台詞が脳裏にぽつんと浮かび上がった。切羽詰った大宝寺。俺に身体を密着させていた大宝寺には、そんな表現がぴったりだったと思う。大宝寺は、なにをそんなに抱え込んでいるんだろう。悩みごとなら誰かが聞いてやらないとダメだ。親に話せないことなのかもしれないし、それなら誰か親以外の人間が聞いてやらなくちゃ。俺が聞き手にならないとダメだ。そんな気がする。一種の義務感めいたものが働いて、突き動かされるように口火を切った。

「あの」

「七瀬ってさ」

 俺が喋るのを待っていたかの如く、声を被せてくる。言葉を遮られた俺は、抵抗なく口を閉じた。

「七瀬って、したことある?」

 時間がフリーズした。したことあるって、誰がなにを。なにをだ。頭に生々しく浮かんだそれを振り払い、大宝寺に訊ねる。

「なに、それ」

「頭に浮かんだそれだよ」

「本当に?」

「主語を省くとしたらそれしかないだろ」

 当たり前のように大宝寺は言い切った。それしかない、ということは、要するにそれしかない。急に恥ずかしくなってきて、大宝寺から視線を逸らした。こういうときにだけ俺を見ているのか、大宝寺は畳みかけるように言ってくる。

「随分ピュアな反応するんだな」

「そんなこと訊いてどうすんだよ」

「ちょっと訊いてみようかと思って」

 なんでちょっと訊いてみようかと思うんだよ。普通、唐突にそんな流れになるかよ。言いたいことはたくさんあったけど、そのすべてを飲み込んだ。特に面白がっているというふうもなく、大宝寺は、ふうんと語尾を伸ばす。

「その分だとなさそうだな」

「悪いかよ」

 大宝寺の台詞が、ちょっと上から視線のように思えた。俺は少しムッとして、つんとした口調で言い返す。

「どうせ俺には彼女なんてできたことないぜ。モテる大宝寺とは違ってさ」

「俺だって彼女なんていたことない」

「嘘吐け。この前の女の人、彼女じゃなかったらなんだってんだよ」

 この前の女の人、と大宝寺は呟き、すぐに「ああ」と手を打った。

「ハイスペースランドの」

「姉ちゃんとでも言う気かよ」

「姉ちゃんだよ。四歳年上だし」

「大宝寺って一人っ子じゃなかったっけ」

「うん、一人っ子」

 言ってることが滅茶苦茶じゃないか。一人っ子なのに、姉ちゃんってなんだよ。俺の頭が混乱しかけているのを感じ取ったのか、大宝寺はちょっと面白そうに笑った。事態を把握できていない俺がおかしくて笑っているんだと思ったけど、大宝寺が笑ったことに少し安心した。顔色こそよくないし、様子もいつもと違うけど、大宝寺は笑わなくなったわけではなかった。俺もつられてちょっとだけ笑った。

 大宝寺は少し明るい語調で話す。

「あの女の人は、俺がずっと小さいときから知ってる人なんだ。近所に住んでるお姉さんなんだよ」

「じゃ、最初からそう言えば」

「拗ねるなよ」

「拗ねてない」

 大宝寺は言葉を次ぐ。

「昔よく遊んでくれたし、今でも声かけてくれるんだ。小さいうちって、四歳も離れてると結構な差だろ。だから俺、姉ちゃんって呼んでた。今もそのまま」

 今じゃもう、俺のほうが手も足も身長もでかいっていうのにな。寂しそうに、大宝寺はそんなことを言う。俺は、大宝寺をただ見ているだけだった。大宝寺とは三年目の付き合いになるのに、今目の前にいる切なげな大宝寺は知らなかった。

「俺、ちょっと元気なかったからさ。気分転換でもってことで、姉ちゃんが連れて行ってくれたんだ。約束の時間に遅刻して、化粧なんかしちゃって、お上品なスカートにサンダルなんか組み合わせて。そんなんだから雰囲気は大人だった」

 「雰囲気は」と言う大宝寺の真意がよくわからず、俺は首を傾げた。疑問を感じる俺が視界の片隅にちらついたのか、大宝寺は口を開いた。明らかになにか言おうとした。でも大宝寺はなにも言わずに口を閉じた。

