第22話 モブ、「彼氏でしょ?」と迫る学園アイドルの水着姿から必死に目を逸らす
期末テストが終わった。
最終日の回答用紙を裏返した瞬間に、数日間、俺の脳みそを支配していた数式と英単語の群れが消えた。
解放感がやばい。
——で、翌日。
朝のHR前。教室はテスト明けのテンションで浮かれている。
藤川が近くの席から寄ってきた。
「水野、今日プールだぞプール! 橘さんの水着姿、楽しみだよなー!」
「知らねえよ」
「嘘つけ! 絶対気になるだろ!」
中村さんが近くの席から、くすっと笑った。
「水野くん、顔に出てるよ」
「出てねえよ」
「ふーん」
「ほら、中村にもバレてんじゃん!」
藤川が笑いながら、俺の肩をばんばん叩いた。
……プール、か。
期末後の学年レク。
担任がホームルームで告知していたやつだ。
プール。
水着。
——水着。
……あ。
テスト勉強に追われていた数日前の夜、橘から突然送られてきたLINEを思い出す。
橘から送られてきた写真。
『これとこれ、どっちがいいと思う?』
の文面と一緒に、二枚の水着の写真。
結局、『好きにしろ』で返した。
一緒に選びには行ってない。
行かなかった。行けるかよそんなもん。
でも、あの写真は見た。見てしまった。
「悠真、顔」
矢野が隣の席で、パンを食いながら言った。
「うるさい」
「何も言ってないけど」
「何か言おうとしただろ」
「お前が先に赤くなったんだろ」
赤くなってない。なってないはずだ。気のせいだ。
◇
翠風学園プール。
プールサイドに集合した時点で、もう空気が違った。
男子が浮き足立ってる。
まあ、そうだろう。普段制服で過ごしてる相手が、いきなり水着になるんだから。
女子の方もグループで固まって、きゃっきゃやってる。
俺は矢野と並んで、プールサイドの隅で立っていた。
「矢野、あっち見るなよ」
「見てねえし。お前が見るなよ」
「見てない」
「じゃあなんで視線が泳いでるんだよ」
黙れ。
その時だった。
プールサイドの向こう側から、橘と宮田が歩いてきた。
——。
一瞬、時間が止まった気がした。
橘の水着。
白のワンピースに、腰のあたりで細いラインが一本入っている。
派手じゃない。むしろシンプルだ。
本当にあの写真のやつ着てきやがった……。
無理だ。
なんで。なんでこんなに目が離せねえんだ。
制服の橘はいつも見ている。私服も何回か見た。
でもこれは、違う。次元が違う。
駄目だ駄目だ駄目だ。
見るな。
目、逸らせ。
逸らせないんだが!?
周りの男子がざわっとしてるのが、空気でわかる。
女子からも「うわ、橘さんスタイルよくない?」「やば」みたいな声が小さく聞こえた。
橘は何も気にしてない顔で、まっすぐこっちに歩いてくる。
宮田が隣で涼しい顔をしてる。
「悠真くーん!」
橘が手を振った。
心臓がうるさい。
「お、おう」
声、裏返ってない。大丈夫。
橘が俺の隣まで来た。
「ねえ、日焼け止め塗ってくれない? 背中届かないの」
は?
「無理だろそれは」
「えー、なんで?」
「なんでって……周り見ろ! クラスのやつらが見てるだろ!」
「彼氏でしょ?」
その理論やめろ。
矢野が、手のひらで額を押さえた。
「お前、顔」
「うるさい」
「事実」
宮田が、プールサイドに座りながら、すっと俺の方を見た。
「水野、あんた真っ赤だよ」
「暑いだけだ」
「七月だもんね」
嘘は言ってない。七月は暑い。暑いから赤いだけだ。
◇
プールに入った。
——つめた。
水が、冷たい。
足先からじわっと入ってくる冷たさに、頭の中の熱が少しだけ引いた気がした。
……よし。これなら、まだ大丈夫だ。
準備運動が終わり、先生から自由時間の合図が出た。
周りのクラスメイトたちは基本、同性同士で固まって好き勝手に泳いだり水をかけ合ったりしている。
そんな中、俺たちは当然のように四人で浅い方に固まって、適当にぷかぷかしていた。
男女合同のレクとはいえ、こんな堂々と男子側に混ざってくる女子は橘と宮田くらいのもので、ただでさえ目立っている気がする。
「水、冷たくて気持ちいいね~」
橘が、水面を手でぱしゃぱしゃしながら言った。
それはいい。問題は距離だ。
近い。
水中だと距離感がさらにバグる。
こいつの距離感はバグってるのに、水の中だと物理的にもっと近づいてくる。
「橘、近い!」
「え~そう? 普通じゃない?」
普通じゃねえ。
「あんた泳ぎに来たの? 水野にくっつきに来たの?」
宮田が、水の中から涼しい声で突っ込んだ。
「泳ぎに来たに決まってるでしょ!」
橘がぷくっと頬を膨らませた。
「じゃあ泳ぎなよ」
「……今から泳ぐもん」
橘が、ぐいっと水に潜った。
数秒後、俺のすぐ横から顔を出した。
近ぇ!!
