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日鐘第二高等学校3年A組 大宝寺泰雅(4)

 俺が初めて七瀬と知り合ったのは、高校に入ってすぐの四月のことだった。春の嵐というくらいに、とまでは言わないけれど、風の強い一日だった。そのときの七瀬も、校舎の屋上でひとり佇んでいた。七瀬は、今も昔も屋上でひとりで過ごす時間が多かった。

 入学して間もないというのに、クラスの連中は、既に昔からの仲間顔負けで打ち解けていた。中学生のときから柔道の全国大会で優勝を続けていた俺は、自己紹介するまでもなく、最初から有名人だった。だからみんな声をかけてきてくれたけど、小さい頃から人と接することが苦手だった俺にとっては、上手に応えることがすごく難しかった。ストレスでもあった。だから、昼休みになると弁当箱を引っ掴み、真っ先に教室を抜け出て屋上に向かっていた。屋上の出入りは禁止されていたし、と言っても鍵が錆びているために開いてしまうのだが、とにかく屋上ならひとりになれることを知っていた。俺はその日も屋上を目指していた。七瀬を見つけたのはそんな矢先だった。

 自分以外の人間が屋上に来ているということに関して、単純に驚いた。高いフェンスの手前で胡座をかき、その人間は、弁当箱と箸を各手に黙々と飯を食っていた。そいつがいるポジションは、まさにいつも俺が座っている絶妙のピンポイントだった。俺と違っていたのは、そいつがフェンスに背を向けて座っていることだった。

 腹も減っていたし、いつもと同じ場所に座りたかった俺はそいつに近付いた。本当に風が強かった。こんなところでなにか食べていたら、ゴミや砂が飛んでくるかもしれない。それでも、ここ以外でひとりになれる場所なんてなかった。ゴミや砂を避けてでも、俺は屋上にいたかった。

「俺、ここでいつも飯食うんだけど」

 言うと、そいつは顔を上げた。くっきりとした二重瞼が印象的な奴だった。

 そいつはなにも言わなかった。その後、なにを思ったのか、半分も食べてないのに弁当箱を片付け始めた。俺が来たから食べるのをやめた、としか思えない行動だった。

「指定席だったんだな。ごめん、知らなかった」

 話が噛み合ってなかった。俺はいつも通りここで弁当箱を開けたかっただけで、消えろなんて言ってないのだ。それなのに、そいつはこの場を去ろうとしている。なんとか止めたかったけど、情けないことに、どう言えばいいのかわからなかった。一言「一緒に食べよう」と誘えば済む話だったんだけど、人と必要以上に付き合ったことがない俺は、そんな簡単なことのひとつすら実行できなかった。

 人が苦手だなんて言いながら、あのときの俺は、内心では誰かと積極的に関わりたかったのかもしれない。自らひとりになることを望んでいるのに、その裏では、ひとりぼっちの寂しい領域に誰かが踏み込んできてくれることを期待している。矛盾した願望を満たしているのが、そのときの俺の目に映るそいつその人、七瀬嘉仁だった。

 去ろうとしているそいつの背中を、俺は必死に呼び止めた。そいつは振り向き、案の定、俺は困る。咄嗟に思いついたのがフェンスのことだった。

「なんでフェンスが背中側にあったんだ? 俺はいつも景色を見ながら食べるんだけど」

 今から考えると信じられないくらい、七瀬の目は荒んでいた。常に笑顔を絶やさない七瀬を知っている現在では、すべて嘘だったのではないかと思うくらいに酷く病んでいた。あの頃の七瀬は、少なくとも現在の七瀬よりも自分を剥き出しにしていた。なにもかも笑顔で隠して誤魔化そうとする現在の七瀬より、ちょっとだけ精神的に健康だったのかもしれない。

 俯いて、小さな声で七瀬は答える。「落ちたくなるから」。その返答は、俺にとっては想定外だった。「なんとなく」とか「別に意味なんてないけど」とか、そういう感じの答えが返ってくると思い込んでいた俺は、アホみたいに訊き返した。