 意地でも張っているのかと思えるくらいに、大宝寺は俺の顔を見なかった。俺だけが一方的に大宝寺に視線を送り続けていた。いっそ視線を突き刺している、とでも言ったほうがいいのかもしれない。

 俺には見向くことなく、大宝寺はときどき小さく口を動かした。声はなにも聞こえないけど、なにか言っているふうではあった。異様すぎる。俺が知っている、いつもの大宝寺とは絶対に違う。思わず、少しだけ大宝寺から離れたくなった。懸命にその衝動を抑えた。

「話を戻すんだけどさ、七瀬」

 はっきりと大宝寺は声を発した。はっとして、俺は大宝寺に向き直る。

「俺、初めてしたのが十二歳だったんだ」

「……え?」

 少しの合間を挟んで反応すると、大宝寺は同じフレーズを繰り返した。

「初体験が十二のとき」

「それ、まじで言ってんのかよ」

「まじだよ、紛うことなく」

 え、と俺も同じ反応を繰り返した。すると大宝寺は、ここでもまた笑う。

「そんなに驚くことかよ」

「驚くことだろ」

 すかさず突っ込むと、大宝寺は一層楽しそうに笑った。大宝寺が笑ったことに、俺はまたしても一息つきそうになってしまう。でも、今はそれどころではなかった。

 初体験が十二ってそれ、どういうことなんだ。小学生じゃないか。まじかよ。驚きが心の割合の大半を占めている。俺の心境を読み取ったのか、大宝寺はタイミングのいいことを言う。

「さすがに小学生じゃないよ。中学生になってた」

「なってたって、それ」

「なったばっかりだったかもしれないな。そんなに詳しく覚えてない」

「そんなんでいいのかよ、お前……」

 うーん、と大宝寺は唸った。俺としては、初めてそういうことをするのは人生を揺るがすようなとんでもない事態であり、詳しく覚えてないなどと一掃するようなことはあってはならないものだった。俺の中のそんなルールは、あっさりと覆された。

 十二歳は少し早すぎるような気がする。大宝寺は、中学生当時はそんなキャラだったということか。そうだとしたら、一体どんな生徒だったんだろう。いや、待った。ついさっき、大宝寺は、彼女なんていたことないって言ってたじゃないか。それなら、その告白はなんなんだ。そういうことは、恋人同士が同意の上でやるものじゃないのか。そうだとしたら、大宝寺が言っていることは辻褄が合わない。

「本当に俺、覚えてないんだ。どこでどうあの子に出会って、どうしてそんなことになって、どうしてそんな関係が続いたのか。わかんないんだ。わかんないんだよ、俺」

 あ、と俺は小さく声を漏らした。大宝寺の様子が戻った。さっきの楽しそうな笑い声なんて欠片もなかった。理科室での一件のような、追い詰められたような、逃げ場を失くしたぎりぎりの線で突き落とされる寸前の、破裂しそうな大宝寺だった。

 大宝寺は張り詰めた息をか細く吐き出す。そのうちに自分で自分の肩を抱いて、小刻みに震え始めた。おかしい。俺は大宝寺に手を伸ばしかけた。大宝寺がまた口を開いて、俺は伸ばした手を引っ込めてしまった。なんで引っ込めた。自分自身に問い質すけど、その答えは出てこなかった。

「高校生くらいだったんだと思うけど、名前は教えてくれなかった。だから俺、勝手にモモカって呼んでた。好きに呼べって言うから、好きに呼んでた。で、本当にやるだけの関係なんだ。友達でもないし恋人でもない、本当にやるだけの。誰とでもやる女だったんだよ」

「大宝寺」

「そんな女なのに、俺、依存してた。なんかよくわかんないけど、たぶん嬉しかったんだ。その場限りかもしれないけど、俺がこれだけ最低なことしても、受け入れてくれる人間がいるってこと」

「もういいよ」

「やった後の虚しさと喪失感といったらなかった。それから逃れるために、もう一回やるんだ。でも、そしたら虚しさが倍増しなんだよ。耐え切れなくて、もう一度やるだろ。また虚しさが膨れ上がって、もう無限ループでさ」

