無意識
[登場人物]
富野瑛亮(14)中学三年生
葛西愁吾(14)中学三年生
放課後。部活へ向かう生徒の波に紛れて席を立ち、教室を出る。特に行くあてもないから、時間を潰すためだけにトイレへ入る。小便器の前で用を足していると、わざわざ隣を選ぶ奴が来て顔を見る。
涼しい顔をして隣にいたのは葛西だった。
「うわ、お前かよ。」
「嫌みたいに言わないでよ。」
「嫌だろ。なんで隣来んだよ。他空いてんじゃん。」
顎で一つ隣を指してみせるが、葛西は見向きもしない。やっぱり、変な奴だ。
「どこを選んでも自由でしょ。」
「だとしても隣は無い。」
「え、止まっちゃった?」
わざとらしくとぼけたフリで、こちらを覗き込む。反射的に身を前に出した。
「おい、見んな。」
「パンツ、ダサいね。」
「は?」
角度的に考えたら、絶対に見えていないはずなのに、適当なことを言う。本当に何を考えているか分からない奴だ。
やっと隣から葛西が居なくなり、落ち着いて用を足す。彼は手洗い場で手を洗いながら、チラッとこちらを見る。
「今日来る?文芸部。」
「行かねーよ。」
言葉の意味を知っているせいで、一瞬だけドキッとする。あの狭い空間と、その時の出来事を思い出させる、端的な隠語だった。
「それは寂しいね。少しは役に立った?」
「は?いや……別に。」
「へぇ、立ったんだ。」
葛西は蛇口の水を止めて、丁寧にハンカチで手を拭い、含んだ笑みを微かに浮かべる。
「勝手に判断すんな。」
「僕はいつでも待ってるけどね。」
そう言い残して、葛西はトイレを出て行った。
それから数日は、一度も寄ろうなんて思わなかった。しかし、あの日以来、あれを超える夢なんて一度も見られなければ、妄想のパターンもマンネリ化して、フラストレーションは溜まり続けた。その結果、再びこの扉の前に来てしまった。
ゆっくりと、軋む扉を開ける。
「あ、富野くん。」
豆電球の灯りの下、葛西は相変わらず、そこに座って本を読んでいた。文庫本から視線を外し、こちらを見ても驚きもせず、喜びもせず、すぐに存在を受け入れる。それが気持ち悪くて、何か言われた方がまだマシだと思った。
「……おう。」
「今日は何して欲しいの?」
葛西は本を机の上に置き、頬杖をついて、貼り付けたような笑顔でこちらに問い掛ける。
そんなに簡単に受容されると、逆に恥ずかしくなった。
「別に。たまには、来てやろうかと思って。」
「富野くんは優しいんだ。」
「優しくねーよ。」
花音に言われた言葉とリンクして、すぐに否定した。彼が同じことを言ったのも嫌だが、ここへ来た本当の理由を知っているのに、そんな風に言われるのはもっと嫌だった。
彼は否定の意味を分かっていて、クスッと笑う。
「エッチなだけか。」
「ちげーし。」
気恥ずかしさのために、直接的な指摘をされるのも嫌だった。本心を悟られないように、葛西から目を背ける。
「あれから、どんな妄想した?それとも、エッチな夢でも見た?」
「……別に。」
小さく返答すると、葛西はニンマリと笑う。
「へぇ。いいなぁ。」
「何が。」
睨むように彼の顔を見た。
どうして、彼は毎回こんなにも勘がいいのか。不思議に思って、盗聴でもされているんじゃないかと変なことまで疑った。
「寝ている間にあんな夢を見てしまった自分は、本当に自分なのだろうか。」
「は?」
「無意識に抑圧された感情は、心に影響を与えるんだって。無意識って概念は、昔の精神医学者、フロイトが提唱したの。」
「何の話だよ。意味分かんね。」
「富野くんは、吉沢さんに告白しないの?」
興味の無い話から、急に重大な質問をされて、鼓動がポンッと跳ねるような感覚がした。こいつは、花音への想いまで知っているのか。
「えっ、なんで。」
「なんでって。好きなんでしょ?授業中とか、よく見てるよね。吉沢さんのこと。」
「はっ?見てねーし。」
どうしてそんなことを訊くのか。裏に隠された意図を懸命に探して、一つの可能性に辿り着く。
「えっ……もしかしてお前。」
こちらが行かないなら先に行く、という宣戦布告に感じた。
葛西は眉間に皺を寄せて、呆れた様子でこちらを見る。
「は?富野くんは、バカなの?」
「は?」
「富野くんが吉沢さんを好きだってことくらい、見てたら分かる。でも僕は、吉沢さんのこと嫌いだから、安心して。」
予想と真逆を言われたとしても、彼に対して沸いてくる苛立ちはほとんど同じだった。花音のことを好きと言っても、嫌いと言っても癪に障るのだ。
「は?嫌いまでいく?好きじゃないとかじゃなくて?あの花音を?やば。お前、見る目無いよ。センス無い。」
葛西は口元を固く結んでから、次の瞬間には堪え切れずに吹き出す。
貶されて、何がそんなに可笑しいというのか、全く分からなくて気味が悪かった。葛西はその後も、一人でずっと大笑いしている。
「確かに。僕って見る目無いよね。だって、富野くんが好きなんだよ。僕でも出来ることを怖くてしない、富野くんのことが。こんな意気地なしを選ぶ僕って、本当にさ。」
「なっ……。」
葛西は机に伏せて、時折堪えるようにずっと笑っている。その笑いが恥ずかしくて、どうにか止めたくて、肩を掴む。
「笑いすぎ!もういいから!」
「本当に、僕ってセンス無い。」
「もう笑うなって!」
置かれた本が、机上と彼の腕の間から床に落ちる。嫌々、その本を拾った。
顔を上げた葛西は手を伸ばし、本を持った左手を引く。目が合って、反対の手の親指で唇を触られる。
「何だよ。」
「今日は、乾燥してないね。」
「別に。お前に言われたからじゃねーし。」
「今日もしていいよ。キス。」
そう言われて、少しだけ見開いた目の視線は、机上、左手、天井へ移りながら、最後は彼の口元で止まる。
「うん。」
唇を重ね、感触に集中して目を閉じる。上下の歯の間から、彼の舌先が触れる。その瞬間だけ驚いたものの、新しく得た感触の心地の良さに、夢中になっていく。吸い付くように心地の良さを求めるだけで、他には何も考えられないまま、欲に身を任せて絡めていく。
椅子がガタンと音を立てて、左手を掴む彼の手にぎゅっと力が入るのが分かった。代わりに、舌先の力は抜けていく。その様子に気付いて、惜しいと思いながらも、唇を離れる。
葛西は濡れた唇を一度噛んでから、口を開く。
「何、急に。」
彼の黒い瞳は、少しだけ揺れていた。
「何って、そっちが先に舌入れて来たんじゃん。」
「……そっか。」
葛西は視線を落として、椅子から立ち上がり、隣を通ってここから出て行こうとする。
「え、だめだった?」
後ろ姿の彼は、首を横に振る。
「富野くんはさ、ずっとそうやって、何も考えないでいてよ。」
「なんだよ、それ。」
振り返っていつもみたいに微笑んでから、葛西は扉を開けて出て行ってしまった。
[次回更新]11月11日 火曜日 23時予定




