秘密
[登場人物]
富野瑛亮(14)中学三年生
葛西愁吾(14)中学三年生
葛西は「ついてきて」と言って教室を出ると、普段から教師も含め、誰も使わない北側の階段を下っていく。生徒の間では心霊現象が起きるという噂まであって、怪訝に思いながら後に付いていく。踊り場には寄贈された大きな鏡があって、鏡越しの葛西と目が合う。彼は最後の階段を下ると、右手にある掃除用具入れの前を通り過ぎる。その先は行き止まりのはずだ。
「え、どこ行くの?」
「こっち。」
葛西の指差す先に、階段下のスペースを利用した倉庫の扉があった。思わず、眉間に皺を寄せる。そんな反応を見て彼はクスッと笑い、慣れたようにその扉を開ける。
恐る恐る中へ入ると、少しだけ埃っぽさはありながらも、意外にも快適な二畳ほどの狭い空間が広がっていた。中には、古い机と椅子が置かれ、階段下で天井が低くなっている角のほうには、ほうきやモップがまとめてバケツの中に入れられていた。
「すげー、何ここ。」
「僕がいつもいる場所。もう一年、誰にも見つかってない。最初はもっと埃っぽくてかび臭かったんだけど、僕が掃除してここまで綺麗にしたの。偉くない?」
葛西は得意げな表情をする。なんだか、初めて見る顔だった。
「まぁ、うん。でも、ここで何してんの?」
「本読んでる。文芸部だから。」
葛西は古い椅子に座り、置かれた机の中から小説を取り出す。天井には、電池で稼働する電球があって、きっと勝手に括り付けたのだろうが、それを我が物顔で点灯させる。
「文芸部?そんなのあったっけ、うちの中学に。」
「無いよ。僕が作った。僕一人でやってる部活。」
「なんだそれ。」
わざわざこんな辺鄙な場所で、小さな灯りの中読書をする葛西を見て、変な奴だと思った。彼は「あっ」と思い出したように本を閉じ、こちらを見る。
「富野くんは、キスしてみたいんだったよね。」
「えっ。」
非日常な出来事が起きたせいで、脳は完全に冷静さを取り戻していた。再び訪れた機会に、改めて困惑する。しかし、葛西はこちらのそんな思惑を知ることもなく、立ち上がってすぐそばまで寄って来る。逆光を浴びる彼の影が伸びて、心の中に変な緊張感を生む。
「タンマ、タンマ!」
両手を前に突き出し、近づく葛西の足を止める。彼は表情を変えずに、突き出した両手首を軽く掴む。その手は、あの日の放課後に告白された、あの時に感じた温度と同じだった。
「いつまでチープな妄想で留まってる気?誰かに触れた感触や体温を覚えて、もっと妄想を充実させたらいいのに。」
「なんで、そんなこと。」
頭の中を見透かされているみたいに感じた驚きから、放った言葉だった。でも葛西は、そうは捉えていなかった。
「富野くんの妄想を、もっと充実させるための、素材として使えばいいの。僕を。」
彼の顔がぐっと近づく。変に続く緊張のせいで、ついその顔から目を逸らす。溜め息をつく葛西。
「これ、本番じゃなくてよかったね。」
「えっ。」
残念そうに困っている表情がそこにあった。
「本番って何?」
「僕が富野くんの好きな女の子だったら、全然決めきらない君に、もう幻滅してるところだよ。」
全く話の違うことを持ち出されて、少しイラッとした。
「は?そ、それとこれとは違うし。その時だったら、俺だってちゃんとするし。」
「できるの?」
「できるし。」
「じゃあそうして。」
掴まれたままだった手首が解放される。その手を彼の肩に置いて、ぎこちなくそれでも素早く、唇に唇を重ねる。
他のものに例えるのが難しいほどに、柔らかいその感触に初めて触れて、背筋から頭の後ろの神経がビリビリと熱くなった。そんな反応を悟られたくなくて、すぐ距離を取る。葛西はゆっくり目を開ける。
「下手くそ。」
「う、うるせ。」
開口一番に酷評を受けて、恥ずかしくなった。初めから上手くできるほど器用じゃないということは、自分自身が一番よく知っていた。
「もっとゆっくり、丁寧にしてよ。がさつなのは女の子に嫌われるよ。」
「なんだよ。文句ばっかり。」
彼はもう一度と言うように、目を閉じる。
息遣いがばれないように、少し息を止めて、今度はゆっくりと、そこにある柔らかい唇に、突き出した唇を重ねて離す。葛西がゆっくり目を開けて、その反応に緊張が走る。
「下手くそってことは無くなったけど。」
「まだなんかあんのかよ。」
「乾燥してて、触れた時が残念かも。これ、あげるから、毎日塗っておいて。」
葛西はズボンのポケットから、オレンジ色のリップクリームを取り出した。
「えー、だる。」
「モテなくてもいいの?」
「それは、嫌。」
「じゃあ毎日塗って。」
至近距離から、それを勝手にシャツの胸ポケットへしまい込む。彼の黒い瞳と目が合って、先に逸らされる。一瞬だけ、こいつの弱みを見たような気がした。
「文句ばっかり言ったのは、ごめん。」
葛西の下ろした手に、左手を掴まれる。そのまま、彼は自分の胸の辺りまで持っていき、そっと当てがう。
「でも、ちゃんとドキドキした。」
手のひらから、彼の速くて強い鼓動が伝わってきた。その速度は、自分の中から聞こえる音よりも、もっと速いような気がした。
「あ。おっぱいは無いよ。」
「当たり前だろ。」
彼は「ふふっ」と笑って、首の横に顔を埋める。髪が耳に当たるのがくすぐったくて、身を捩る。
「僕、いい匂いする?シャンプー変えたんだけど。」
くすぐったいのと、触れている面積が広いことが、だんだんと鬱陶しくなってきて、胸に当てがわれた手を押す。
「知らねーよ。てか、離れろ。」
「冷たいなぁ。キスの相手になってあげたのに。」
耳の下とうなじの間に、柔らかい感触がして「チュッ」と音まで立てるから、背中がゾワッと気持ち悪くなって突き離す。
「うわ、やめろって。」
葛西は勢いのまま、後ろによろける。
「ごめん。」
素直に謝った彼は、また微笑みを貼り付けたみたいな顔をしていた。
「俺帰るわ。」
「うん。いつでも来て。僕はここにいるから。」
何も返事をしないで外へ出て、後ろ手に扉を閉めた。二人で共有した、この誰にも言えない秘密を隠すような気持ちだった。
[次回更新]11月4日 火曜日 23時予定