「なんて?」

「落ちたくなるから」

 七瀬は同じ言葉を繰り返した。七瀬の視線は、俺を睨んでいるというよりは拗ねてふて腐れているように見えた。

「高いから落ちたくなるんだ。落ちたら楽になれるんだろうなって考えたら、本当に実行しちゃいそうだし」

 嘘や冗談を言っているふうではなかった。自殺願望かよ。さすがに死にたいと思ったことのなかった俺は、どう反応すればいいのかわからなかった。

「それじゃ」

 七瀬は背を向け、再び去ろうと足を運ぶ。呆然としていた俺は、ここではっと我に返った。慌てて七瀬を呼び止める。まだなにかあるのか、と言いたげに振り向いた七瀬に、ようやく俺はしどろもどろに切り出したのだった。

「よかったら、一緒に食べよう」

 今思えば、人生で初めて自ら人とコミュニケーションを取ろうとした最初の一言だった。閉塞した世界に生きていた俺にとって、七瀬の出現は奇跡とも言える出来事だった。最低限、あのとき自分から七瀬に声をかけられたことは、俺の人間としての進歩だった。やっと進歩できた。そう思うのは、結局俺は心の奥で、非常に自分勝手ながら、ひとりきりの閉じた世界から抜け出したいと願っていたからだった。俺が作った檻をすり抜けてやって来てくれるなら、たとえその人間に自殺願望があっても構わなかった。

 初対面で弾む話題もなく、七瀬も現在のように始終笑顔ではなかった。むしろ全然笑ってなかった。俺と七瀬は、黙々と弁当を食べていた。お互いに自己紹介だけは済ませたけれど、そこから話題を発展させることは不可能だった。なんでひとりで屋上にいたんだ、なんて訊いても、それが七瀬の趣向だなんてとても思えない状況だったし、だからこそその話題は避けたかった。俺がひとりで屋上に来る理由も、あまり口にしたくなかった。「大宝寺泰雅って、なんか聞いたことある気がする」。そう言った七瀬に「それって、俺が柔道の全国大会で優勝したときに受けたテレビの取材だ」と返して話を広げることも、考えてはみた。でも、柔道の話はしたくなかった。いろいろ考えてみても、俺が持ち出せる話題なんて皆無だった。

 黙って箸を口に運んでいる七瀬はどうだか知らないけれど、俺は滅茶苦茶気まずかった。目をどこにやればいいのかすらもわからず、視線を落ち着きなく滑らせている。こんな俺が、成績上は日本で最強の中学生だったのか。自分でも甚だ笑える話だった。

 助けを求める俺の視界に、七瀬の弁当が飛び込んでくる。一人息子が高校に上がりたてで張り切っている俺の母親が作る弁当よりも、明らかに手の込んだ中身だった。唐揚げや煮物、卵焼き、そこにはレタスやトマトも入っている。白いご飯の上には、鮭の切り身まで乗っていた。量は半分くらいしか残ってないのに、ボリュームはすごかった。

「なに見てんの」

 見惚れてしまっていた俺に、七瀬は感なく言う。

「俺の弁当、そんなに美味そうに見える?」

「あ、いや」

 思わずそう言ってしまい、俺は慌てて首を振った。

「美味そうだよ、すごく。母さん、毎朝頑張ってるんだな」

「毎朝作ってるの、俺だぜ」

「え?」

 衝撃的な一言だった。七瀬の弁当は、どう見ても母親が早起きして詰めたような、作り慣れた雰囲気があった。おかずの種類も多いし、色彩も綺麗だし、昨日の夕食の残りを使ったようなオーラもない。まして七瀬は、つい最近高校生になったばかりだ。女子でもこんなお手本みたいな弁当はすぐには作れないだろう。だから俺は衝撃を受けた。

 七瀬は言う。

「いつもはこんなんじゃないんだぜ。もっと簡単。今日は、ちょっとだけ時間かかってるんだ」

 形式なので俺は訊ねる。

「なんで?」

「弟が遠足だから。中学最初の遠足で、いきなりコンビニ弁当なんて可哀想じゃん」

 俺は、弁当とは母親が作るものと認識していた。母親ではないにしても、少なくとも俺には、自分で自分の弁当を作るという考えは微塵もなかった。弁当というのは、朝、俺の身支度が整うと自動的にできあがっている。そういう思い込みがあった。

