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「この人が彼氏です!」と学園アイドルに言われたモブ、逃げられなくなる  作者: もりぞー
第一部

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35/71

第35話 モブ、フォークダンスで学園アイドルの手を握り返してしまう

 振り回される暇もなかった。


 文化祭二日目。一般公開日の二日目。

 朝から装飾班の巡回に出て、一階のゲートの飾りが風で外れていたのを直して、二階のガーランドを一本張り直して、三階の壁飾りのテープを補修して——気がついたら昼を過ぎていた。


 D組の前を通るたびに、行列が伸びているのだけは見えた。

 昨日より明らかに長い。最後尾が隣のクラスどころか、その先まで来ている。


 メイド喫茶、どんだけ人気なんだよ。


 ポケットのスマホが何回か震えたが、返す余裕がなかった。

 昼過ぎにようやく見たら、橘からのLINEが溜まっていた。


『今日もおにぎり持ってきたよ!!』

『悠真くん忙しいの??』

『お昼どこにいるー??』

『もしかして食べてない??』

『ちゃんと食べなきゃダメだよ!!』


 ……お前は俺の母親か。


『さっき購買で食った 悪い』


 返した直後に既読がついた。


『もー!! おにぎり余っちゃったじゃん!!』


 知らんがな。


 ふと顔を上げたら、閉会放送が流れていた。


『本日の文化祭プログラムは全て終了しました。各クラスは片付けを開始してください。後夜祭は十六時よりグラウンドにて行います』


 ……あっという間だった。

 二日間がまるごと早送りされたような気分だ。


 長谷川からグループLINEが来た。


『装飾班は明日朝に撤去作業あるから今日はもう上がりで! お疲れ! 後夜祭楽しんでこい!』


 柊と沖から『お疲れさまでした』のスタンプが続く。


 俺もスタンプを返して、スマホをしまった。


 ……後夜祭か。


 昨日見たポスターが頭をよぎった。

 フォークダンス。キャンプファイヤー。

 あの時の橘の、勝ち誇った顔。


 ……勝てねえんだよな、あいつには。



 グラウンドに出ると、空気が変わっていた。


 中央にキャンプファイヤーの櫓が組まれている。まだ火はついていない。周りにはパイプ椅子が並べられて、準備をしている最中だった。

 軽音部がギターを弾いている。


 クラスTシャツのままのやつ、コスプレの名残が残ってるやつ、制服に戻ったやつ。

 バラバラな格好でみんな、ぞろぞろとグラウンドに集まってきている。


「おう、悠真」


 矢野だった。制服に戻っている。

 エプロンを取ったら普段の矢野だ。


「焼きそば、売り切れたか?」


「余裕で。二日目は午前で終わった」


「すごいな」


「たぶん今年うちのクラスが一番売れてる。打ち上げのカラオケ代出るかもしれん」


 矢野がグラウンドの中央を見た。


「お前、フォークダンス出るんだろ」


「……出るとは言ってない」


「橘がLINEで自慢してたぞ。宮田経由で回ってきた」


 あいつ……!


 ステージでは軽音部がまだ演奏している。

 目の前で音が鳴っているのに、何も頭に入ってこない。


 いつの間にかステージが終わっていて、マイクを持った実行委員が出てきた。


「それでは最後のプログラム、フォークダンスです! 踊りたいペアはグラウンド中央へどうぞ!」


 キャンプファイヤーに火がついた。

 オレンジの光がグラウンドに広がる。ざわめきが少し静まった。


 矢野がぼそっと言った。


「知ってるか?」


「何を」


「最後に一緒に踊った相手と結ばれるってやつ」


 は??

 なんだそれ。知らんぞ。


 知ってたらあんな軽く流してないんだが……。

 まさか、橘は知ってたのか?


 いきなりぶっこまれた俺は、ぐるぐる色々な考えが回る。


 元凶の矢野はこっちを見ていない。

 火の方を向いたまま、ポケットに手を突っ込んでいる。


 ……。


 いつも思うあの口実が、とっさに出てこなかった。

 なぜか、浮かびすら、しなかった。


 矢野はそれ以上何も言わなかった。


「悠真くん!」


 聞き慣れた声がした。


 振り向いたら、制服姿の橘が駆けてきた。

 息を弾ませている。


「行くよ!」


「いや——」


 腕を引かれた。


「ちょ、橘——」


「ほら早く! もう始まってるじゃん!」


 周囲のざわめきが聞こえた。


「あれ橘さんじゃん」


「えっ、誰あの人。彼氏?」


「水野くんだよ、二年の」


「マジで?」


 マジじゃないんだけど——いや、マジなのか?