「大宝寺!」

 それこそ無限ループしそうな言葉を止めるために、俺は大宝寺の肩を叩く。我に返ったように、大宝寺は小さく跳ねた。大宝寺の腕には、鳥肌が立っていた。鳥肌が立っている上に真っ青だった。相当重症の病人みたいだった。

 大宝寺は俺を見た。安定せず弱りきったその瞳には、色濃い感情がひとつだけ滲んでいる。なにかに怯えているような目だった。大宝寺の視線は、俺を透かしてなにか別のものを見ているようだった。咄嗟に背後を振り返った。なにもなかった。

「大宝寺、お前どうしたんだよ」

 大宝寺は瞳の奥を頼りなく揺らしているだけだった。俺はもう一度後ろを見た。なにかがいるはずもなかった。そうだというのに、大宝寺は確実に、俺の後ろになにかを見ていた。なんなんだよ、これ。この状況。何度後ろを確認しても、そこにはなにも存在していなかった。

「なにもいないぜ、大宝寺」

 大宝寺の身体を揺すった。大宝寺の反応はなく、蝋のように硬直したままだった。どうしたらいいのかわからなくなった。放っておくことだけはできなかった。ここが俺の家でよかった。ここが家の中じゃなくてどこか屋外だったなら、すごく大変なことになっていたような気がする。

「どこを見てるんだよ、大宝寺。そこにはなにもいない。俺越しになにが見えるっていうんだ」

 なあ、大宝寺。ほとんど叫ぶように俺が言うと、ようやく大宝寺は変化を起こした。気が付いたように目を見開いて、掠れた息を飲み込む。落ち着いたんだろうか。俺が息をつきかけた瞬間に、大宝寺は肩に置かれた俺の手を掴んだ。手首から伝わる掌の温度は、ぞっとするくらい冷たかった。

 大宝寺は、俺の片手を片手で掴んでいる。大宝寺は俯いた。俯いて、掴んでいる俺の手首を捻り上げた。いきなり強く、容赦なく。途端に伝わってくる強引な痛みに驚いて、同時に耐えられなくて俺の口から声が漏れた。

 高校柔道日本一の大宝寺の力は、絶対にバカにできない。必死に大宝寺の手から抜けようと全身を捻った。でも、ダメだった。なにをどうしても、状況は変わらなかった。大宝寺の手には、相当の力が篭っていた。俺ひとりではどうすることもできなかった。

 右手が一生使いものにならなくなるんじゃないか。ふとそんな想像をしてしまった。懸命に大宝寺の力から逃れようとするけど、やっぱりどうにもできなかった。

「放せよ、大宝寺……っ!」

 そうしている間にも、着実に手首のダメージが募っていく。両手を使ってもまったく敵わなかった。それでも抵抗をやめるわけにはいかなかった。やめれば確実に骨が折れるとわかっていた。

「七瀬の身体って綺麗だよな」

 耳を疑った。こいつ、なにか言ったか。抵抗することも忘れて、俺は大宝寺に目をやった。

「痩せてるけど、細すぎなくてさ。触ると本当に気持ちよさそうっていうか、線が柔らかいっていうか。なんか色っぽくて」

「なに言ってんだよ」

「くっきりした二重が愛くるしいよな。そんなに綺麗な顔してるのに、なんでお前は外され者なんだよ」

 そんなこと知るかと思う。好き好んでクラスで孤立しているわけじゃないし、好きで父さんや母さんが帰ってこない家に生まれたわけでもない。大宝寺は意味がわからない。そんなのより解放して欲しい。大宝寺は微かに笑い声を漏らした。そして俺の右手を放した。右手を労わろうとした俺に、無意識の隙ができた。俺の指に、大宝寺の指が絡みついてきた。なにか言う余裕さえもなく、信じられないくらい簡単にソファーに組み敷かれた。なんなんだよ、これ。覆い被さる大宝寺の影に、俺は息を呑むことすらもできなかった。