 七瀬が自分の分のみならず、弟の分まで弁当を作る。最初、俺は信じられなかった。

 軽率かな、と思いつつ、俺は七瀬に訊ねてみる。

「親はいないの?」

「いるよ」

 しかし、七瀬はあっさりと答える。俺は拍子抜けだった。

「いるけど、弁当作らないってこと?」

「忙しいんだ。父さんも母さんも」

「弁当を作るのは、七瀬の仕事なんだ」

「弁当を作るのも晩飯を作るのも、掃除するのも洗濯するのも、俺の仕事」

 ますます衝撃的だった。七瀬の言っていることが本当なら、七瀬は毎日、俺の母親と同じことをやっていることになる。

 七瀬の母親は、家にいるのに? 七瀬の家庭環境が見えてこなかった。

 詮索するのも野暮かと思い、俺は黙り込んだ。そこで七瀬は、思い出したように言う。

「全部俺ひとりでやってるわけじゃないんだぜ。弟が手伝ってくれるんだ。ゴミ出しには毎回行ってくれるし、なんか買い忘れがあったりしたら買ってきてくれるし」

 七瀬は、次から次へと捻り出した。弟は回覧板を持って行ってくれるし、ご飯も炊くし、拭き掃除もする。一緒に料理することもある。食器だって洗ってくれる。かなり不恰好だけど、ホットケーキやドーナツを作ることもある。それって、俺が作ったカレーなんかやチーズケーキなんかよりも断然美味い、最高のメニューなんだぜ。

 ひとつひとつの出来事を思い返すように、七瀬は指を折りながら話す。箸は完全に止まっていて、色彩鮮やかな弁当箱が取り残されていた。

「自慢の弟なんだ」

 ニュアンスが微妙な一言だった。自慢の弟と言っているのに、どことなく逃げ場を求めているようで、それなのにその感覚は、如実には現われない。本当に弟を誇りに思っているようにも受け取れるし、ただの自嘲のようにも受け取れた。俺にはわからなかった。今も昔も、七瀬の気持ちなんて俺にはわからない。

「自慢の弟。勉強だってできるし、運動もできるし、歌なんて滅茶苦茶に上手いんだ。俺なんかと違ってレベルの高い私立に通ってるし、女の子にも人気なんだぜ」

 七瀬は続ける。

「でも、完璧だけど、俺がいないとダメなんだ。俺がいなきゃ。俺がいてやらなきゃ」

 そして七瀬は、病的に繰り返した。「俺がいないと。あいつには、絶対、俺がいてやらないと」。箸で弁当の中身を何度も突き立て始めた七瀬は、正直怖かった。俺の箸は完全に硬直していた。七瀬から目を逸らすこともできなかった。それくらい、七瀬の行為は壮絶だった。「詩仁には、絶対に俺が必要なんだ」。俺が七瀬の弟の名前を知ったのは、そのときだった。

 七瀬は箸をご飯に突き刺した。力があまりに強かったのか、手から弁当箱が滑り落ちた。唐揚げやレタスや卵焼きが散乱した。俺はなにも言えずに七瀬を見ていた。飛散した弁当の中身を見ていた。七瀬は握りしめた箸の先を床に押しつけていた。折れる、と俺は思った。

 風が吹いた。生温くて強い風だった。春の嵐と呼んでも全然支障ないくらいの、強烈な風だった。

 風が過ぎ去ると、七瀬はここで初めて笑った。ついさっきまでの様子とは全然違う、現在の七瀬もよく見せるお馴染みのそれだった。散乱した弁当の中身は、あまりに場違いだった。

「俺の自慢の弟」

 戸惑った後、俺は「へえ」と返した。七瀬は笑っていた。何故笑っているのか理解できない俺は、相槌を打っているだけだった。だから、七瀬はすごく印象的だった。ときどき屋上に佇んでいて、自分で弁当を作っていて、弟の弁当を作ってやって、弟に必須の兄で、高いところでは落ちたくなって、それでも落ちることはなく、そして唐突に笑顔になる。七瀬嘉仁という存在は、脳に強烈に焼きついた。七瀬がクラスの外され者で、昔からずっとそうだったことを知ったのは、この日よりも少し後だった。

