第82話 悠真、合格祝いのオムライスで紗月に褒め倒される
月曜の夕方、紗月んちの門をくぐったところで、足が止まった。
玄関の明かりはついてる。二階は暗い。
「悠真、また見てる~」
先に扉を開けた紗月が、俺と二階を見比べた。
「……別に、見てねえよ」
「見てたよ。この間からずっと、お父さんいるか気にしてるでしょ」
ばれてんのかよ。
「たぶんしばらくいないよ。ほとんど帰ってこないし」
「たぶんってのが一番困るんだよ」
「じゃあ、靴見てみる?」
「確認させんな。余計に気にしてるみたいだろ」
「気にしてるじゃん」
紗月が笑って、玄関に入っていく。
この前、紗月の父親が何を考えてたのかは、結局わからないままだ。
帰り際のあれも、まだ引っかかってる。
でも、今日も来るって決めたのは俺だ。
靴を脱いで、紗月のあとを追う。
「今日、なに作るの?」
「冷蔵庫見てから」
「ほんとに言った通りだ!」
「俺が言ったんだから当たり前だろ」
「えへへ。そっか」
なんでそこでそんな嬉しそうなんだよ。
広い台所に入る。
冷蔵庫を開けた俺の後ろで、紗月がすぐにエプロンをつけ始めた。
この前のことは何も終わってない。
面接の結果も、まだ来てない。
それでも腹は減るし、夕飯は作る。
……今は、それでいい。
◇
それからの二週間は、やたら長いくせに、毎日やることはほとんど同じだった。
学校では期末試験の範囲が増えて、帰れば紗月んちで飯を作る。
食い終わったら、俺は自分の試験勉強。
紗月は教科書と、大学の学部が並んだスマホの画面を行ったり来たりしていた。
「悠真、ここ」
「自分で一回解けって」
「解いたよ! 答えが合わないの!」
「途中から符号が逆だろ」
「ほんとだ!」
「てか、スマホは閉じろよ。今は数学だろ」
「でも今日まだ三個しか学部見てないよ?」
「試験に出ねえだろ、それ」
「大学には出るよ!」
「大学は問題集から出てこねえよ」
こいつ、勉強の途中に進路まで混ぜるから、机の上がずっと忙しい。
俺のスマホは静かなままだった。
玄関のほうで物音がするたび、台所から顔を上げるのも直らない。
宅配だったり、お母さんだったり、風で何か鳴っただけだったりする。
そのたびに紗月がこっちを見る。
俺が何でもない顔して手元に戻るのも、いつものことになっていた。
◇
そんな日が続いた、ある日の放課後。
紗月が宮田の机に寄っていった。
「玲奈、ちょっと聞いて!」
「なに」
「この前ね、お父さんが帰ってきて、悠真と初めて一緒にごはん食べたの」
俺は鞄に教科書を詰めながら、手を止めた。
自分から話すのかよ。
「へえ。やっと会ったんだ」
「うん! 四人で食べたのも初めてだったんだよ。悠真、ずっと緊張してて」
「余計なとこまで言うなよ」
「味噌汁つぐとき、手も震えてたし」
「震えてねえって」
宮田が俺を見た。
「水野。まだ引きずってるでしょ」
「……別に」
「その返しでごまかせると思ってる?」
「思ってねえよ……」
引きずってるのは事実だしな。
っていうか、兄といい父親といい、こいつの家族は印象強すぎるんだよ……。
「あとね、専門の面接も終わってて、今は結果待ちなの」
紗月が続けると、宮田は一度だけうなずいた。
「専門に行くのは聞いてたけど、そこまで進んでたんだ」
「うん。だから今、ふたつ待ってる感じ」
「勝手に増やすな。お前の父親のほうは何を待ってんのかもわかんねえだろ」
むしろ教えてくれたほうが楽だわ。
「じゃあ、ひとつ半?」
「半ってなんだよ……」
宮田が小さく息を吐いた。
「紗月。水野で遊ぶの、試験終わってからにしたら?」
「遊んでないよ! 悠真のこと見てるの!」
宮田は、はいはい、と苦笑しながら俺たちから目を離した。
