二 嫁の話
家の中から名前を呼ばれたので、木刀を置いて中に入ると、小柄な狸のような
顔をしたお婆さんが小作人三人のお椀を片付け私の朝食を用意していた。
隣の菊婆だと思い出した。
菊婆は何年も前に連れ添いを亡くして今年で60歳になっていた。
妻に先立たれた私は菊婆に食事と洗濯など身の回りの世話を
してもらっていたようだ。
「小次郎さんは今年で幾つになった? 奥さんを亡くして何年になる?」
「確か・・・・今年で三十五歳だよ、私が・・・・二十二歳の時だから
十三年になるかな」
「小次郎さん自分の歳も分からなくなったの? それで隣村の小作人の娘で器量
が良くて気さくな子がいるんだけど嫁にどうかと?」
「今年の夏の終わりに村の古文書の言い伝え通りに旅に出なければならない。
嫁に貰っても可哀そうな思いをさせてしまう」
「そうですか? 小次郎さんの嫁になれば小作人の家も援助して貰えると
思ったのですけど?」
「私も隣村に器量の良い小作人の娘がいることは噂で聞いていたが娘の歳は?」
「確か21歳だと聞いています」
「奉公に行くのも、嫁に行くにも少し歳が多いのでは?」
「確か、お爺さんが孫娘を可愛がり嫁にも行かせなかったと聞いています。
それに去年、そのお爺さんが亡くなったようです」
「気の毒な話だが・・・・そうだ、従弟の信一郎の嫁が良い。親も大分前に
亡くなり、今は1人暮らしで嫁を貰えれば落ち着くと思う。それから私が
遠くへ行く事は村の言い伝えで秘密なので、誰にも言わないように」
「信一郎さんですか? 私は小次郎さんに嫁の話を持って来たのに、娘の親にも
村の長の嫁にすると話をしてしまった」
「まだ内緒だが今年中に次の長を信一郎に引き継いで貰おうと考えている」
「小次郎さんと信一郎さんは血が繋がっていないのでは?」
この時代はまだ血統を大事にしていた。
「叔父の後妻の連れ子で血は繋がっていないが信一郎でも良いのでは?」
「血のつながりは私が勝手に考えた事で、長い間村の長は同じ血筋だったと
思っただけです。それに信一郎さんは影で小次郎さんの悪口を言って
いるらしい。叔父さんが生きている頃に、散々小次郎さんと比べられたそうです。
それでひねくれた性格になったと皆も言っています」
「叔父も私の父親と比較されて育ったので、信一郎には厳しかったかもしれない。
私も信一郎に会う機会があったら嫁の話をして見る。菊婆は娘の親に会って
話をまとめて欲しい。それから娘の名前は?」
「りんと言っていました。字では鈴と書くそうです。信一郎さんを次の長に
決めているのは戻れないからですね? その時この家はどうなるのですか?」
「大丈夫。家と小作人と菊婆は今のままで良いようにと信一郎には頼んで置く」
「分かりました。安心しました。私も娘の両親に相談しに行き娘の気持ちも
聞いてきます」
安堵したようで菊婆はご飯を用意してくれた。
朝飯は白いご飯に野菜のみそ汁と漬物だった。
白いご飯が食えるだけでも有難かった。
1日の食事は2食だが野良仕事などで体を使うときは、昼に塩むすびと漬物を
田畑に持って行き食べていた。
夜は朝と同じだが、たまに川魚の煮付が付いた。
これも新政府になって多少でも豊になっていると私は感じていた。