 これからなにが始まるのか、予想できないほどバカではなかった。あの日、理科室でできなかったことを、大宝寺は今ここでやるつもりなのだ。この家はに俺たちふたりしかいないし、今回は、誰かが運よく現われてくれるはずもない。冷房完備の部屋は閉め切っている。詩仁が帰ってくれば家の鍵が開く音がするから、要はその間にすべてを隠蔽してしまえばいい。いや、今の大宝寺は続けるかもしれない。俺に逃げ場はない。

 嫌だ。絶対に嫌だ。なんとか大宝寺を突き飛ばそうとするけど、大宝寺の力には到底敵わない。大宝寺は青白い顔で柔らかく笑う。

「そんなに怖がらなくても大丈夫だよ、嘉仁。できる限り優しく、ゆっくりやるから」

 呼び方が変わった。やばい。本当にやばい。俺の中で警鐘が鳴り響く。

 大宝寺の左手が、俺の首筋に移動した。片手だけ自由になった。この手で大宝寺を押しのければいい。最低限、意思はもっと確実に表明できる。でもこの状況で俺から大宝寺に触れるというのは、結局最悪の事態を招くのではないか。悠長なそんな想像のせいでなにもできなかった。

 首筋に触れた大宝寺の手が、襟元から服の下に入ってきた。全身に鳥肌が立った。なにかを確認するように、手は胸元を撫でた後に引っ込んだ。その手で今度は髪に触れてくる。

「俺も俺なりにたくさん考えたんだよ。その結果、俺がお前にとって一番距離の近い存在になるには、こうするしかないと思ったんだ」

 大宝寺は言う。

「言っただろ。俺、立川景以上になりたいって」

「なんで景の名前が出てくるんだよ」

「俺とお前よりも、立川景は、精神的にお前と近い位置にいるんだ。だから、せめて物理的にはお前と一番近いとこにいたい。やったことないんだろ、嘉仁。だったら、尚更これで俺のこと感じてくれたらいいなって思って」

 なにをそんなに考えたのか。大宝寺が俺とそんなことをしたい意味も、それをしたところでなにがどう大宝寺の望む通りになるのかも、俺には全然わからなかった。 大宝寺は、自分で自分をどうすることもできないくらいに、精神的に酷く参っている。それだけは俺にもわかったけど、わかったところでどんな対処をしてやればいいのか、またわからない。あまりにも頼りない俺自身。唇を噛んだ。まどろっこしい。鬱陶しい。こんなことしたくない。

 手が太腿を撫でる。生温い感覚が、俺の身体の奥で唸る。嫌だ。嫌だ嫌だ。絶対やだ。これでもかというくらい、力いっぱい目を閉じた。どうにもできないんだから、どうだっていい。淡くそんな感情が芽吹いた。

 身体にかかる圧力と感触が消えた。大宝寺は、唐突に俺から身体を引き剥がしていた。何事も起こらなかったことに、俺は困惑した。目を開けて身体を起こしてみると、大宝寺が立ち上がっていた。大宝寺は何歩か後退し、耳を塞いで、腰が抜けたように座り込んだ。たった今起こっていたことと正反対に角度の違うその光景に、俺は唖然とした。

「俺、思うんだ。こうなったら、本当に事件を起こすしかないかもしれないって」

大宝寺の身体が震える。俺にとっては不測の事態だった。

「もう俺、どうしたらいいかわからない。どうにもできない。俺が知ってる俺じゃない」

 大宝寺の中で、なにか異常な事態が起こっている。それは確かだ。じゃあ、なにが起こっている。生唾を吞み込んで、俺は大宝寺に駆け寄った。

「もう嫌だ。やだ。いやだ」

 大宝寺は耳を塞いだままだ。俺は、とりあえず大宝寺のくぐもった声に耳を傾けた。大宝寺の話を聞くことは、ずっと俺が思っていたことでもあった。詰まりの激しい声は掠れているけど、だからこそ、これは大宝寺が懸命に搾り出している本当の声なんだと思う。それなら尚更、聞かないわけにはいかなかった。