コイツ楽しんでるだろ……。
いつも通り、その日も俺たちは一緒に帰って、夕飯を作った。
次の日も。その次も。
紗月の父親が帰ってくることはなく、結果の連絡もないまま、期末試験だけが先に終わった。
◇
終業式の日。
教室には、夏休みの予定を話す声があちこちから飛んでいた。
宮田は鞄を肩に掛けながら、スマホを確認する。
「あたし、今日は矢野と出るから」
「玲奈、映画?」
「今日は買い物。映画ばっかりじゃないでしょ」
なんか忘れがちだけど、こいつら付き合ってるんだよな……。
いまだに慣れねぇ。
「いいなー。私たちもどっか行く?」
「今日は帰るぞ」
俺が言うと、紗月がこっちを向いた。
「あ。結果、今日だもんね」
「ああ。学校から来た案内だと、もう見れるはずだ」
宮田が俺の顔を見て、それから紗月を見る。
「じゃ、あとで教えて」
「うん! 玲奈にもすぐ言う!」
「なんでお前が先に答えるんだよ」
「だって私も待ってたもん!」
宮田はそれ以上言わず、教室を出ていった。
帰り道、紗月はいつもより俺の横から離れなかった。
「ねえ。悠真のおうちで、一緒に見ちゃだめ?」
「だめっていうか……一人で見る」
「なんで?」
「そうしたいから」
言ってから、紗月を見る。
口を尖らせてる。けど、ここは変える気にならなかった。
「……わかった」
紗月がうなずく。
「でも、見たらすぐ教えて。すぐだよ?」
「おう」
「画面閉じて、お茶飲んで、落ち着いてから、とかなしね?」
「そんな余裕あると思うか」
「じゃあ大丈夫だね!」
何が大丈夫なんだよ。
いつもの坂の前で別れる。
紗月は何度もスマホを指さしてから、坂を上がっていった。
◇
家には誰もいなかった。
自分の部屋に鞄を置いて、机の前に座る。
学校から面接のあとに届いた案内メールを開き、そこに書かれたWeb画面へ進んだ。
いちばん下のリンクを押すと、番号と生年月日を入れる画面が出る。
入力するだけなのに、二回打ち間違えた。
……落ち着け、俺。
押す。
白い画面が、一回固まって——
合格、と出た。
……。
え。
もう一回見る。同じことが書いてある。
「受かった……!」
声に出したら、急に本当になった。
急に力が抜けて、椅子の背にもたれる。
嬉しい。たぶん、すげえ嬉しい。
なのに、なんか落ち着かない。
最初に浮かんだのは、なんでか橘兄の顔だった。
あの人、なんて言うんだろうな。
たぶん「そうか」で終わりだけど。
紗月にも送らねぇとな。
母さんと親父は……直接言いたいし、後だな。
スマホを取って、紗月に『受かった』と送る。
矢野にも送っておいた。
次の瞬間、紗月から通話がかかってきた。
『うわあああああ! やった! やったやったやった!』
「うるせえ!」
耳からスマホを離した。
『悠真、おめでとう! すごいよ!』
「まだ、これからだろ」
『今日は今日のぶん、すごいの!』
返す言葉が出ない。
『玲奈にも言うね! お母さんと、お兄ちゃんにも!』
「おい、待て。俺より広めんの早くないか」
『だってうれしいんだもん!』
電話の向こうで、紗月が笑ってる。
……こいつ、俺より全力で喜んでんじゃねえか。
「……ありがとな」
『うん! 夕方、絶対来てね!』
「毎日行ってるだろ」
『今日は絶対なの!』
電話が切れたあと、少しして『玲奈にも言った!』と追加で届いた。
俺はもう一度、机の画面を見る。
文字は変わってない。
……受かった。
やっと、少しだけ息ができた。
◇
夕方、紗月んちの玄関を開けると、奥から足音が飛んできた。
「悠真! おめでとう!」
「近い近い。まだ靴脱いでねえって」
紗月はエプロン姿で、両手に木べらを一本ずつ持っていた。
