夕陽と公園、倉林咲華(2)
「手すら繋いでないってどういうことよ!」
鈴菜はぐっと身を押し出してくる。コーヒーカップが倒れそうだ。予想を上回る勢いに、わたしはちょっとびっくりしながらも上目遣いがちに両手の人差し指を合わせる。
「だ、だって……」
「だってもなにもないじゃない! どうしてそんなにベッタベタなのよ、あんたは!」
奇声を上げて、鈴菜はがしがしと髪を掻き毟った。せっかく綺麗にセットしたウェーブが乱れる。食堂にいるみんなが鈴菜を見ている。わたしを見ている。あの女の子たちどうしたんだ、苦情の電話で苛立ってるのかな、という声が聞こえる。なんだかわたしは恥ずかしくて、頭の天辺から火でも噴き出してきそうだった。苦情の電話くらいで苛立たないわよ。事務員を舐めるんじゃないわよ。思っても胸を張る度胸は、残念ながらわたしにはない。
くぅううう、と絞り出すような声を発しながら、鈴菜はふたつの拳で三度テーブルを叩いた。食堂の横長いテーブルの向こうには、わたしと鈴菜以外にもたくさんの人が着いている。迷惑だ。そう思ったわたしの視線が、課長の視線がぶつかった。不機嫌そうにこっちを凝視している。あいつ、ただでさえ小言が多くて鬱陶しいのに。わたしは慌てて鈴菜を止めに入る。
「課長が見てるよ、鈴菜」
「そんなの関係ないわよ!」
鈴菜は目を大きく開いてわたしを睨んだ。関係ないわけないじゃない。そう言いたいけど、ヒートアップしている鈴菜が相手では無駄なことはわかっていた。わたしはなるべく課長を視界の外にやりながら引き下がった。
食堂の時計は、午後十二時半を示していた。昼休みに入って三十分。残り後三十分。鈴菜はお弁当を食べる前からこんな感じだった。
「やっとデートまでありつけたと思ったのに! 観覧車の中でのちゅーっの話を楽しみにしてたのに! 手すら繋いでないって一体なんなのよ! なにしに行ったのよ! 中学生じゃないのよ!」
声が滅茶苦茶大きい。周囲に丸聞こえ。かもしれない。だとしたら、もう恥ずかしくて会社にいられない。わたしは、小さな声で笑顔を作って言ってみる。
「で、でも、相手は高校生だし」
「もう十八になってるんでしょ! 年齢制限だってとっくに解禁されてんのよ!」
真っ昼間から堂々となんの話をしてるの。困ったわたしは、誤魔化そうという意図も含めて笑った。これ以上この話を続けても鈴菜が熱くなっていくだけだ。昨日のテレビの話題に変えよう。人差し指を立てて「あのね、昨日」と切り出した。人差し指が掴まれた。わたしがそれに反応する間もなく鈴菜が言う。すごくドスの効いた形相だった。同い年の女子としては、あるまじきド迫力だった。
「話を逸らそうったって無駄なのよ」
「あはは。なんでわかっちゃうんだろう」
「あんたの魂胆なんて見え見え。常に」
あははは、とわたしが成す術もなく作り笑いを続けていると、鈴菜は一層、凄んで見せた。あんたって奴は本当に、とその瞳が言っている。そんなことをされたら、更に成す術なしに困った笑顔を保ち続けるしかない。
鈴菜はわたしの指を放すと、大きく息を吐いて元のポジションに居直った。踏み切りのつかないわたしにすっかり呆れてしまったのだろうか。でも、そんなこと言ったって仕方ないじゃない。わたしだって一歩前に進みたい。一歩進みたい気持ちはあるのに。コーヒーカップに口をつける。ミルクも砂糖もたっぷり入れたはずなのに、コーヒーは何故か苦かった。
「中学生時代から全国大会を連覇してて、高校生になってからも公式試合で負けはなし」
