理由
[登場人物]
富野瑛亮(14)中学三年生
葛西愁吾(14)中学三年生
葛西が外へ出て行ってから、落ち着かないまま椅子に座って、戻って来るのを待っていた。
いや、もう戻っては来ないかもしれない。それでも、顔を見て直接謝らない限り、今ここに抱えた罪悪感は消えそうになかった。
軋む扉の開く音がして、葛西が入って来る。彼が目を丸くしてこちらを見るその表情でも、幾分か安堵した。
「富野くん、もう居ないと思った。」
「そっちこそ。もう戻って来ないと思った。急に出て行くから。ごめん。嫌だった?」
葛西は困ったように笑顔を見せる。
「嫌なわけないじゃない。僕がいいって言ったのに。」
「そうだけど。」
それでも、欲にまみれて好き勝手してしまった後の出来事というだけに、素直には受け入れられなかった。
「だから。富野くんは、これからもそうやって、したい時だけ来ればいい。僕は何も嫌じゃないし。」
「ほんとに?」
葛西の顔は、またいつもみたいに微笑んでいた。けれど、その表情と声のトーンからは、嘘をついているような気配はしなかった。
「うん。それにまだ、あれから一週間くらいしか経ってないのに、ずいぶん上達したよね。」
「えっ。」
初めはあれほどに酷評された人から褒められるのは、そうでない人から同じ言葉を貰うより、何倍も嬉しく感じた。緩む口元を悟られないよう、下唇を噛んで誤魔化した。
それからは、葛西の言った言葉通りに、身を預けるようになった。
暇を持て余せば、何も考えず彼の元へ行って、溜まった欲求を解消する日々。これ以上のことは無くて、その日だけ満足すれば、それで終わり。葛西のことはよく知らないまま、彼の一部分だけは誰よりも知っている。誰にも言えない秘密で、歪な関係だった。
そのうちに季節も移り変わって、じめじめとした梅雨に入った。今日も天井から響くドタドタという足音が煩くて、ただでさえ天気の悪さに気が立っているのに、余計にイライラした。
床にあぐらをかいて座り、持ち込んだ漫画雑誌を雑に隣へ置く。
「ここの階段、誰も使わないからって好き勝手し過ぎだよな。」
葛西は文庫本を手に持ったまま、天井を見上げる。
「ああ。サッカー部の人たちでしょ。雨の日もちゃんとトレーニングして、感心だよね。」
まるで、お前はここで怠けてサボっているのに、と比較されているみたいに感じた。
「なんか……嫌味?」
「そう思うなら、そうなんじゃない?」
椅子の上からこちらを見下ろす葛西の顔は、皮肉を含んだように笑っている。思わず舌打ちをした。
「富野くんは、サッカー部だったの?」
「うん。一応、今でも籍はある。でも、行ってない。」
「へぇ。どうして。」
「去年までは、結構活躍してたんだけど。」
こいつに話したってどうにもならないし、馬鹿にされる気だってするのに、どうしてか話しを始めている自分がいた。
「小学生からクラブチームにも入ってたし、周りよりできるのは当たり前だったからさ。だけど、夏前に足怪我して、一か月くらい離れたら、なんか、戻れなくなって。」
「行けなくなったの?」
「自分でも、よく分かんない。怪我はもうとっくに治ってるのに、なんか、戻る勇気がずっと出ない。親にも言ってなくて、だからいつも、時間潰してから帰ってる。部活出てないことくらい、親も知ってる気がするけど、何も言ってこないし。それも、なんか、嫌。分かってんだよ。俺めちゃくちゃダセーことしてんなってのは。」
本を机上に置く音がして、葛西のほうを見る。彼はふうと息を一つ吐いて、頬杖をつく。
「心まで挫けて怪我をしてるのに、それは見えないからって、ほったらかしだからでしょ。」
「えっ。」
正面を向いた葛西の、視線だけがこちらを見る。
彼のことだから、聞いた途端に馬鹿にしてくると思っていた。意外な方向からの言葉が返ってきて、面食らってしまった。
「大人の期待とか、周りの嫉妬とか、ずっと受けてこられたのは、誰よりもできる自負があったから。それができなくなった瞬間、その自信も無くなって、プレッシャーに耐えられなくなる。富野くんはそれに気づかないで、まだ心は怪我をしたままだから、元の場所に戻れない。」
こんな話、適当に返されるか、なじられると思った。予想外に真面目に返された驚きと、言葉の全てを理解しきれなくて、答え方に迷った。
「あれ。核心ついちゃってごめん。傷付いた?」
葛西は表情すら変えないまま、こちらを見ている。
「いや、大丈夫。そんな真面目に返されると思わなくて。でも、お前の言葉、難しくてよく分かんなくて、なんて返したらいいか分かんなかった。」
机に向き直った葛西は、本のページをパラパラとめくりながら、元の体勢に戻る。
「部活、行ってなくてよかったんじゃない。もし今も行ってたら、僕とこうやって会話も成り立たないくらい、もっと国語ができなくなってたと思うよ。」
「は?」
さっきまでの真面目な返答が嘘みたいに、真っ直ぐな皮肉で返された。
「お前こそ、部活入ってないのやばくない?行かなくなった俺より、やってないお前のほうが、なんか、やばいじゃん。」
「入ってたよ。運動部は嫌だから、文化部がよかったけど。うちの中学って、文化部が吹奏楽部とパソコン部しかないでしょ。音楽には興味無いから、パソコン部にいたけど、合わなくて三か月で辞めちゃった。」
「やば。よく許してもらえたな。」
葛西は得意げな顔をして、こちらに向き直る。
「僕、成績はいいから。生徒会に入るとか適当に嘘ついて、今日まで一度も立候補せずに過ごしてきた。」
「へぇ。お前らしいな。」
葛西はなぜか、嬉しそうに笑う。
「富野くんは、高校決めた?」
「いや?なんも。」
「へぇ。富野くんらしいね。」
「それどういう意味だよ。」
ムッとした表情をしたはずなのに、彼はまだ嬉しそうにしていた。
「吉沢さんと同じ学校とか、勝手に目指してるんだと思った。」
「そういうの、何も考えてなかった。……花音、どこ受けるんだろう。」
急に、花音のことが遠く感じた。
上っ面だけ受験という言葉を使っているだけで、中身は二年の頃から何も変わらないまま、ちゃんと意識できていない。もう、今年で決めなくちゃいけないのに。
「ね。エイちゃん。」
葛西はわざとらしくそう言った。背中に、ゾワッとする不快感を感じた。
「やめろ。気持ち悪い。」
「僕も呼んでみたかったんだよね。」
「二度と使うな。」
彼のほうを睨んで、怒りを顕にして拒否を示した。しかし、彼は笑っていてなんとも思っていないみたいだった。
「僕とばっか一緒にいて、寂しがってるんじゃないの。吉沢さん。」
「お前と居るってことは知らねーけどな。」
床に放った漫画雑誌を手に取って、読み進めたページをパラパラと探す。チラッと見えた葛西の顔は、満足そうに笑みを浮かべていた。
「僕とのことは、内緒だもんね。」
その後もずっとニコニコと笑っている。彼の思惑が解せなくて、不愉快だった。
[次回更新]11月14日 金曜日 23時予定