「なんで二本持ってんだよ」
「どっち使うかわかんなくて!」
「片方置け」
「うん!」
片方を靴箱の上に置こうとする。
「そこじゃねえ! 台所に戻せ!」
開始五秒で不安しかない。
台所には、切った玉ねぎと鶏肉、卵が並んでいた。
「今日は私がオムライス作るつもりだったの」
「一人で?」
「うん。お祝いする人が作ったら、お祝いにならないでしょ?」
言いたいことはわかる。
ボウルの卵に殻も入ってない。玉ねぎも、前よりはちゃんと細かい。
「でもね、待ってるあいだに、なんか違うなって思って」
紗月が俺の前に、もう一枚のエプロンを差し出した。
「一緒に作ろ!」
「俺、祝われる側じゃなかったのかよ」
「一緒に作ったほうが、もっとお祝いっぽいもん!」
「理屈が途中で変わってんだろ」
「変えていいの! はい、悠真はチキンライス!」
「勝手に担当まで決めんな」
「私は卵やるから!」
紗月は下がる気がないらしい。
迷って、エプロンを受け取る。
「……焦がすなよ」
「焦がさないよ! 前より上手になってるんだから!」
「知ってる。だから任せる」
「うん!」
フライパンを二つ並べる。
俺が具を炒めて、紗月が隣で卵を混ぜる。
「悠真、ケチャップこれくらい?」
「もう少し。入れすぎるとべちゃっとする」
「じゃあ、ちょっとずつね」
「そう」
「卵は?」
「温まってから。まだ早い」
「はい先生!」
「先生じゃねえっての」
言いながら、俺は米を入れる。
隣で紗月がフライパンを持ち上げた。
「重くないか」
「大丈夫! これくらい持てるよ」
「じゃあ、傾けすぎんな。ゆっくり」
紗月が卵を流し入れる。
フライパンの上で、卵が丸く広がった。
紗月が「悠真」と呼びかけて、声を止めた。
フライパンを持つ手も、一瞬だけ止まる。
「……なに」
「ううん。チーズ、入れてもいい?」
「好きにしろ。お前の分だろ」
「悠真のにも入れる!」
「じゃあ聞いた意味ねえだろ」
何だったのかは、わからない。
でも、卵が固まり始めてる。
「ほら、手動かせ。今だ」
「わっ、待って待って!」
「待ったら焼けすぎるだろ」
「悠真、こっち持って!」
「自分でやるって言ったの誰だよ!」
「一緒に作るって言ったもん!」
「そういうとこだけ覚えてんじゃねえ!」
二人で騒ぎながら、どうにか二皿分を仕上げる。
どっちも形は少し崩れた。
けど、チキンライスはちゃんと包まれてる。
食卓に二皿並べると、紗月は自分の皿より先に俺のほうを見た。
「ね、食べて!」
「お前も食えよ。二人で作ったんだろ」
「……うん!」
同時にスプーンを入れる。
卵は少し焼けすぎてる。チーズも多い。
でも、うまい。
「どう?」
「……うまい」
「やった!」
「前より、だいぶマシになってる」
「今日は褒める日だよ。もっと!」
「調子乗んな」
「じゃあ私が褒める!」
紗月がスプーンを置いて、まっすぐこっちを見る。
「受かったからすごいんじゃないよ。……それも、すごいけど」
紗月が笑って、続ける。
「行くって決めたの、悠真だもん。だから、すごいの!」
……顔が熱い。
……飯の途中で全力出すなっての。
「……食え。冷めるだろ」
「えへへ。悠真、照れてる」
「うるせえ」
紗月が笑って、またスプーンを持つ。
これで終わりじゃない。
俺の料理の紙も、まだ途中。
紗月の進路だって、まだ決まってない。
それでも今日は、二人で作った飯がうまい。
「ねえ悠真。明日はデザートも作ろ!」
「祝い、明日まで続くのかよ」
「受かったんだから、夏休み中ずっとでもいいよ!」
「長すぎるだろ!」
紗月の皿は、もう半分なくなっていた。
……まあ、明日のぶんくらいなら、考えてもいいか。