 知らん。今はそれどころじゃない。


 キャンプファイヤーの前に引きずり出された。

 何組かのペアがすでに踊っている。曲が流れている。たぶんワルツだ。

 いや違う、もっと簡単なやつだ。フォークダンスだから。


「俺、踊り方わかんねえぞ」


「大丈夫! 手つないで回るだけだよ!」


 大丈夫じゃない。全然大丈夫じゃない。


 橘が俺の手を取った。


 右手に橘の左手。

 火の光が揺れている。


 ……こいつ、手ちっちゃいな。


 音楽に合わせて、なんとなく足を動かした。

 ぎこちない。俺だけがぎこちない。

 橘は楽しそうにステップを踏んでいる。


「ほら、悠真くん、もっとこっち!」


「近い」


「フォークダンスなんだから近いの当たり前でしょ!」


 こいつに理屈で勝てたことが一度もない。


 ぐるぐる回っている。火の粉が空に飛んでいくのが見える。

 周りにも何組か踊っているペアがいる。

 みんな笑っている。


 橘が笑っていた。


 キャンプファイヤーの光が、こいつの顔を照らしている。

 目が、離れなかった。


 昨日のメイド服とは違う。ただの制服だ。

 なのに、なんだこれ。


 火の光が、橘の目の中で揺れていた。

 こいつ、ほんとに楽しそうだ。


 ジンクスが一瞬、頭の端をかすめた。


 ——かすめただけだ。


 何も浮かばなかった。

 ただ、橘の手を握っている。


 何となく……握り返してた。


 曲が変わった。

 ゆっくりした曲になった。


 橘のステップがゆるやかになる。

 俺も、なんとなくそれに合わせた。


 ぎこちなさが、少しだけ減っている。


 曲が終わった。


 拍手が聞こえた。周りから。

 キャンプファイヤーの薪がぱちぱちと弾ける音だけが残る。


 橘の手が、ふわっと離れた。


 橘の声が、いつもより静かだった。


「……ねえ、悠真くん」


「何?」


「こんなに楽しくて、思い出に残る文化祭、初めてかも」


 橘が、まっすぐこっちを見ていた。


 返す言葉を探した。

 何か気の利いたことを言いたかった。


 いや、それ以前に、何でもいいから何か返したかった。


「……俺も、まぁ、悪くなかった」


 それしか出なかった。


 橘がぱっと笑った。


「やった! 悠真くんが『悪くなかった』って言ったら最高ってことだもんね!」


 ……なんでこいつ、俺の言いたいことが全部わかってんだよ。


 ふと、視線がグラウンドの端に向いた。


 キャンプファイヤーの光が届くか届かないかの場所に、実行委員の腕章をつけた小柄な姿が見えた。


 ……柊?


 一瞬、目が合ったような気がした。

 が、すぐにその姿は向きを変えて、暗がりの方へ歩いていった。


「悠真くん、帰ろ!」


 橘の声で引き戻された。


「……ああ」



 校門を出た。


 もう暗い。街灯がぽつぽつと並木道を照らしている。


 橘と並んで歩いている。

 さっきまで握っていた手は、もう離している。


 なのに、指の感触が、まだ手のひらに残っている。


 橘が何か喋っている。メイド喫茶の話、焼きそばの話、射的の話。全部混ざっている。いつもの橘だ。


「——ちょっと寂しいな」


「え?」


「文化祭、終わっちゃったなって」


 橘が少しだけ声を落とした。


 ……こいつのこういう声に、まだ慣れない。


「また来年もあるだろ」


「そうだけどさ」


 橘が、隣で笑った。


「来年も、一緒に回ってくれる?」


「……勝手にしろ」


「やった!」


 橘がぱっと元気に戻った。


 いつもの角で別れた。

 橘が手を振って、坂の方に歩いていく。


 俺は反対側に歩き出した。


 さっきの橘の声が、頭から消えない。


 昨日までなら、何か言い聞かせていたはずなのに。

 今日は、それすらなかった。



 枕元に、耳の大きさが左右で違う猫のぬいぐるみを置いた。


 メイド喫茶も、焼きそばも、射的も、お化け屋敷も。二日間、全部楽しかった。


 ——でも、一番覚えてるのは、手。


 いつもは私が引っ張るだけなのに、今日は悠真くんも、ちゃんと握り返してくれてた。


 文化祭、終わっちゃったな……。



 グラウンドの端で、私はゴミ袋を片手に立っていた。


 キャンプファイヤーの火の向こうに、何組かが踊っている。


 先輩がいた。隣は橘先輩。


 他の人たちと同じように踊っているだけなのに、あの二人の周りだけ、少し空気が違って見えた。


 先輩が笑っていた。装飾班では見たことのない顔だった。


 橘先輩が何か言って、先輩がまた笑った。

 声は、聞こえない。


 胸が、痛い。


 ——わかっていた。ずっと。


 足元のゴミ袋を持ち直した。


 好きにならない。

 彼女がいる人を、私は好きにならない。

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