鈴菜はぼやく。わたしは黙ってコーヒーを飲む。そんなはずあるわけないのに、さっきよりも苦味が増したような気がする。
「テレビに出たこともあって、雑誌に載ったこともある。運動神経は全体的にかなりよくて、背も普通にあるし、細身で筋肉質。ついでに顔もよい。そりゃモテるわね」
鈴菜の一言一言が、わたしの胸にちくりと刺さる。全部わたしが喋ったこと。教えてあげたこと。わたしが鈴菜に話したことは、まだまだたくさんあった。彼のことを話そうとすれば、きっといつまでだって喋っていられる。夜なんて簡単に明かしてしまう。
「泰ちゃん本人は、あんまり人と関わろうとはしないのよ。彼女どころか友達だってほとんどいないみたいだし」
カップのコーヒーに視線を落とし、わたしは言う。
泰ちゃんは小さい頃からそうだった。公園に行ってもひとりで砂場に座っていた。同じ年頃の子にいくら誘われても、絶対に一緒に遊ぶことはなかった。泰ちゃんは、お母さんとお父さんとしか遊ばなかった。何歳か年上の子には、少し気を許すことがあるみたいだった。わたしも泰ちゃんと仲良くなった。そんなわたしでさえも、ほかの子を連れていたら泰ちゃんはついてこなかった。どうやら、大人数が嫌みたいだった。わたしは泰ちゃんを家に招くことが多くなった。そのうちに、わたしは泰ちゃんを「泰ちゃん」と呼ぶようになり、泰ちゃんはわたしを「咲華の姉ちゃん」と呼ぶようになった。聞けば、泰ちゃんは外に出ることを嫌がって、幼稚園にもほとんど通っていなかったらしい。
「大宝寺泰雅君、ね」
鈴菜は天井を見上げる。
「十分人気者になれるのにそうしない。わざと人を避けている。そういう影のある部分も、女の子には魅力的なのかもね」
そうなのかな、とわたしは言った。そうなのよ、と鈴菜は返してくる。
「咲華は、どうして大宝寺君のことが好きなの?」
え、とわたしは口篭る。どうして、なんて面と向かって訊かれると、正直困ってしまう。幼馴染みの泰ちゃんになんで恋してしまったか、わたしにもわからなかった。わからないけど、いつからか泰ちゃんのことが好きになっていた。泰ちゃんの幸せそうな顔が見たい。でもわたしは、泰ちゃんの幸せそうな顔なんてほとんど見たことがない。ハイスペースランドにふたりで出かけたときだって、おやつを食べた後くらいから様子がおかしかった。その日わたしは、結局告白できなかった。
「昔からよく知ってる幼馴染みは、意識し始めると早いらしいんだけどね」
鈴菜はなにげなく恐ろしいことを言う。そういう話は確かに聞いたことがあった。わたしも泰ちゃんのことを初めて意識してから、好きなんだと気付くまではすごく早かった。でも、泰ちゃんは全然まったく悲しいくらいに、わたしを異性だと見ていなかった。鈴菜が言うように、ふたりきりで観覧車に乗ればそれとなく進展があるかもしれないと思っていた。お互いに意識するきっかけくらいにはなるかな、と夢想していた。でも泰ちゃんにとっては、わたしは飽くまで幼馴染の近所のお姉さんだった。わたしはこんなにも泰ちゃんのことを意識していて、気分転換を口実にやっとの思いで泰ちゃんを誘って、それなのに、悲しいほどに空回りする。わたしが本当の気持ちを打ち明けないからだろうか。泰ちゃんはわたしの心に気付いてくれない。いっそわたしの心臓の音が泰ちゃんに聞こえればいい。そうしたら、泰ちゃんはきっと気付いてくれる。
「幼馴染みっていう関係があるだけに、はっきりと言葉で伝えなきゃならないのかもしれないわね」