 勉強机に置かれた携帯電話は、時々ぼんやりと光を放つ。なんで光るのかはわからなかった。誰かからのメールとは考えたくなかった。俺以外の誰かと七瀬が関わっているなんて許せなかった。立川景からのメールだったらどうしよう。弟が連絡してきたというのも嫌だ。俺じゃないとダメだ。俺がメールを送信していない以上、七瀬は誰からのメールも受け取らないはずなんだ。そうじゃないといけない。携帯電話が光るのは、最新のニュースを受信したからだと思い込んだ。

 最初に七瀬の携帯電話を手にしたときは、中身を見てやろうと思った。七瀬はそんなに携帯電話を多用するタイプでもないけれど、そうすることで七瀬の日常の隙間くらいは覗ける。そこに介入する邪魔な要素は、俺のデータ以外の痕跡は、ひとつ残らず削除してやるつもりだった。

 七瀬が携帯電話を失って、そろそろ一週間になる。もしかしたらなにかアクションがあるかもしれないと思ったけど、今までないということはその線はないだろう。ちょっと寂しかったけど、仕方ないことでもあった。

 あの日以降補習に行かず、必要以上に自分の部屋から出ていない俺は、ずっと考えている。思い返している。七瀬と初めて出会った日のこと、七瀬とゲームをして遊んだこと、七瀬が一生懸命漫画について語っていたこと。七瀬を含む、すべての事柄。あの日、七瀬を壁際に追い詰めて、シャツの隙間から触れた肌。真夏の汗ばんだ肌。首筋はじっとりと濡れていた。七瀬を完全な意味で支配したかった。不純物を除いて七瀬を直接感じたかったし、七瀬には俺を感じて欲しかった。七瀬弟や立川景は持たない、俺だけが持つ特別性。俺には必要な行為だった。必要な行為だったのに。七瀬が逃げ出したのも、無理のない話だった。

 やばい。俺は思う。ベッドに座って、おぼろげに、それでいてはっきりと俺は思っている。やばい、やばい。頭の中で、ぎりぎりに張った弦が弾かれているようだった。やばい、痛い。痛い痛い痛い。音がどんどん激しくなる。やばい。出てくる。あいつが出てくる。音が激しい。耳を塞ぐ。出てくる。出てくるな。痛い。痛い。出てくるな。出てくるな。出てくるな。

 ――なにをそんなに怯えてるの?

 頭の中が真っ白になった。

 出てくるなって言ってるのに。ずっと煩いと言ってるのに。それでもこいつは登場する。性懲りもなく現れる。うんざりだ。こいつなんて塵ほども求めていないのに。生まれてきて俺の相手をしろ、とも言っていない。言っていないのに、勝手にこいつは湧いて出た。黴菌野郎。いや、黴菌娘。

「また、お前かよ……」

 耳を塞ぐのは、いつだって無意味だ。だけど塞がずにはいられなかった。こいつの声は耳障りだった。

 ――七瀬をモノにできなかったこと、すごく残念に思うわ。

「煩い。黙れ」

 ――今からでも七瀬の家に行けば? もう補習も終わってるし、あの人、一緒に寄り道する人もいないでしょ。

「黙れ」

 ――あのとき逃げてくれてよかった、なんて。どうしてそんな嘘吐くの?

「黙れって言ってるだろ!」

 俺が叫べば、そいつは楽しそうに笑う。無邪気じゃなく、悪意たっぷりの意地悪な声だ。耳障りすぎる。鬱陶しすぎる。俺は耳を塞ぐ。耳を塞ぐ意味はない。 

 ――立川景に嫉妬してるんでしょ。

「してない」

 ――彼以上の存在になるには、ああするしかないんだって自分で結論づけてるくせに。

「煩い、煩い!」

 ――わたしにだけは、本音を打ち明ければいいのに。

「逃げてくれてよかったんだ。あのとき七瀬が逃げてくれなかったら、俺はとんでもないことをしてたんだ。逃げてくれてよかったんだ!」

 ――ケータイの中身、どうして見ないの?