「俺、自分が怖い。なにするかわからない。自分で自分をどうにもできない」

「大宝寺はなにも悪いことしてない」

「違う。手遅れなんだ。もう遅いんだ、手遅れなんだよ」

 滑舌悪く振動する大宝寺の声を聴いていられなくて、大宝寺の肩に手を伸ばした。すると大宝寺は、触れられることを最初から悟っていたかのように、俺の手を払い落とした。その力は意外に強く、ぱん、と小気味よい音が部屋で弾ける。叩かれた手の甲は、ほんの少し赤っぽく染まっていた。まさか手をはたき落とされると思っていなかった俺は、瞬きをして大宝寺を見つめているだけだった。そのうちに、大宝寺の視線と俺の視線がぶつかった。一瞬驚いた顔をした大宝寺は、すぐにまた視線を伏せた。わけがわからず、俺は大宝寺の下向きがちな横顔を眺めていた。

「ごめん」

 手の甲が熱を持って痛む。震える身体を力ずくで抑えつけているのか、大宝寺は肩を引き寄せるように抱いていた。

「本当にごめん。俺が悪い。ごめん、ごめん、ごめんなさい」

「大宝寺」

「ごめん、ごめん、ごめん。ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい、ごめんなさい」

 大宝寺は、何度も何度もその言葉を絞り出す。壊れて融通が利かなくなった、年代もののビデオテープみたいだった。血なんて誰も流してないし、とてつもない暴力があったわけでもないのに、大宝寺がひたすら「ごめんなさい」と口走る光景は凄惨だった。仮にも大宝寺は、日本で一番強い高校生のはずじゃなかったか。それなのに、俺の目の前の大宝寺は、どうして今にも粉々に砕けてしまいそうなほど繊細で、脆そうなんだ。俺はドラマの中にでも飛び込んだんだろうか。ずきり、と頭の奥に不快な音が響いた。音はすぐに鈍い痛みに変換された。一瞬眩暈がして、視界が微かにブレた。瞬間的に遠のいた意識を、俺は必死に繋ぎとめた。

 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。大宝寺は、まだ謝り続けている。どこかに飛んでいきそうな自我を手繰り寄せて、俺は大宝寺に問う。「なにをそんなに謝ってるんだよ」。それがちゃんとした声になっていたかどうかは、俺自身にも上手く聞き取れなかった。

 詰めたような深い息を吐き出しながら、大宝寺は腰を上げた。そのまま、覚束ない足取りで後ろにさがった。青紫色に変色した足の爪が、俺の視界に入ってきた。

「助けて、七瀬……」

 涙の混じった大宝寺の声を聞いた。聞いて、耳を疑った。助けて、だって。その瞬間、大宝寺が背を向けた。あ、と俺が思う間もなく、部屋を飛び出していく。反応の遅れた俺が立ち上がり、玄関を覗いた頃には、既に大宝寺の姿は見当たらなかった。部屋で冷房が効いていた分、部屋の外は、生温いゼリーの中に埋もれているようだった。陽の当たらない室内ですらここまで暑いのに、外なんて洒落にならない暑さだ。この暑い中を大宝寺は駆け抜けていったんだろうか。たぶんそうなんだろうけど、そうだとしても、俺にはどうすることもできなかった。

 リビングに戻った俺の目に、テーブルの上に置かれたグラスふたつが映った。涼しげな麦茶に浮かんでいる、いくつかの氷はまだ溶けきっていなかった。大宝寺がここにいたのは、本当に短い時間だけだった。

 ――助けて、七瀬。

 大宝寺の言葉が耳の奥で反芻される。助けてやりたいけど、なにが起こっているのかわからなかった。なにを抱え込んでいるのかわからないのに助けてやれるほど、俺は器用な人間でもなかった。でも、大宝寺は確実に助けを求めていた。

「俺にどうしろっていうんだよ」

 俺しかいない家の中で、返事など当然あるはずがなかった。唸るようなエアコンの音が部屋に響く。機械的なその風に触れたのか、グラスの麦茶が少し揺れた。

 なんとなく携帯電話を手に取ってみた。受信メールの件数が十二件、着信履歴が三件。残りの電池表示はあとひとつになっている。充電しなきゃ。他人事のように俺は思った。






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