【20】試合開始前から、もう普通の草野球じゃありません。〜知ってる先生が敵ベンチにいる謎〜
それから、速水先生は頑張った。
森谷先生の指導の元、噂になった野球部のグラウンドの隅ではなく、普通に陸上部のすみっこをコーチに許可を貰い、毎日ピッチング練習。
そして、菱田先生も。
練習中はメガホンを持ち、15分に一度程度「頑張ってください!速水先生!」と言い、笑顔を絶やさなかった。
それは菱田先生にとって、表情筋を絶えず笑顔にするという修行であったとしても。
そして、バッティングセンターでも――
毎回、必ず最初に打たせられる菱田先生。
理由を訊いても、速水先生と森谷先生に揃って、「菱田先生は野球経験者ですから!」と押し切られる。
そうして毎回ボテボテの当たり――
だが、森谷先生が明るく励ます。
「久しぶりだからですよ!」
速水先生も爽やかに励ます。
「大丈夫です!
すぐ勘が戻りますよ!」
その善意の言葉が、菱田先生の神経をゴリゴリと削っていく。
(もう……そんな励ましいらない……!!
それに勘なんて戻さなくて良いんですよ!!
俺、試合に出ないんだから!!)
そして、速水先生は、毎回ホームラン。
森谷先生が歓声を上げる。
速水先生が嬉しそうに笑う。
その横で、菱田先生はバットを持ったまま立ち尽くすしかなかったのである。
一方、綾小路家では着々と準備が進んでいた。
直哉は相変わらずのんびりと、
「お義母さんも志穂さんも、張り切り過ぎですよ〜」と言っていたが、直哉は知らない。
その張り切り具合は、自分の想像の1億倍凄いことを。
菊乃はお百度参りは済ませていたので、今度は『断ち物』を実行していた。
自分の食事を別に作り、塩を絶ち、菊乃が愛飲している緑茶『高嶺の香(1キログラムあたり 118万円)』も絶った。
そして、志穂は一日も欠かさず将門塚に通い続けた。
それに、直哉の応援に行くために、莉緒のワンピースを三枚新調した。
一見、ヨーロッパの王族の子供が着るようなワンピース一式。
しかし、全て紫外線AとB波を完全にシャットダウンする素材で出来ている。
それと、莉緒の「お父さんを応援するのに、バイオリン弾こうかな!」という無邪気な一言に、菊乃がそろえたのは――
演奏・音響のクオリティを高める物――PAシステム。
屋外の音は想像以上に四方に逃げてしまう。
そこで、JBL EON ONE CompactやBOSE S1 Proのような、バッテリー駆動で高音質なポータブルPAスピーカーを用意。
次に、バイオリン用マイク、ピックアップ。
風の音を拾いにくい楽器装着型のコンデンサーマイクや、弦の振動を直接拾うピックアップが必要だからだ。
そして、マイクの風防のためのウィンドスクリーン。
マイクに風が当たると「ボコボコ」と大きな雑音が入ってしまうので、屋外では少しの風でも必須だからだ。
そうして天候・風との戦いに備える物――
大型の譜面台用クリップ・透明ポリカ板。
風で楽譜がめくれないよう、楽譜全体を覆う透明なプラスチック板と強力なクリップだ。
もちろん譜面台のウェイト(重り)も用意。
風で譜面台ごと倒れるのを防ぐため、脚に載せる砂袋や水を入れるタイプのウォーターウェイトだ。
そして、莉緒の自立式タープテントも。
直射日光や突然の雨から、大切なバイオリンと音響機材を完全に守るための、屋根付きのワンタッチタープだ。
「お父さんにサプライズしたいな!」
という莉緒の一言で、それらは全てレンタル倉庫に仕舞われた。
だが、直哉は多忙で中々野球の練習が出来ないでいた。
しかし直哉的には(まあ、草野球だし。旅行に行けない莉緒の思い出作りになればいい♪)くらいのテンション。
その一方で、若き教師がフルパワーで練習していることなど、微塵も想像すらしていなかった。
そうして、ゴールデンウイークが始まる前の最後の登校日。
生徒達は浮かれに浮かれていた。
莉緒もお父さんの草野球で頭がいっぱいだ。
すると、紬がワクワクを隠せない様子で言った。
「私もはやみんの枝分かれした進化の結果を見届けるために、草野球見に行くから!
あ!莉緒は気にしないで!
忍んで撮影するから!」
莉緒がビックリして言う。
「紬……ハワイに、行くんじゃないの!?」
紬はアッサリと答える。
「あーあれは嘘!
はやみんが何かを探ろうとしてたから、黙らせるために言ったんだ♪
海外旅行って今、社会情勢的に楽しめないし。
だから、家で思いっきり贅沢するんだって家族は張り切ってるんだよね〜!
だからさあ、ゴールデンウイーク中も一緒に遊ぼうね!」
莉緒が嬉しそうに「うん!」と答えた。
そうして、HRが終わると、莉緒は紬と30分後に合流する約束をして、一人裏庭に行った。
その手にはバイオリンケースが握られている。
そこには誰にも知られることなく――
藤が咲き、甘い香りが漂っていた。
地面にも爽やかなブルーのネモフィラが少しのスペースを埋め尽くすように咲いていた。
ひっそりと咲く芍薬の花の美しさ。
莉緒はそんな風景に感動しながら、バイオリンを弾く。
曲はもちろん『カッコよくてスマン☆』だ。
この短い曲を莉緒は何度も弾いた。
速水先生との思い出が蘇る。
そして、風が吹き、莉緒の腰まであるストレートの黒髪が、揺れる。
その時、莉緒は気づいた。
速水先生がベンチに座っていたのだ。
莉緒は演奏をやめなかった。
先生も、何も言わなかった。
二人の間には、四月の終わりの風とバイオリンの音色だけ。
そうして、紬との約束の時間になって、莉緒が演奏を止めると――
速水先生はいなかった。
ベンチの上に芍薬が一輪置かれていた。
そうして、草野球の試合の日がやって来た。
淡い黄色のワンピースを着た莉緒は、菊乃によって完全防備されていた。
綾小路家が座るベンチには、前後に観客は一人もいない。
もちろん、菊乃の手配済みだ。
その代わり、簡易テントが張られ、携帯冷蔵庫まである。
そして、志穂は全身を応援グッズで固めていた。
白地に真っ赤で『必勝』と書かれた鉢巻きをおでこに締め、背中にやはり『必勝』と真っ赤で書かれた青いハッピを着ている。
もちろん動きやすい様にパンツスタイルだ。
そして、片手にNASA監修の望遠鏡、片手に応援グッズを持っている。
しかもまだまだ大量に詰まった袋を足元に置いていた。
普段のキャリア官僚の姿はどこにもない。
そして、財務省とSPの監督達がベンチ入りしだす。
莉緒もこの日の為に用意して貰った、
志穂とお揃いの望遠鏡で覗いてみた。
財務省の方は、「知ってる人がいる〜❤️」とはしゃいでいた莉緒だったが、SP側を見て、固まる。
何故ならそこには――
SPチームのユニホームに身を包み、監督らしき人の横に立ち、コーチのようにタブレットを持った菱田先生がいたのだった。
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