常々わたしも思っていることを、鈴菜はきっぱりと言い切った。わたしは黙って頷く。頷きはするし、鈴菜が言うことをわかってはいるけれど、告白する勇気はない。何度も決心するけど、結局できない。それに、泰ちゃんの口から、俺自身が興味ないからモテても意味がないという言葉を聞いてしまった。尚更告白なんてできなかった。
「泰ちゃんは恋愛なんかどうだっていいのよ」
「そんなわけないでしょ。華の高校生、十八歳なのよ。いくら柔道日本一だろうがなんだろうが恋くらいするわよ」
「全然そんな雰囲気じゃない」
「成人雑誌くらいは見てるって」
「……見てないと思う」
成人雑誌という衝撃的な響きに少し驚愕しながらも、わたしは言う。すると鈴菜は、何故かむきになって否定する。
「見てるに決まってるでしょ! いくら幼馴染みでも男は男なんだから!」
「なにそんなに怒ってんの」
「見てなかったら嬉しいなっていうあんたの願望でしょ」
「本当に見てないと思うんだけど」
「まあ、別にいいんだけど」
不意に鈴菜は、考え込むように顎に人差し指を当てた。
「あんたも面倒なのを好きになったわね」
「わたしもそう思う」
「男なんてほかにいくらだっているじゃない」
「そりゃそれはそうだけど」
鈴菜と会話している間にも思う。男なんて星の数よりも多く世の中に溢れていることは、わたしにもわかっている。女だってそれは同じで、とんでもない数が地球上に存在することもわかる。
でもわたしは泰ちゃんがいい。泰ちゃん以外なんて、絶対に嫌だ。考えたくもない。わたしはきゅっと唇を結ぶ。そんなわたしを、なんだか難しい顔をして鈴菜が見ている。気持ちを汲み取っているのかもしれない。
鈴菜は、わたしが泰ちゃんのことで相談できる唯一の相手だった。鈴菜が言うには、いくら本人が普通に振る舞っているようでも、相手との会話の一端や雰囲気でその人が目の前の人間に恋しているというのは、なんとなくわかるらしい。言われてみれば納得できる話だった。わたしにもそういう経験はある。
だからこそ、鈴菜は泰ちゃんがわたしの気持ちにまったく気付いていないことに苛立ちモードなのだ。せっかくわたしが勇気を出して泰ちゃんを遊びに誘ったのに、ベタだけど観覧車にも乗ったのに、見事になにもなかった。なにかの小説では、幼馴染みがふたりで遊園地に行って観覧車に乗り、まるで当たり前のようにキスをしたという描写があった。現実には程遠かった。期待したわたしも大バカだった。
「本当に面倒なのを好きになったわよね、あんたって」
「わたしもそう思ってる」
「諦める手は」
「あるわけないじゃない」
間髪を入れずに返すと、鈴菜は目を伏せた。いい加減で相手をするのが億劫になってきたのかもしれない。わたし自身も、踏み切れない自分がいい加減で億劫だった。
「どうしても諦めたくないって言うなら」
明らかに思考を廻らせている様子で、鈴菜が言う。
「作戦を大幅に変更したほうがよさそうね。咲華、あんたも二十二歳のいい大人なんだから」
二十二歳のいい大人。言葉の意味しているところがよくわからず、鈴菜の目を覗き込む。鈴菜は「してやったり」という顔をしていた。やっぱりわたしには意味がわからずに、鈴菜の顔を見つめるしかなかった。
携帯電話の時間表示を見て、鈴菜は言う。
「そろそろ昼休みはおしまいね。咲華、早くコーヒー飲んで」
「ねえ、作戦ってなに」
「後で教えてあげるわよ」
言うと、鈴菜は微笑んだ。愛くるしいけど、裏のある微笑だった。なに企んでるの、この人。ひとり席を立った鈴菜に置いていかれないように、コーヒーを喉に流し込んだ。すっかり冷えていたけれど、それでもやっぱり苦かった。明日からはもっといっぱい砂糖を入れよう。わたしはそう決心した。




