旅路
夜が明ける前。
空はまだ薄暗く、東の空がわずかに白み始めていた。
診療所の前には二頭の馬が用意されている。
荷物は最低限。
長く続く逃亡生活になるかもしれないのだから、本当はもっと持っていきたいものもあった。
けれど、そうもいかない。
少しでも身軽でなければならない。
シャルロットは荷物を抱えたまま立ち尽くしていた。
目の前にはオーウェンがいる。
いつも通りの笑顔。
いつも通りの穏やかな顔。
それなのに。
胸が苦しかった。
「本当にお別れなのね……」
「まあな」
オーウェンは肩を竦める。
「二度と会えないわけじゃないんだから、そんな顔するな」
その言葉で堪えていたものが決壊した。
シャルロットの目から涙が零れる。
「だって……」
言葉にならない。
記憶を失って目覚めた日、最初に見たのはオーウェンだった。
不安だった自分を安心させてくれた。
分からないことだらけだった自分に、何度も優しく説明してくれた。
兄のように、家族のように、いつもそばにいてくれた。
「ありがとうございました……」
涙声だった。
「本当に……」
「おいおい」
オーウェンは苦笑する。
「そんな改まられると困るんだけど」
それでもシャルロットの頭を軽く撫でた。
「元気でな」
その言葉が余計に涙を誘った。
シャルロットは泣きながら何度も頷く。
オーウェンはそんな様子を見ながら笑った。
「何かあったら戻って来い」
「……はい」
「俺はここにいる」
シャルロットはとうとう声を上げて泣いてしまった。
オーウェンは最後まで優しかった。
少し離れた場所でその様子を見ていたクルルは、静かに目を伏せる。
自分はもう別れを済ませていた。
夜明け前。
シャルロットがまだ眠っていた頃に、オーウェンと二人で話した。
短い会話だったが、2人にはそれで十分だった。
『生きろよ』
親友はそう言った。
だからクルルも笑った。
『お前もな』
それだけだった。
長々と別れを惜しむような関係ではない。
必要な言葉はもう伝わっていた。
やがて、シャルロットも少し落ち着いて、とうとう出発だ。
馬に跨って、診療所を振り返る。
見慣れた家だった。
大切な場所だった。
もう二度と戻れないかもしれない。
そう思うと胸が痛む。
「行くぞ」
クルルの声にシャルロットは小さく頷いた。
そして二人は馬を進める。
目指すのは隣国。
皇太子の権力が及ばない場所。
誰にも追われずに生きられる場所。
長い旅が始まってしばらくは無言だった。
馬の蹄の音だけが響く。
朝日が昇り始める。
やがてクルルが口を開いた。
「なあ」
「なに?」
シャルロットが顔を向ける。
クルルは少し迷ったようだった。
だが結局聞いた。
「記憶はどこまで戻った?」
シャルロットは黙り込む。
自分でも整理しきれていない。
それでもゆっくり答えた。
「ルカス様が戦争から帰ってきたところまでは覚えているわ」
クルルの表情が僅かに硬くなる。
「それから……セシリアさん」
その名前を口にすると胸がざわつく。
「その人が現れたところまで」
クルルは何も言わない。
ただ前を向いている。
シャルロットは続けた。
「でも、それより後が分からないの」
本当に分からない。
霧の向こう側だ。
幸せだった記憶の続きが見えない。
「思い出せそうか?」
「……分からないわ」
正直な答えだった。
「最近は夢も増えてるし」
夢。
フラッシュバック。
断片的な記憶。
少しずつ増えている。
いつか全部戻る気がする。
そんな予感があった。
「そうか」
クルルはそれだけ言った。
だがその横顔はどこか苦しそうだった。
シャルロットは気づいてしまった。
やはりクルルは記憶の話になると変だ。
何かを恐れている。
何かを隠している。
それが分かるけれど聞けなかった。
聞くのが怖かった。
もしその答えが、自分の望まないものだったら、今の穏やかな時間が壊れてしまう気がしたからだ。
二人は再び黙る。
風が吹く。
朝日が山々を照らしている。
記憶を失ったシャルロットにとっての故郷から遠ざかっていく道。
戻れない道。
それでも二人は進む。
それぞれ不安を抱えながら。
それぞれ秘密を抱えながら。
隣国へ向かう長い旅路を進んでいった。
第二章 終幕です!
三章は毎日更新できなくなると思います。




