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  作者: 木々


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57/60

越境

[登場人物]

富野瑛亮(22)

つまらない日常は、つまらない生活になって定着し、あっという間に二年が経った。疎遠になると思っていた薫は、半年に一度くらいの頻度で食事に誘ってくれて、互いに近況報告をし合い、毎年誕生月には食事代を奢る仲になっていた。つまらない日々でも、薫がそうやって自分の存在を覚えていてくれるだけで、自分は運がいい。

今年は年度始めから、工場が全体的に忙しくなった。取引先からの注文が増え、一週間に二日くらい、一、二時間程度の残業をする日ができて、毎月の給料が増える。若い自分にはただ嬉しいことだったが、ここに勤めて四十年くらいになるベテランの人たちは、相当堪えているような印象だった。引っ越してから三度目の夏。学生が夏休みに入るタイミングで、社長さんはアルバイトを募集することを決定した。どうせ続かないことを見越し、面接に来てくれたひとは全員採用する勢いで、工場には一気に四人ものアルバイトが入る。友達同士の男子高校生が二人、女子大学生が一人、三十代くらいの主婦が一人で、その人たちへの指導を任された自分は、慣れない仕事に初日は疲れ切っていた。

社長さんは、アルバイトから社員になった自分がいることで、高校生の二人には期待している様子。全員、細かいミスはありながらも飲み込みは速く、工場の隅で私語をしながらでもできるので、高校生の二人はいつも談笑しながら作業をしていた。三週間が経ったころ、主婦のひとが辞めて、アルバイトは三人になる。相変わらず、高校生の二人は尽きない会話をしながら作業をするが、女子大学生は同性が居ないこともあってか、黙々と作業をしていたのが印象的だった。高校生たちが十個に一個くらいの割合でミスがあるのに対し、その女子大学生が担当したものにはほとんどミスがなく、丁寧な仕事をするので、自分は軽く検品するだけで次の工程へ引き継げる。そのこともあって、個人的には夏休み明けも彼女のほうが続けてくれたらいいのに、と思っていた。

八月の後半になると、女子大学生は自分が検品を担当していることも把握して、作業が終わると向こうからこちらへ来るようになる。ただ、様々な機械の音が響いている工場では、彼女の声は小さくて聞こえないことだけがネックだった。自分が気づかない限り、彼女はずっと背後に立ったままで、何度かそのたびに分かりやすく驚いてしまうのが、自分はとても恥ずかしい。しかし、この日は別のことで自分は体が飛び跳ねるほど驚く。工場内に響く大きな音がして、背後を振り返ると彼女は慌てた様子で落としてしまった部品を床から拾っていた。

「……あ、大丈夫ですか?」

すぐに自分も一緒に拾うのを手伝うと、彼女は何度も申し訳なさそうに謝る。自分はこの程度で壊れるものではないことを知っているから、そうやって何度も謝られるのを「大丈夫です」とか「同じ失敗をしたことがある」とか言いながら、彼女をなだめた。その日の夕方、退勤するときにもまた、彼女に呼び止められる。正直なところ、少しだけしつこいように感じてしまった。

「今日はすみませんでした。でも、拾うのを手伝ってくださりありがとうございました。」

「いえ。あれくらい大丈夫なので。」

「あの、富野さん。」

「は、はい。」

彼女がそう名前を呼んだとき、一度も名乗っていないのになぜ知っているのか、と思った。しかし、一か月も同じ職場にいたのだから、普通はそれくらい知っていて当たり前なのだろう。自分が周りのひとの名前を覚えようとしないせいで、勝手に全員がそうだと決めつけていることを、頭の中で葛西に指摘される。

「今度、何かお礼させてください。」

「え?」

彼女の言ったことは、自分が距離を取るために引いた線を、軽々と飛び越えた。

「いや……いいです。」

気持ちを蔑ろにするのはよくないと思いながらも、線を越えられたことに嫌悪を感じ、すぐに断ってしまう。そんなふうに言っておいて、名前も知らないのは悪いと変に偽善が働いて、タイムカードが並べられている場所をちらりと確認する。見覚えの無い女性の名前を短時間で必死に探し、彼女が「折橋愛花」という名前であることを把握する。

「いえ、でも。私、あのときすごくテンパってしまってたので、拾うだけじゃなくて失敗したのは私だけじゃないと精神的にも救ってもらえて助かりました。このままお礼もしないでいるのは、私の気が済みません。」

「ああ……。そうですか。いや、でも。何度もそう言ってもらっただけで、折橋さんの気持ちは伝わっているので、本当に、自分は大丈夫です。」

その後にすぐ「お疲れ様でした」と続けて、自分は逃げるようにその場から立ち去ろうとした。

「え……名前、知ってくれてたんですね。」

次に出す脚が、一瞬だけ歩みを止めた。振り返って顔を見たら、さらに何かを思わせる気がして、半身だけ向けるように会釈をして帰路につく。あのとき、偽善なんかで名前を探さなければ、もう少しだけ穏やかに帰れたかもしれないと思うと、後悔の念が後ろから波のように責めてくるようだった。

[次回更新]5月1日 金曜日 23時予定

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