感触
[登場人物]
富野瑛亮(14)中学三年生
吉沢花音(14)中学三年生
教室に戻って、自分の机の上に無造作に置かれたままの鞄を手に取る。
自分の中から聞こえてくる鼓動がいつもより早い。それを意識すればするほど、強く感じて落ち着かない。さっきまでの出来事の、余韻がまだ抜けないで残っている。彼のあの視線と、言われた言葉が印象的に焼き付いて、まだ心が動揺している。
教室を出るところで、花音にばったり出会った。
「エイちゃん。今帰り?」
いつも、あいつと何かあった後に花音と会う。今度は、この声で安寧は取り戻せなかった。
「あ、うん。そう。」
「そっか。気を付けてね。」
動揺か、注意力が散漫していてか、机に足を引っ掛ける。机の中からくしゃくしゃになったプリントとシャーペンが落ちる。
「うわ。誰の席だよ、汚ねー。」
それらを拾おうと屈んだ時、胸ポケットからリップクリームがするりと落ちて、軽い音を立ててから、花音のいるほうへ向かって床を転がっていく。
「あっ。」
花音が気付いて、拾おうと手を伸ばすのを見て、ハッとする。さっきまでの状況を想起させる、それだけは花音に触れられたくなかった。
素早く手を伸ばし、奪い取るように先にリップクリームを拾った。手の甲が、花音の指先と触れて、その部分を意識する。感覚を残したまま、急いで手を引いた。
「あ……ごめん。」
花音に、申し訳なさそうな顔をさせてしまう。
「いや。大丈夫。」
悪いと思っているのに、目すらも上手く合わせられなくて、素っ気ない態度を取ってしまう。机から出てきたプリントとシャーペンを拾って、机の中へ戻す。
「それ、もしかして一緒かな?」
「えっ。」
花音はポケットから、同じオレンジ色のリップクリームを取り出して見せる。
「これ!いいよね?」
花音は笑顔でそう言った。だけど、気を遣うみたいに話題にしたことにも気付いてしまって、気まずく感じた。一応、手に握ったものと見比べて、それが同じものであることを確認する。
「本当だ。」
「たまたまお揃いだったなんて、なんか嬉しい。」
素直に「うん」と言えなかった。これがどういう経緯で、どういう意味でここにあるか、存在の背景を知っていたからだった。花音と同じものを持っていたのは、さっきまであいつだったことは受け入れたくない事実だった。
「いや。これ貰っただけだから。」
「あ……。そっか。」
花音との会話の途中に、嫌でもあいつが頭の中に出てくることが気に障って、邪魔をされたみたいでイライラする。
それでも、手の甲に残った感覚だけは消えていなくて、反対の手で押さえた。こんなことなら、この場を早く切り上げて、空想の中で話したほうがいいくらいに感じた。
「じゃあ、俺帰るわ。」
「あ。うん。私もタオル取りに来たんだった。」
すれ違い、教室に入る花音。
今振り返ったら、花音は笑顔で手を振ってくれるかもしれないのに、今日はそれが出来なかった。それだけ、秘密の存在は大きかった。
回り道をして、花音と歩いた道を歩いて帰った。何か、気を紛らわせることをしないと、平常心を保てなくて心が押し潰されそうだった。
家に着いて、部屋の隅に鞄を置こうと屈んだ拍子に、また胸ポケットからオレンジ色のリップクリームが落ちる。溜め息をついて拾い上げる。狭くて天井の低い、あの空間で起きた事が、断片的に思い出される。毎日塗るように言われて渡された時の、葛西の視線を覚えていることが鬱陶しくて、頭を軽く振って忘れようと努める。
ベッドの上に仰向けになって、リップクリームを手に持ったまま、天井に右手をかざす。花音と触れた手の甲の感触を目を閉じて思い出して、しまっておきたい記憶を奥へ奥へと追いやる。
開いた窓から聞こえていた木の揺らぐ音と、車の走行音が、少しずつ遠くなっていく。
「エイちゃん。」
名前を呼ばれて、顔を上げる。目の前には、制服姿でこちらに微笑みかける花音がいた。
「花音、どうした?」
「これ、エイちゃんの?」
花音はオレンジ色のリップクリームを、口元の前で持っている。
「えっ。」
思わず、左胸に手を当てる。ポケットには何も入っていない代わりに、自分の心臓の音が強く速く鼓動していた。
「やっぱりエイちゃんのだったんだ。あれ?ちょっと待って。」
花音の顔が、ぐっと顔の近くに寄ってくる。上目遣いの視線と目が合って、息を飲む。
「エイちゃんの唇、乾燥してるよ?」
「え。そう?」
「うん。私がこれ、塗ってあげるね。」
花音はリップクリームのキャップを外し、口元に持ってくる。ゆっくりと唇に塗り広げ、キャップを閉じる。
「これで大丈夫。私とキスもできるね。」
「えっ。本当に?」
「いいよ。でも、ちょっと待って。」
花音は閉じたキャップをもう一度開けて、今度は自分の唇に塗った。
「それ、俺の……。」
「あ。そっか。ごめん、返すね。」
上目遣いでリップクリームを胸ポケットに入れる花音。シャツ越しに、リップクリームが入る感覚がした。花音は目を閉じ、こちらに唇を突き出して見せる。少し戸惑いながらも、このチャンスを逃してはいけないという思いだけはしっかりと持っていた。
花音の肩に手を伸ばし、ゆっくりと唇を重ねる。溶けてしまいそうなほど柔らかくて、ほんのりと甘い香りがする。この時点でもう、これ以上の我慢をするのは不可能だった。
なのに、目を開けて見ると、両手で掴んでいる花音の肩から胸にかけてのシャツが透けて、胸元のボタンが外れているのが視界に入る。
心臓がさらに速く鼓動しているのを自覚した。
「キスしちゃったね。」
「もっと、花音に触りたい。」
「いいよ。」
シャツのボタンに手を掛ける花音。もう、どう思われたって、何でもよくて、息遣いの隙間にごくりと唾を飲み込んだ。
目を開けると、真っ暗になった部屋。ぐちゃっとした不快感、何が起きたのか追い付かない頭、変な感覚だった。確かに感触があった唇に、手を当てる。右手には、花音が唇に塗ったリップクリームを持っている。それなのに、この部屋には自分以外、誰もいない。
今までのことが、夢の中での出来事だったと理解するまで少し時間が掛かった。
「もう少しで、見れるところだったのに。」
ふてくされて再び目を閉じる。それでも、あんな最高な夢の続きを見ることはできなかった。
[次回更新]11月7日 金曜日 23時予定