「ねえ悠真くん、溺れたら助けてくれる?」
「溺れんなよまず!」
以前も同じこと言った気がする。
こいつは懲りない。
「えへへ、冗談冗談」
橘が笑いながら、水をぱしゃっとこっちにかけてきた。
「おい!」
「ごめんごめん、ちょっとだけだよ?」
ちょっとじゃねえ。顔に来たぞ。
俺は反射的にプールサイドに逃げた。
水から上がって、縁に座る。
橘が水の中から見上げてきた。
「悠真くん、なんで逃げるの~」
「逃げてない。休憩だ」
「嘘だー」
橘がプールサイドの縁に手をかけて、にこっと笑った。
……だから、その顔で見るな。
水滴が、橘の髪から落ちていく。
肩にかかった水が、光を反射している。
見るな。
意識して目を逸らそうとするが、うまく逸らせない。
「おい悠真、降りてこい」
矢野が水の中から声をかけてきた。
「いや、俺はしばらくここで——」
「逃げんな」
「逃げてない!」
宮田が、水の中から半目でこっちを見ていた。
「水野、あんた泳がないの?」
「……休憩中だ」
「ふーん」
それだけ言って、宮田は橘の方に泳いでいった。
◇
プールの時間が終わって、更衣室。
矢野と並んで着替えながら、俺はまだ心臓がうるさかった。
「矢野」
「ん?」
「……今日、やばかったよな」
「何が」
「……いや、全部」
矢野が、制服のシャツのボタンを留めながら、ふっと笑った。
「お前、ずっと見てたもんな」
「見てない」
「見てた」
「見て——」
「分かりやすかったぞ」
反論の言葉が見つからなかった。
着替えを終えて、廊下に出る。
教室に向かう途中、矢野と並んで歩いた。
「なあ、矢野」
「ん?」
「宮田の言ってた話、あったじゃん。橘が昔は人に頼らなかったって」
「ああ」
「……想像できねぇ」
口には出した。
ずっと頭の中でぐるぐるしてたことが、そのまま出た。
あの、図書室で「ねぇ悠真くん、これどうやるの?」とすぐ降参してくる橘。
あいつが、昔は全部一人でやってたって。
矢野は前を向いたまま、少し間を置いて言った。
「まあな。橘、今と全然違うんだろうな」
「だよな」
「お前の前だと特にな」
「……どういう意味だ」
「そのまんまの意味」
矢野はそれ以上何も言わず、教室の扉を開けた。
◇
放課後。
四人で帰る。
駅前までの道を、橘と宮田が前、俺と矢野が後ろで歩いた。
七月の夕方はまだ明るくて、空がオレンジに染まりかけている。
「今日のプール、楽しかったね~」
橘が振り返って言った。
「まあな」
「水野、あんたほとんど逃げ回ってたじゃん」
宮田が、半目でこっちを見た。
「逃げてねえよ。……ちゃんと泳いだだろ」
「紗月に引きずり込まれたのカウントしていいならね」
……否定できない。
「悠真くん、もっと一緒に泳ぎたかったなぁ」
「……泳いだだろ、一応」
「じゃあ次はもっとだね!」
「次って、もうプールは——」
「夏休みに行けばいいじゃん!」
もう先のことまで決めてる。こいつはいつもそうだ。
駅前の交差点に着いた。
信号が赤になる。
「じゃ、あたしたちこっちだから」
宮田が反対方向を指した。
「悠真くん」
橘が、俺の方を向いた。
「今日、楽しかったね」
いつものテンションより、ちょっとだけ落ち着いた声だった。
にこっと笑った顔が、夕日に照らされてる。
「……ああ、まあ、悪くはなかった」
「えへへ」
橘が、小さく笑った。
信号が青になって、橘と宮田が反対側に渡っていく。
矢野が横から、ぼそっと言った。
「悠真、お前さ」
「何」
「『悪くはなかった』って、お前的には『最高だった』だろ」
「……うるせえ」
矢野が小さく笑った。
俺たちは信号を渡って、いつもの角で別れた。
「じゃな」
「おう」
一人になった帰り道。
橘の「今日、楽しかったね」が、頭の中でリピートしてる。
楽しかった、か。
……まあ。
悪くはなかった。
本当に、悪くはなかったんだよな。
住宅街の通りに入って、街灯が一つ灯った。
空がまだ明るい。七月の夕方は、なかなか暗くならない。
あいつの水着姿が、まだ頭の隅にこびりついてる。
——忘れろ。今すぐ忘れろ。
無理だった。