「そんなこと……っ!」

 ベッドを降りて、学習机に両手をつく。七瀬の携帯電話がまた光った。時計を見た。十三時三十三分。こんな区切りの悪い時間に、最新のニュースを受信するとは思えなかった。

 机を爪で引っ掻いた。爪が痛かった。物理的な痛みを感じられることが救いだと思った。

「そんなこと、できるわけないだろ」

 なんで。面白がるように、声が訊ねてくる。この声が一体なんなのかわからない。頭の中で聞こえるような気もするし、頭の中ではないところから聞こえるような気もする。とりあえず、こいつは俺の中にいる。それしかわからなかった。

  ――ちょっとだけ残されてる、貴方の良心ってわけね。

「これを我慢しきれば、俺はまだ、自分の人生を修正できる」

 ――そうね、修正できるでしょうね。貴方はいつも中途半端。七瀬弟を殺し損ねて、七瀬本人を襲い損ねて、そのくせ、したくもない柔道だけは完璧なの。

「それ以上喋ったら殺す」

 ――殺せないわ。

「なんでだよ」

 ――わたしを殺すなら、まず貴方が貴方を殺さないとダメだから。

 咄嗟に引き出しを引いた。勢いで椅子が倒れた。お構いなしに引き出しの中を漁る。目当てのものは、すぐに見つかった。小学生のとき、図工の時間で使った彫刻刀セットだった。ケースを開けて、刃が一番太い一本を取り出した。迷いなくそれを振り翳した。勢いをつけて胸を突き刺そうとした瞬間に、部屋のドアが開け放たれた。誰かの手に彫刻刀を弾かれて肩を掴まれた。彫刻刀が微かな音をたてて床に転がる。目を大きく開いていて、顔も唇も真っ青の母さんが目の前にいた。

「泰雅、なにをしてるの!」

 母さんは俺の肩を酷く揺さぶる。揺さぶられるまま、俺の首は動いた。

「泰雅、泰雅。母さんがわかる?」

 耳障りなあいつの声が聞こえなくなった。黙っただけかもしれない。それでもよかった。俺は大きく息を吐き出した。あいつの声が聞こえなくなったことで、ひとまず安心できた。目を閉じて、母さんの背中に腕を回す。

「わかるよ、母さん」

 母さんは驚いたように俺を見た。俺は軽く笑って見せた。一瞬複雑な表情をした後、ぎゅっと俺を抱き寄せた。痛いくらいの力強さが、俺はすごく嬉しかった。

「辛いことがあるなら話して。母さんが無理矢理大学に行かせようとしてるから?」

「ううん、母さん」

「三者面談のときのことは、母さん、ちょっと反省してるの。泰雅の意思なんて聞かずに、勝手に話を進めちゃって。就職したいなら、今からでも先生に相談しましょう」

「そうじゃないんだ。俺は大丈夫。あんなことしてごめん。心配させてごめん、母さん」

 母さんが鼻を啜る音がした。親を泣かせてしまった。悪いことをした。罪悪感に駆られながら、もう一度目を閉じた。暫くはこのままでいいと思った。

 ――いい息子ごっこなんて、やめちゃえばいいのに。

 聞こえないはずの声が聞こえる。俺の中から消えてくれない。硬く目を閉じて、母さんの背中を抱きしめた。助けてくれ、母さん。思えば思うほど、母さんを抱きしめる俺の腕に力が篭る。母さんは、そんな俺の力をどんなふうに受け取っているのだろうか。愛情表現と思うだろうか。親に縋る子供の感情の表れと感じるだろうか。本当は、そのどちらでもない。でも、もしかしたら、その両方かもしれない。もう俺にもわからない。危険信号は、きっと母さんにも、誰にも届かない。

 助けて欲しかった。俺が頼れるのは、両親しかいないのだ。だからお願いだ。助けて欲しい。俺の目からも涙が零れた。俺の中では、意地の悪い含み笑いが響いていた。目から涙が零れ続けた。




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